他人の悪口を言い散らす位なら対決した方がよい。
そのためには争点を明らかにせねばならない。
その人のどこが気に食わないのか。
それは何故か。
自己認識した方がよい。
そうすれば、少なくとも、己の世界観は変えられるかもしれない。
悪意はあっても才能がある人は面白い。
悪口にもいちいち工夫が凝らされているから。
それに対して、詰まらない人は「馬鹿」としか言わない。
いや、言えない。
規律に縛られたところで多くの時間を費やしてきたからだろう。
だからそれ以外ではまるでダメ。
一言で言って退屈な人。
悪意は少ないが、愛も少ないのだろう。
死が怖いのは死んだらしたいことができなくなると思うからだ。
ならば生きているうちにしたいことは全部してしまえ。
と考えるのも無理はないかな。
そうすれば安らかに死ねるような気がするから。
だから自由を求める。
僕などはその通りにしたら鬱になりそうな気がするけど。
理不尽なことに耐えること。
それにどんなメリットがあるのだろうか。
何が理不尽かというと、自分はいずれ死ぬということである。
折角、いろんな経験を積んできたのに、死んだら無になってしまうじゃないかと。
でも、本当にそうなのだろうか。
それはそう見えるだけではないか。
生まれた以上、死ぬのは世の定めではないか。
けれども、人間には知恵があるから、個別に得たノウハウを全体で共有することで、それに抗ってきたのだ。
人間は個人としては死ぬだろうが、全体に奉仕することで、その恐怖を乗り越えようとしてきたのだ。
だからこそ、全体にはそれに応えるだけの価値がなければならない。
昔から頭がいいと見なされるのは合理的な思考のできる人のことが多い。
だけど、本当かな。
彼らは、物事の処理には長けているけど、創造性が乏しいような気がする。
一言で言って詰まらんのだ。
まあ、多忙な社会には必要な人材であるのは確かだが。
だけど、そういう人ばかりでははっきり言って困る。
本当は、人の能力なんて、いつどこで役に立つか分からないのだから、あまり頭のよさを一面的に決めつけないでほしい。
価値観は多様な方が人生豊かになるから。
だから、断捨離も感心しない。
だいたいそんなに効率的になってどうするの。
他に何かしたいことがあるなら別だけど。
組織を維持するためには更新せねばならない。
組織を運営するのは生き物だから。
そうしないと腐敗してしまう。
さらに前進するためには挑戦せねばならない。
トライアル・アンド・エラーが必要なのはそのためだ。
実際、人は失敗から多くのことを学んできた。
だから、間違えたら、まずそれを素直に認めねばならないのだ。
一番大切なのは精神を生かすことだ。
必ずしも相手に勝つことではない。
お互いにとって最も望ましいのは共存共栄だ。
だから目指すべきはそれだと思う。
ただしそれは争いを初めから無くすことを意味しない。
起こるべきことは起こった方が良いのだ。
それによって人々の認識は深まるから。