中絶権を容認することが女性に対する本当の優しさなんだろうか。
はなはだ疑問である。
それは政治の怠慢ではないのか。
社会から貧困をなくし子供を産み育てやすくしようと努力するのが正しい政治の在り方ではないのか。
この世には「信じる者は救われる」という人もいれば逆に「信じる者は救われない」という人もいる。
一体どちらが本当のことを言ってるのか迷うが実際は信じた方がよい場合と信じない方がよい場合があるということなんじゃないの。
もちろん真理を悟れたらそれに越したことはないけどそれは信じるというよりむしろ理解するからもたらされるものだからね。
それを心得て置こう。
統合失調症はコンピュータに例えるならハードウェアというよりはソフトウェアの問題ではないかと。
つまり脳がクラッシュしたのは神経回路の問題というよりは無理なプログラムを強制的に作動させようとしたためではないかと。
だから統合失調症は分子生物学的なアプローチだけでは不十分ではないかと。
そういう疑いを持ってます。
むしろ文化の病のような気がするのでそのような研究もしてほしいです。
弱者を見ても優しくなれない(否定)自分を意識させられるのが嫌だから彼らを目の前から排除(否定)しようとするのかなあ。
しかしそもそも「否定の否定」は本当に肯定なのかなあ。
論理的にはそうなるが現実は違うんじゃないの。
そんな疑問が湧いてきました。
悪の弁証法。
実際、優しくない自分を否定しても優しくなるわけじゃない。
優しさを頭で考えることはできても気持ちは全然そうじゃないなんてことはあり得る。
要するに頭と心が乖離してるのだ。
だからそういう人はもっと感覚を大切にした方がよいと思う次第。
中絶禁止について。
アメリカで問題になってますが。
「××するな」という話法で語るとうまくいかないだろうなと。
「中絶するな」と言われると人の脳はまず「中絶する」を思い浮かべてから否定しようとするので中絶を頭の中から消去することができないのだ。
だから神経症的に葛藤してしまう。
そこで「××して」という話法で語るのがよいと思われる。
この場合「赤ちゃんを大切にして」というように。
しかしそうは言っても実際赤ちゃんを大切にできる環境も整備せねばならないのはそうでないともぐりの医者による違法な中絶手術によって赤ちゃんの生命だけでなく母体まで危険にさらされることになるからだ。
そんなことはあってはならない。