松本卓也著『人はみな妄想する――ジャック・ラカンと鑑別診断の思想』から抜粋。
P.100
(1)パラノイアの固着点はナルシシズムにある。フロイトはパラノイアの発病のきっかけとして、「女性に対する幻滅に基づく傍流の強大化」や「男性との社会的関係における不幸に基づく直接的な退却的鬱積」などを挙げている。これらの発病のきっかけがどのような共通の構造をもっているのかは明らかにされていないが、ひとまずはパラノイアでは女性/男性といった性別に関わる重大事が発病のきっかけとなると考えられる。
これらのきっかけによって、リビードは対象から撤収され、撤収されたリビードの全量が自我に備給される。自我へのリビードの撤収はナルシシズムへの退行をひきおこし、究極的には世界没落体験にまで至る。
また、退行によって到達されたナルシシズムは、自分自身の身体像を性愛の対象とするものであった。この性愛の傾向は、パラノイア患者を、自分と同性の人物を性愛の対象として選択する無意識的な同性愛へと方向づける。つまり、ナルシシズムには同性愛へと進展するのである。しかし、パラノイア患者はこの同性愛的な傾向を自分自身の性愛の傾向として認めることができない。そのため、「私は彼を愛する」という同性愛的欲望の命題に対して防衛がなされることになる。例えば、「私は彼を愛する」という同性愛的欲望の命題は、防衛の結果、「私は彼を愛さない、私は彼を憎む」という命題へと変換される。さらに、この命題が外的世界の「彼」に向けて投射され、主体と客体が入れ替わると、「彼が私を憎む」という命題に変換される。こうして迫害妄想が成立する。さらに、この投射という主客転倒のメカニズムによって、崩壊していた外的世界は、迫害者としての「彼」を中心として妄想的な仕方で回復される。パラノイア患者は、自己のうちに抑圧された同性愛的欲望を外的世界へと投射することによって、崩壊した外的世界を作り直しているのである。
(2)スキゾフレニーの発病のきっかけについて、フロイトは詳しく述べていない。はっきりしているのは、パラノイアに比して、スキゾフレニーの固着点はナルシシズムより早期にあり、自体性愛そのものに近い位置にあるということである。それゆえ、スキゾフレニーにおける退行は、ナルシシズムに留まることなく、対象愛を完全に破棄し、リビードを身体の諸部分に備給する幼児的な性愛段階に立ち返るまでに至る。
そのため、スキゾフレニーでは同性愛的欲望は機能しておらず、この欲望を外的世界へと投射することに由来する妄想も目立たないことになる。しかし、スキゾフレニーもパラノイアと同じく、世界没落(対象愛の放棄)によって失われた外的世界を回復しようとする試みであるという点は共通している。しかし、スキゾフレニーではその回復に際して投射のメカニズムは用いられず、過去の対象を直接的に取り戻そうとする幻覚性のメカニズムがもちいられるという点に、パラノイアとの違いがある。
幻覚性のメカニズムによる外的世界の回復の結果、スキゾフレニー患者にとっての外的世界は、現実とほとんど一致しないものになってしまう。こうしてスキゾフレニー患者は現実指南力を失い、最終的には痴呆状態にまで至ってしまう。ただし、パラノイアとスキゾフレニーは完全に異なった疾患ではなく、それぞれの病像はお互いに混ざり合うことがある。それゆえ、パラノイアの場合でもスキゾフレニーのような痴呆状態に到達することがありうるとされる。
う~ん、やっぱり僕はパラノイアなのかなあ…。急性期の頃、僕は職場の同僚を守るために悪魔だと思っていた二人の先輩MさんとNさんに「立ち去れ!サタン!」と言ってしまったり、救世主だと思っていたHさんにはみんな(Hさんも含む)の欠点を書いた僕の聖書を預かってもらったりしたからなあ…。僕は女好きなのだけどなあ…。A・Nさんを守ろうと自宅まで訪ねて行って拒絶されたことも影響していたかなあ…。それによって退行が生じたのかもしれないなあ…。
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