河合隼雄・村上春樹著『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』という文庫本より引用。<o:p></o:p>
P.123<o:p></o:p>
村上 つくり話をつくる病いのある人というのはいないのですか。<o:p></o:p>
河合 そういう人はやはり心の病いだから、できませんね。<o:p></o:p>
村上 そういうことができないのですね。<o:p></o:p>
河合 できないのです。もう逃げられないのですね。ただもう来なくなったり、箱庭をつくらなくなったりする。<o:p></o:p>
村上 では、病いのある人がつくれば、それなりに物語というものが出てくるということですね。<o:p></o:p>
河合 病いのある人が箱庭をつくる場合、それが変化していく様子の記録写真を見ると、しろうとでも、わりとなんとなくわかるものです。<o:p></o:p>
ところが、ふつうに暮らしている人が箱庭にそれらしく置いたものは、これは見事におもしろくないのです。つまりいわゆる正常、健常といわれる人は、要するに、つまらないもの、逸脱のないものを置く才能を持っているのですよ。<o:p></o:p>
村上 つまり朝起きて、会社へ行って、仕事して、帰ってくるというのは、ある種のそういう才能なわけですね。<o:p></o:p>
河合 才能ですよ。<o:p></o:p>
村上 しかし、その病いを持っている人の中にも、非常におもしろいのと、まあまあ、おもしろいというのと、レベルがあるのでしょう。<o:p></o:p>
河合 ある程度ありますね。やはり深さのレベルに違いがあって、中にはすごいのがありますね。<o:p></o:p>
逆に健常と言われている人がほんとうにコミットして作ったものはすごいですよ。だけど、それはその人にとってはものすごい仕事をすることなので、よほど条件が整わないとできません。<o:p></o:p>
村上 つくった人の病いの深さと、それを人が見た時の感動の強さというのは、比例するのですか。<o:p></o:p>
河合 いや、そうはいきません。なかなかむずかしいです。病いがあんまり深いと、その全部を表現できませんから。そうすると、一部だけになったり、かえって逃げよう逃げようということが先立ちますから。だから病いの深さと作品の深さとは、ちょっと一致しないところがあります。<o:p></o:p>
村上 人間は病んでいれば、だれにでも物語をつくる能力が、潜在的にはあるということなのでしょうか。<o:p></o:p>
河合 それはむずかしいところで、人間はある意味では全員病人であると言えるし、またいわゆる病んでいる人であっても、それを表現するだけの力がないと形になってこないんです。病んでいる人の場合は、疲れとか恐ろしさとか、そういうのがダーッと出るばかりで、物語にまでなかなかなってこないということもあります。<o:p></o:p>
村上 芸術家、クリエートする人間というのも、人はだれでも病んでいるという意味においては、病んでいるということは言えますか?<o:p></o:p>
河合 もちろんそうです。<o:p></o:p>
村上 それにプラスして、健常でなくてはならないのですね。<o:p></o:p>
河合 それは表現という形にする力を持っていないとだめだ、ということになるでしょうね。それと、芸術家の人は、時代の病いとか文化の病いを引き受ける力を持っているということでしょう。<o:p></o:p>
ですから、それは個人的に病みつつも、個人的な病いをちょっと超えるということでしょう。個人的な病いを越えた、時代の病いとか文化の病いというものを引き受けていることで、その人の表現が普遍性を持ってくるのです。<o:p></o:p>
う~ん。<o:p></o:p>
芸術家やクリエーターたちは、神経を擦り減らすような精神的な戦いをしながら、作品を生み出しているのかな?<o:p></o:p>
だとしたら尊敬に値するな。<o:p></o:p>
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