「人を殺してみたかった」とか解剖したとかいう話を聴くと引いてしまうが、テレビのワイドショーで言われるほどおぞましいこと(心の闇とか)ではないのではないかな・・・。
彼女が本当に求めていたのは、生物学的なことではなく、実存的なことだったのではないかな・・・。
ただ、まだ未熟なので、その区別がうまくつかなかったんじゃないかな・・・。
人間同士のつながりは大切だけど義務感だけでつながる社会は脆いと思う。
社会は法があればバラバラにならないと思っているとしたら大きな間違いだと思う。
基本に愛や信頼感がない社会は時の経過に耐えられないと思う。
だから厄介だけど感情は大切にすべきだと思う。
一人の男と一人の女が出会い、恋に落ち、結ばれる。
よくあることだが、問題はそれで終わらないことである。
理想的なのは相思相愛で一生添い遂げることだが、たいてい破綻しないまでもどちらか一方の愛が先に冷める。
悲劇は冷たくなった相手をそれでも愛している場合に起こる。
この場合彼らは客観的に見て惨めな敗者である。
でも本当にそうだろうか?
なぜなら彼らは相手より愛する能力が高いから苦しんでいるとも言えるからだ。
違うだろうか。
それは相手によほど魅力があるからだろうというわけである。
しかし誰もが認めるほど魅力的な人物などそうはいないのではないだろうか?
本当のことはわからない。
わからないんだよう~。
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おしゃれな薬箱をアマゾンで購入いたしました。
けれども自分用ではありません。
日頃からたくさんの薬を服用している母を見かねての決断でした(大袈裟な・・・)。
代金は送料と代引き手数料を合わせて4074円でした。
来月の10日は母の誕生日だし、僕としてはこれも親孝行のつもりです。
けっこう喜んでくれてよかった。
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『社会はなぜ左と右に分かれるのか 対立を超えるための道徳心理学』という本によると、道徳基盤は六つあるそうですが、アメリカのリベラルとリバタリアンと社会保守主義者ではもっとも重視する価値が異なるそうです。
六つの道徳基盤は以下の通り。
ケア/危害
自由/抑圧
公正/欺瞞、
忠誠/背信
権威/転覆
神聖/堕落
リベラルはこのうち①をもっとも重視し、次に②を、そのまた次に③を重視しますが、残りの④、⑤、⑥については重視しないそうです。
リバタリアンは②を特に重視し、それから③を、残りの①、④、⑤、⑥については重視しないそうです。
社会保守主義者は①、②、③、④、⑤、⑥の価値を等しく重視するそうです。
忘れてはならないのはみんなそれが正しいことだと思っていることです。
見ているところと強さが違うのです。
それにしても「見る」っていう行為は不思議だなあ。
本当に自分の意志で見ているのかなあ。
ちなみに「マトリックス」とは、ある特定の観点から世界を見るように人々を仕向ける文化的な枠組みのことだそうです。
今日読み終わった『社会はなぜ左と右に分かれるのか 対立を超えるための道徳心理学』という本に書いてあったのだが、神経伝達物質ドーパミンの受容体に関する遺伝子の研究によると、ドーパミンは、リベラル(自由[改革]主義者)との相関関係の高さがはっきりと示されている性格の一つ、新たな経験や感覚を求める意欲に結びつくとされてきたそうだ。
う~ん。
確かにドーパミンが過剰に分泌していた頃の僕は保守主義者ではなかったが、遺伝子が関係していたとは・・・。
けれども現在は規律や伝統を重んじる保守主義の考えも理解できないわけではありません。
それにしても保守主義(6)の方がリベラル(3)よりも多くの道徳基盤を持っていたとは知らなかった。
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妄想と言われればそれまでだが、なんか僕、死ぬ前にかなりジタバタしそうな予感がして・・・。
かっこ悪いなと・・・。
少々他人に迷惑をかけても(ごめんね)、もっと思い通りに生きるべきじゃなかったのか?と、後悔の念が生じそうな気がして・・・(犯罪を勧めているわけではないので誤解のないように)。
これが本当にすべきだったことを先延ばしにしてきた罰か!
(他人が作った)掟に従順だったという事実が僕を苦しめる。
生産的な反抗なら大いにすべきだったのだ!
それにしても何故僕は自分のことを僕(しもべ)と呼ぶんだろう?
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今日は水曜日で仕事が休みだったので、午前中、母と一緒にMさんのお見舞いに福祉施設まで行ってきました。
そこで「10時半からうめぼし体操をやる」というので見学しました。
みなさん車椅子に座ったままテレビに映るお兄さんとお姉さんの動きに合わせて歌いながら上半身を動かすのですが、その様子が幼稚園児みたいで可愛かった。
横で母が「私もああなるんだよ」言うので思わず苦笑いしました。
その後指導しているお姉さんが「今日は何日か」と質問し、みなさんが「7月16日」と答えると「今日は何の日か」と尋ねました。
「なないろ(七色)だから虹の日」と答えた方が正解でした。
う~ん。
平和的だなあ。
でも、Mさんによると老人同士の人間関係は複雑の様でした。
「みんないろいろあるからねえ」と仰っていました。
どこまで行っても悩み事は人間関係なんだなあ・・・。
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著者ジョナサン・ハイト、訳者高橋洋『社会はなぜ左と右に分かれるのか 対立を超えるための道徳心理学』より引用。
合理主義者の妄想
ウェブスター国際英英辞典では、「妄想(delusion)」は、「実際には存在しないものに対する、理性によっては制御できない誤った考えや執拗な信念」と定義されている。直観主義者の私としては、理性の崇拝それ自体が、西洋の歴史上もっとも長く生き続けている妄想の一つ、すなわち「合理主義者の妄想」だと言いたい。それは、「合理的な思考能力はもっとも高貴な人間の属性であり、それによって、(プラトンに従えば)人間は神のような存在になり、(新無神論者によれば)神の信仰という『妄想』を脱却できる」という考えのことだ。合理主義者の妄想は、人間の本性に関する特定の見方であるばかりでなく、理性のエリート(哲学者や科学者)が大きな力を持つべきだとする主張でもあり、通常それには、理性に満ちた子どもを育てるためのユートピア的なプログラムがともなう。
プラトンからカントを経てコールバーグに至るまで、多くの合理主義者は、倫理に関するすぐれた思考能力が、善き行ないを生むと想定してきた、思考は道徳的な真実への王道であり、その能力を駆使する人はより道徳的に振る舞うと考えてきたのだ。
それが正しいのなら、日がな一日倫理的な原理について考えている道徳哲学者は、他の人々より徳が高くなければおかしい。はたして実際そうだろうか? 哲学者のエリック・シュヴィッツゲーベルは、それを確かめようとした。彼は、アンケートや、当人には気づかれないような手段で、道徳哲学者がどのくらいの頻度で慈善事業に寄付し、投票し、母親に電話をかけ、血液や臓器を提供し、哲学会議の後片づけをし、学生のEメールに返信しているかを調査した。その結果、それらのいずれにおいても、道徳哲学者が、他の哲学者や他分野の教授よりも高潔な人物だというわけではないことが判明している。
シュヴィッツゲーベルは、何十もの図書館から紛失図書の一覧を取り寄せることまでしたが、この調査では、ほとんどが倫理学者によって借りられているであろう倫理の専門書のほうが、他の哲学領域の本に比べ、盗まれたり長期未返却のままになったりしているケースが多いことがわかった。どうやら道徳思考の専門家は、道徳的な態度において立派どころか、劣ってさえいるようだ(おそらく〈乗り手〉の正当化能力のほうが発達しているのだろう)。彼によれば、これまでのところ、道徳哲学者のほうが他の哲学者より道徳的にすぐれていると見なすべきどんな基準も見つかっていない。
真実の追求を是とする人は、理性崇拝をやめるべきだ。証拠を冷静に見つめて、思考とは何たるかをよく考える必要がある。フランスの認知科学者ユーゴー・メルシエとダン・スペルベルは、動機づけられた推論をテーマとする(社会心理学の)論文と、思考におけるバイアスや誤りに関する(認知心理学の)論文を徹底的に調査している。その結果、それらの研究の奇異で気の滅入る発見のほとんどは、「思考能力は、真実を発見するためでなく、誰かと論争する際に、議論、説得、人心操作を巧みに行なうための補助手段として進化したと見なせば、完璧に理解できる」と結論している。「議論の巧みな人は、(……)真実ではなく、自分の見解を支持する理由を探している」と二人は言う。このことは、確証バイアスが、なぜ非常に強力で根絶しがたいかを説明する。だとすると、自分の考えとは異なる見解に目を向け、自分に都合の悪い証拠を探すよう学生を指導することは、いったいどれほど困難な課題なのだろうか? 実際、それは本当に困難であり、その処方箋を見出した者などいない。というのも、確証バイアスは人間の本性として(論争好きの心のなかに)組み込まれているのであって、(プラトン的な心から)取り除ける欠陥などではないからだ。
何も私は、思考をただちに中止して、直観のみに頼るべきだと言いたいわけではない。直観は、消費生活や人間関係に関する判断を下すときに、思考よりもよき導き手になることもあるが、公共政策、科学、法の基盤としては、一般に劣っていると言わざるを得ない。ここで私が言いたいのは、どんな人物のものであれ個人の思考能力には、用心深くなければならないということだ。私たちは、ニューロンのように制限された実体として個人をとらえるべきであろう。ニューロンは、いくつかの樹状突起から入力される刺激を総合して、パルスを発火するか否かを「決定」するという、一つの仕事に長けている。単体のニューロンはそれだけで賢いわけではないが、適切なあり方で多数のニューロンが集まると脳になり、単体のニューロンよりはるかに賢く、柔軟性に富んだシステムが創発する〔部分の性質の単純な総和にとどまらない性質が、全体として現れる〕。
それと同様、思考する個人は、自分の立場を支持する証拠を見つけるという、一つの仕事に長けている。とりわけ利害や評判が関わる場合には、当人が心を開いて、優秀な思考能力を駆使して真実を追求するなどとても期待できない。だが、思考能力を駆使して互いの考えを批判できて、なおかつ皆が何らかの紐帯や目的を共有し、礼儀正しくやり取りできるような形態で個人が集まれば、社会システムの創発的な性質としてすぐれた思考を生む集団が形成され得るだろう。(情報機関や科学コミュニティなどの)真実の発見を目標とする機関や、(議会や顧問会議などの)有益な公共政策の発案を目的とする組織は、知的、思想的に多様なメンバーで構成されることがとても重要なのは、この理由による。
とはいえ、私たちの目標がすぐれた思考ばかりでなく、善き行ないを育むことにあるのなら、合理主義を排して直観主義を擁護することがさらに重要になる。教室の外でも倫理的に振る舞えるよう学生を導ける倫理の授業など、誰にも考案できないだろう。授業は〈乗り手〉を対象に行なわれるものであり、〈乗り手〉は新たに学んだ知識を生かして、より効果的に〈象〉に仕えるようになるだけだ。人々をもっと倫理的に振る舞わせたいのなら、できることは二つある。一つは〈象〉を変えることだが、それは困難で時間がかかる。もう一つは、チップ・ハースとダン・ハースの『スイッチ!――「変われない」を変える方法』からの借用だが、〈象〉と〈乗り手〉が歩む経路を変えるという方法だ。私たちは、倫理的な態度の大きな改善につながるような環境の微調整ができる。相談役にグラウコンを雇えば、つねに自分の評判を気にかけている現実の人間が、もっと倫理的に行動する社会を築き上げるにはどうすればよいかを尋ねられるはずだ。
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今日、6月分の工賃が支給されました。
皆精勤手当の3000円を含めて26800円でした。
先月より1400円多かったのは労働日数が1日多い17日だったからです。
つまり僕の日当は平均3時間半働いて1400円位というわけです(お金を稼ぐって大変だなあ~)。
しかし、めげている場合ではありません。
明日は台風が来ますが、作業所へは合羽を着て行きます。