おれは思うのだが、「頭のいい子供」より「幸せになれる子供」の育て方を教えるべきではないかと。
常識的に生きるより創造的に生きたい。
おれの場合そっちの方が幸せだから。
他人からバカにされないようにという理由で知識を集めるのは虚しい。
窮屈で全然楽しくない。
それよりも創造につながるような知識が欲しい。
「終わりなき日常を生きろ」なんて言葉は真に受けない方がいい。
こんなことを言う奴は「自分には希望も計画もありません」と白状しているようなものだから。
普遍的な言説ではないので相手にする必要はない。
たぶん、こういう発想になるのは消費の割に生産が乏しい生活をしているからだろう。
テキストの内容を消化して誰かに教えることはできても、それは他者からの受け売り(別の言い方をすれば、感染させられたことを感染させているだけ)だから、虚しくなるのだ。
この方の人生には「種を蒔かなければ生えない」という単純な事実が抜け落ちているように見える。
先生なのに生徒の成長を願うわけでもなく、ただ命令を下せる手先が欲しいだけ(そうすることでかろうじて生の実感を保てるのだろう)。
だいたい「感情の劣化」とか嘆いている本人の核心が空虚だから仕事に誇りが持てなくなるのではないか。
そもそもこの先生に何かを犠牲にしてでも伝えたいことなんてあるのだろうか。
よくよく考えてみると、おれは我儘な人が嫌いなのではない。
自覚のあるなしにかかわらず、みんな我儘に生きざるを得ないから。
むしろ、おれが許せないのは無責任な人なのだ。
自分で蒔いた種を自分で刈り取らないような。
時に熱く時に冷たく。
時に優しく時に冷酷に。
精神が分裂しているように見えるが、己の心に正直になるとこうなる。
それでもぬるま湯のような奴になるよりはマシだと思っている。
そういう奴の目には輝きがないから。
誰だってゾンビのような奴と一緒にいたいとは思わないだろ。
そういう奴の煮え切らない態度もまた他者を損なっていることに気づくべきだ。
人はみな平等と言いながら相手を取っ替え引っ替えする人。
変だと思うよ。
だって本当にそうなら同じ結果しか待ってないから。
それなのに何故一人の人で満足できないのかと。
おかしい、という印象を拭いきれない。
言っていることとやっていることが違うじゃないかと。
何かちぐはぐな感じ。
精神的に病んでいるのかも。
カトリックは普遍という意味だが、変態社会学者自身の変態性を普遍化するためにあるわけではない。
教えを自分に都合のいいように解釈しないで欲しいものだ。
「神のようになりたい」という動機は同じでも、天使が神に倣おうとするのに対して、悪魔はその地位を奪おうとする。
それにしても教会を隠れ蓑にするなんて狡賢い人が考えそうなことだね。
善良な人はまさかこんなところに悪魔がいるなんて思わないものね。