ことわざで「早いが勝」とも言えば、「残り物に福あり」とも言うが、一体どちらが本当なのだ?
いや、たぶんどちらも本当なのだろう。
特に恋人を選ぶ時などにどちらか一方が強く意識されるのだろうが、それは人それぞれでどちらの場合でもそれで納得できればよいのだろう。
それで世の中丸く収まるなら結構なことではないか。
それに人間関係で大切なのは貰うことより与えることではないか?
オレは与えられるだろうか…。
(心配するな、与えてきたさ、苦痛を)。
もう、勘弁してくれ…。
ことわざで「早いが勝」とも言えば、「残り物に福あり」とも言うが、一体どちらが本当なのだ?
いや、たぶんどちらも本当なのだろう。
特に恋人を選ぶ時などにどちらか一方が強く意識されるのだろうが、それは人それぞれでどちらの場合でもそれで納得できればよいのだろう。
それで世の中丸く収まるなら結構なことではないか。
それに人間関係で大切なのは貰うことより与えることではないか?
オレは与えられるだろうか…。
(心配するな、与えてきたさ、苦痛を)。
もう、勘弁してくれ…。
それまで「あと十年生きられればいいや…」と言っていた74歳の母が数日前突然「あと二十年生きる!」と言い出しました。
いったい何があったのだろう?
きのう、職場でそのことを話したらパートのスタッフのIさんが親指を立てて「これよ!男よ!」と元気に言うので「でも、そういうのは世話をするのが面倒臭いと嫌がっていたからないだろう」と言っておきました。
でも、本当のことは分かりません。
家の生活は母が受給している遺族年金が頼りなので長生きしてもらうのはいいのですが、母親は父親だけのものであって欲しいというのが息子としての僕の本音なのです。
二日前の25日(水)は大安の日だったので年末ジャンボ宝くじを連番で20枚購入いたしました。
縁起のいい日に宝くじを買った人がみな高額当選者になるわけではないことは頭では承知しているのですが、つい縁起をかついでしまう僕でした。
今日はその一等前後賞合わせて10億円という当選金額が職場で話題になり、みんなの夢がどんどん膨らんで楽しかったです。
まあ、オレが当たったらこっそり行方をくらますけどな、フフ…。
話のネタになるだけでも買った甲斐がありました。
客A:フェラーリください。
店員:フェラーリと申しますとあのフェラーリでしょうか…。
客A:そうです。あのフェラーリです。
店員:申し訳ありません。あのフェラーリは当店では取り扱ってないのですが…。
客A:そうですか。分かりました。ではランボルギーニください。
店員:ランボルギーニと申しますとあのランボルギーニでしょうか…。
客A:そうです。あのランボルギーニです。
店員:申し訳ありません。あのランボルギーニは当店では取り扱ってないのですが…。
客A:そうですか。分かりました。ではポルシェください。
店員:ポルシェと申しますとあのポルシェでしょうか…。
客A:そうです。あのポルシェです。
店員:申し訳ありません。あのポルシェは当店では取り扱ってないのですが…。
客A:そうですか。分かりました。ではメルセデスください。
店員:メルセデスと申しますとあのメルセデスでしょうか…。
客B:え~い、あんたらええ加減にせんかい!
とあるコンビニで…
客A:フェラーリください。
店員:フェラーリですか、少々お待ちください。
客B:(え~っ、探すの~?)←心の声
店員:申し訳ありません。当店ではフェラーリは扱ってないようです。
客A:そうですか。分かりました。
客B:(お、おかしい!この人たち、絶対におかしい!)
市役所の市民課の職員に持参した写真を提示して「この娘ください」と言っても「はい、分かりました。少々お待ちください」などという展開は期待できないだろうな、ふふ…。
精神障碍者たちのニーズって一体何だろう。
行政側がそれを把握できたとして果たしてそれに応えられるのだろうか。
生存権や国の社会的使命は憲法25条で保障されているけど、僕の苦悩はそういうことでは解消されないような気がするのです。
だいたい僕は貧困が原因で精神病になったわけではないのです。
当時の日本は社会全体がバブル景気に沸いていて国民の意識も軽躁気味で将来についても楽観的だったのです。
でも、個人的には苦しかった。
容姿や能力についての劣等感と自己の存在そのものに関する無価値観がありました。
こういう人間が行政のサービス(奉仕)を受けたとしてもどれほど効果があるでしょうか。
行政が外側から一方的に尽くすからと言って自分のことを王様あるいは乞食と勘違いする精神障碍者はいないと思うからこそ、本人が抱える問題はそのまま残ると思うのです。
それに政治の言葉は論理的だから精神的な問題を抱えている人の胸には響かないと思うのです。
健康で文化的な最低限度の生活を営む権利って言うけど、僕にはいま一つ分からないのです。
とにかくヒトのこころは割り切れないから悪い部分だけ取り除いて新しいものに変えるというようなわけにはいかないのです。
本人が生かされているありがたみに少しずつ気づいていくしかないのです。
自分の人生を楽にするのは己の気づきなのです。
これを肯定的に捉えてもらいたいです。
偉そうに言ってすまん。
人間関係って言うけど相手と自分をつなぐ線なんて見えないのね。
それはどこにあるのかというと本人の記憶の中にあるのね。
でも記憶はお互いに不確かだから文書にしておくのね。
そして文書は文字でできているのね。
文字は言葉を目に見える記号で表したものなのね。
つまり言葉なしには人間関係は成り立たないのね。
けど時には言葉より視覚の方が分かりやすかったりもするのね。
まあ、人間は演技ができるから絶対とは言えないけどね。
傷ついているのに傷ついていないフリもできるし、愛しているのに愛していないフリもできる。
また、その逆も然り。
アダムとイブが禁断の木の実を食べて身につけたのが隠すという行為だったのね。
隠すというのは知性の証なのね。
ありのままに見られないのが知性のせいだとは何とも皮肉な結果だけどね。
「幻聴が聴こえても関係ない」。
今日、友人のOさんのお誘いで所沢西武百貨店8階にあるレストランでお昼ご飯を一緒に取ったのですが、その時の会話で一番印象に残った言葉です。
これは僕の「酷い幻聴が聴こえたら酷い気持ちになるのは正常な反応ではないかな」という言葉に対する返事だったのですが、カトリック教徒の彼にはキリストや神に守られているという意識があるので、いくら幻聴があっても気にならないそうです。
僕と彼には処方されていた抗精神病薬を勝手に断薬して症状が再発したという共通の経験があり、服薬の重要性はお互い認識しているのですが、それに加えて幼児洗礼を受けている彼には篤い信仰心があるのでした。
だから、僕はあえて反論しませんでした。
ただ、彼の思いに報いてあげてくださいと祈るばかりです。
僕の家の電話はナンバーディスプレイの設定をしているので、着信拒否している非通知電話がかかってきたことも分かるんだけど、その時間帯が気になる。
10日(火)には早朝の6時47分に、今日12日(木)には深夜の1時31分にかかってきている。
う~ん、誰?
妄想になりそうだ…。
なんか僕に助けを求めているんじゃないかっていう…。