人間もどきの世界観

ほんととつもりのクロスオーバー人生。救いは妄想でも他者のために死に物狂いになったこと。

自由

2010年05月31日 07時42分57秒 | インポート

 今回、僕は神父さんに僕の「自由」についての考えの間違いを指摘されたことを書きます。

 僕は大学生協の本屋の書棚に置いてあったフランス人の哲学者サルトルの『実存主義とはヒューマニズムである』という薄い本を手にして以来、自由について彼の言っていることは正しいと思ってきました。サルトルは【実存は本質に先立つ】と言います。どういうことかと言うと、【人間は「本質」など持たずに存在している。「このように生きるべきだ」とか「このようなものであるべきだ」といった定義を持たないまま存在してしまっている。そして人間は行動によって何ものかになっていく存在であり、自分で自分を創っていかなければならない】ということです。【何を考え、どう行動するか、善悪も、美醜も、何もかも自分で決め、選び、自分についての責任を一身に背負う】というのがサルトルの言う自由なのです。そして僕も苦しいけどこれが人間の正しい在り方なのだとずっとそう思ってきました。

それに対して神父さんは【人間というものは善いものとして創られた】とおっしゃいます。『創世記』に基づいた考えだと思いますが、だから【自由とは善いことをすることだ】とおっしゃるのです。

なるほど善い存在者が善いことをするのは自由ということになりますもんね。僕は「受け止めてもらうというのはこういうことなのか」と思いました。ようやく僕の思考に区切りがついたよ。

神父さんもサルトルと同じフランス人だけど僕は神父さんの人間観の方が実のある人生を生きられるような気がするので好きです。

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UFOを追いかけた日

2010年05月30日 06時29分32秒 | インポート

 僕が小学生だった頃の話。当時はよく「UFO」が友だちの間で話題になったりしていました。UFOとは「未確認飛行物体」のことです。

 そんなある日、外で友達と遊んでいたら、誰かがUFOを見たらしく大勢の子供たちが空を見上げ「UFOだ!UFOだ!」という騒ぎになりました。すぐさま僕も興奮してそれに加わりました。そして「あっちだ!こっちだ!」というふうに僕たちは夢中で見えないUFOを追いかけ、日が暮れるまでK団地内を何時間も駆け巡ったのでした。

 その時の気持ちは恐れと喜びが入り混じって不安だけどひどく興奮した気持ちでした。

 僕は今と違って集団で熱狂することが大好きな子供でした。退屈が大嫌いで日常の平安を打ち破るような出来事があるととても不安だけどうれしいという妙な気持ちになるのでした。何というか血が騒ぐのでした。そんな子供でしたから祭りも大好きでした。

 でも今の僕は当時の僕と変わってしまいました。周囲の人たちが熱狂しているのを見ると僕は醒めた自分を発見してしまうのです。その時僕はとても孤独(ロンリネス)を感じます。

 僕はもう一度当時のようになれるでしょうか?それともこのまま行ってよいものでしょうか?

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祭り

2010年05月29日 07時11分46秒 | インポート

 時々テレビで有名な日本古来の祭りの様子が映し出されます。それらに共通している特徴は多くの人たちが熱狂していることです。熱狂、狂っている、理性的でない。

 それを見て僕は狂っても許される人たちはうらやましいなぁと思います。社会は個人の狂いは許さないが、集団の狂いなら許せるようにできているのでしょうか?

 いや、そうでもないか。オウム真理教は社会から排除されそうになったし。

 要するに人間は常識の範囲内の狂い(管理された狂い)なら許せるのでしょう。

 ところで僕は自意識が強いせいか祭りなど集団の行事に参加することが苦手なところがあります。どこか僕には醒めたところがあって我を忘れられないのです。たぶん僕は「自分」を失うのが怖いのでしょう。失ったら罰せられると心の奥底で思っているのかもしれません。狂ってもまた戻ってくることができたという経験が少ないからかもしれません。そのため僕は日頃からできるだけ理性的でいようと思っているのでしょう。精神障害者の僕がこういうことを言っても信じてもらえないかもしれませんが、本当にそうなのです。

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ミロのヴィーナス

2010年05月28日 07時18分04秒 | インポート

 『ミロのヴィーナス』を初めて見たのは僕が小学生の頃、家の百科事典の中のものでしたが、子供の僕でも彼女は美しいと思いました。黄金比を用いて造ってあるとか当時は知る由もなく、またそんなことはどうでもよくて、見る度にただ単に美しいと思ってしまうのでした。なぜ人は美しさが分かるのか?それは考えてみると不思議なことです。

 ところで僕が彼女を所有したかったかというと話は別になります。所有しても子供の僕とはあまりにも釣り合いが取れないという理由もあったでしょうが、別の理由があります。

 それは何かといいますと、彼女は裸をみんなに見られているということでした。裸は僕にしか見られてはいけないはずなのに僕以外の人間も彼女の裸を知っている。これは許しがたいものでした。当時の僕にはとても認められるものではなかったのです。

 これと似た話なのですが、中学校の健康診断で女生徒たちが訪問してきた医者に彼女たちの胸を見られるという事実。許しがたかったです。認めたくありませんでした。胸を見られるくらいなら死んだほうがましなんじゃないか?とさえ思いました。医者は許しがたかったです。医者を呼んだ学校も許しがたかったです。

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富める者

2010年05月27日 07時27分03秒 | インポート

 【富める者とは誰か。ラビ・アキバいわく、富める者とは、善き行為で飾られた妻を持つ夫のことである】。

 僕はパートナーを選ぶとき、性的魅力も大切だけど、それ以上にその女性がどういうふうに生きてきたかという行いを重視したいのです。なぜなら性的魅力はやがて必ず衰えるから。それに比べて善き行為をしてきた人はこれから先も善き行為をしてくれるだろうと信じさせてくれるから。また僕もそれに応えて生きていこうと思えるから。

 僕は経験的に人間というものはいきなり完全には至れない、低い次元の欲望を満たせてはじめて次の段階にいけると思っています。そうやって自分を創り人間関係を築いていこうと思っています。僕には土台が必要なのです。けんかしてもいつでも戻れる共通の場所が。結婚するまで童貞と処女でいなければならないと思っているのはそういうふうに僕が考えているからです。

 誤解しないように言っておきますが僕は愛のないセックスだってしようと思えばいくらでもできるのです。僕は自堕落になる可能性だってあるのです。僕は動物以下の存在になれないことはないのです。愛欲は無制限なのだから。

 それでも何億といる異性たちの中からたった一人を選び、共に生活していきたいのです。

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恋愛

2010年05月26日 05時30分00秒 | インポート

 恋愛とはそもそも不健康なもの。長生きしたければやめといたほうがいい。

 妄想だけど本気だった。

 相手を独占したい。その現在や未来だけでなく過去も。できることなら一つに溶け合って同化してしまいたい。でも相手も一つの人格を持っているから、それも尊重しなければならない。

 自分の存在を認めて欲しい。自分の属性でなく、自分そのものを。

 イメージを剥ぎ、剥ぎ取られ、相手に見捨てられることを恐れ、この世から相手が消えてしまうことを恐れる。

 相手を思う気持ちが強ければ強いほど苦しく、気が休まらない。まるで不安定な海の上にいる小船のよう。

 心に湧き起こる感情に基づくから不条理で、だけど本人にとっては最も真実に感じるから理屈は嘘っぽくなる。

 まごころ大切。打算的な女は嫌い。女が処女膜に値段をつけるなら哀れな人。

 まごころは女のいのち。まごころで女に愛される男は幸せ者。なぜなら彼女は男の存在そのものを愛しているから。

 まごころで男を愛せる女は幸せ。いのちいっぱいに愛せる女は本当の女。それをしっかり受け止めてくれる相手がいること。それは女にとって仕合わせ。

 それに比べて、年頃だからとか、みんな付き合っているからとかいった理由で異性と付き合う人は哀れな人。

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Xとしての人間

2010年05月25日 07時10分14秒 | インポート

 僕の友人のOさんが幻聴とは自分の心の中の声が聴こえることで、統合失調症者を自分の心に思ったことが実際聴こえてくる人と定義しました。

 だけど僕の幻聴は確かに自分の思ったことが聴こえてくる時もあったけど、思考より早く聴こえてくる時や、思ってもないようなことが聴こえてくる時もありました。それになぜ幻聴は様々な他人の声で聴こえてくるのか。

 とにかくわけの分からない幻聴も心の声ならば、僕の心もわけの分からないものだということになります。

 精神の病んでいなかった頃の僕にとって自分というものは自明のものでした。「自分は自分だ」で済ませてしまっても一向に構いませんでした。自分の根拠など説明する必要に迫られたこともありませんでした。

 でも精神を病んだ後の僕は自分というものはそんな簡単に分からないぞと思い知らされました。

自分のことを天皇と僭称する統合失調症者もいるようだけど、彼が分かりやすいシンボル名を用いるのはそれだけ自己の内部に不確かなものを抱えている証拠だと思います。

今の僕は自分そのもの(その属性ではなく)を理性と言葉で説明しようとするからいっそうわけが分からなくなり、それを世間の人たちは狂気と見做すのだと思っています。

「あなたは何者ですか?」と訊ねられた時、あなたならどう答えるでしょうか。履歴書に書くように自分は「誠実な人です」とか「嘘をつかない人です」とか「真面目な人です」とか「優しい人です」とか答えるでしょうか。でもそれはいつも本当と言えますか?

 僕は精神病者と健常者の差はそれほどないと思うのです。また精神病者は悪人ではないと言っておきたいです。

 ただ僕たちは人間のわけの分からなさに覚醒した者に過ぎないということを言いたいです。

「人間」というモノについてのわけの分からなさ。わけの分からないXとわけの分からないXとが一つの世界の中で、加減乗除、影響しあって生きている。それを一人一人の人間たちと実際触れ合うことなしに頭だけで解決してしまったことが間違いでした。

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ヘラクレス

2010年05月24日 06時29分34秒 | インポート

 僕が子供の頃、父に渋谷のプラネタリウムに連れて行ってもらい、そこで『星と伝説』という本を買ってもらいました。そして家で読んでみました。

 どの物語も新鮮でしたが、登場人物の中で一番印象に残ったのがヘラクレスでした。ヘラクレスといえば12の冒険物語が有名ですが、僕はヘラクレスの赤ん坊の時の話が好きでした。どういう話かといいますと、ヘラクレスは神々の王ゼウスとアルクメネが不倫をした結果生まれた子供ですが、ゼウスの正妻ヘラはそれに激怒しヘラクレスを殺してしまおうと毒蛇を放ちます。しかし赤ん坊の時から怪力の持ち主であったヘラクレスは逆にその毒蛇を絞め殺してしまう。

 この話が僕を喜ばせました。どんなに強い人間でも人生の初期の赤ん坊の頃は非力なものです。当時の僕はそれが許せなかった。自分以外の人間に自分の生命が委ねられている期間があったことを認めたくなかったのです。でもヘラクレスは最初から強かった。

 第三者から見れば僕とヘラクレスとの差は歴然としてあるのに、本人だけは「僕も赤ん坊の時毒蛇を放たれたら、やっつけることができるだろうか」などと考えてしまうのです。

 子供の頃の僕は今の僕よりずっと全能感に溢れていました。周囲の大人たちが子供の世界を大切にしてくれたからでしょう。でもなぜ大人たちがそうしてくれるのか考えたことがありませんでした。それどころか僕を見つめる大人の目の中におびえみたいなものを感じ、なんて大人の人というのは弱いのだろうと思ったことすらありました。

 でもそれは妄想だったのですね。神話の英雄たちの話は遠い子供時代の記憶と結びついているのかもしれません。

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仮面

2010年05月23日 07時19分35秒 | インポート

僕は精神病になってからしばらくたって、かつて大学の保健体育の講義で「強いってことは鈍いってことなんだよ、運動神経が鈍い人は疲れにくいんだよ」と教わったことを思い出しました。

そしてそれまで僕は強い人間になりたいとこだわっていましたが、そんなに無理しなくてもいいかなと思えるようになりました。

 それに神経の鈍い人が尊ばれるわけではないのが人間社会です。要するに人間社会においては強いだけでは勝てないし、人間の美質を守り続けるためにも、そうでなければいけないと思います。

子供の頃の繊細な神経と豊かな感受性を守り続けられる人は幸福だと思います。大人になってもそれを活かせる職業を選べる人は幸運な人だと思います。

 平和な社会とはそういう人達が創造し、守れるものだと思います。

でも一方で社会には競争原理も働いているので、たいていの人は生活のために本来の自己(self)を押し隠しているのだと思います。毎日、毎日、いろんな場面でいろんな仮面をかぶっているのだと思います。

 演じた自分なら傷つけられても、本来の自己はあまり傷つかないから何とか生き延びられるのでしょう。

 この自我(I)がかぶる仮面に本来の自己(self)が吸収されてしまったような人と本来の自己まるだしで生きているような人。ほとんどの人たちはその両極端の中間あたりで毎日四苦八苦してバランスをとりながら生きているのだと思います。

そしてそのバランスが崩れた人が精神病の様相を呈するのだと思います。

でも精神病になる人は、自己を偽れないという意味で、正直な人ではないかと思ったりもします。

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営利

2010年05月22日 06時41分34秒 | インポート

 大学時代の僕は営利だけを目的として働くことに対して卑しさを覚え、それにとても否定的な態度をとっていました。

 僕が就職活動をしなければならない頃の日本はバブル絶頂の好景気で空前の売り手市場だったのですが、そんな心持ちだったから一般企業に関心はなく、公僕たらんとする公務員になることをめざし勉強していました。

 でもその頃の僕はすでに幻聴も妄想もあってとても集中して勉強ができるような状態ではなかったのです。結局、国家公務員Ⅱ種と地方公務員上級試験を受けたのですが、両方とも不合格でした。

 それでも営利だけを目的として活動する企業はイヤで、消費生活協同組合に入協しました。でもへとへとになって半年ぐらいしか続きませんでした。

 今から思うと、僕は職に就くことに対してずいぶん考えが足りなかったのだなと思います。自分はどういう人間で、どういう仕事がしたいのか、なぜ働くのか、自分にとって仕事とは何なのか等について全然考えを深めないで、ただお金のためだけに生きるのはイヤだ!みたいな甘い考えしか持っていませんでした。

 けれども働いてその働きに応じて正当な賃金をいただく。それは当然のことですし、そうでなければいけないのです。働きと賃金の釣り合いが取れていない場合は正さなければなりませんが、そうでなければ働いて正当な賃金をいただくことを恥じる必要はなかったのです。

 今、僕は軽いアルバイトをしていますが、それに見合った賃金をいただいているので安心していられます。でももっと働けるようになりたい。そしてそれに見合った賃金をいただきたいです。

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後悔

2010年05月21日 05時55分49秒 | インポート

僕は「後悔」という言葉が嫌いです。後悔とは済んでしまった後でああすればよかった、こうしなければよかったと、残念に思うことだからです。そしてその時はいつも不快な気持ちだからです。だから僕はできたら後悔の少ない人生を送りたいと思ってきました。

僕は過去において二回ほど強烈に後悔の念に捕らわれたことがあります。

一回目は中学の卒業が間近に迫っていたある日。二回目は精神病が寛解してきた34歳頃のある日。どちらも心理的には自由が感じられるようになってきた頃です。

どれくらい後悔の念が強かったかと言うと、二回目などはそれに打たれた時金縛りにあったように固まってしまって公園の坂道で前にも後ろにも右にも左にも動けなくなってしまいました。たった数秒間のことだったのでしょうが気だけは焦ってとても怖かったです。そして〈俺の今までの人生は全て間違いだったのではないか?〉それどころか〈俺の存在そのものが間違いなのではないか?〉という言葉がこびりついたように残って苦しみました。

 でも後悔とは自分のした行為の結果にそれだけ責任を持とうとしてこなかった、けれども最後になって責任を持てたはずだと思う人に起こるものと思います。

人間は自由なくせに不完全だから後悔することは避けられないかもしれないけど、間違ったと悟ったらすぐに訂正できるようでありたいと思います。

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売春婦

2010年05月20日 05時42分18秒 | インポート

 僕が成人した頃のこと。父から「素人の女の子とは遊びで付き合うな」と聞かされたとき、なんていやらしいことを言うのだろうと情けない気持ちになったのを今でも覚えています。素人の女の子以外の女性(売春婦)となら遊びで付き合ってもいいと言っているようなものではないかと思ったからです。

 父はまた「ただより高いものはないぞ」と言っていました。要するに安易に女性とセックスして傷物にして、責任をとるため一生彼女の面倒など見なければならなくなったとしたら大変だぞということです。

 若かった僕にとってこういう考え方はロマンのかけらもなくあまりに社会的・現実的であって、つまらないこと言うなぁーと思ったものでした。

 その頃はまだ性道徳が今ほど乱れていなくて、今のように普通の家庭の未成年の女の子が平気で(平気かどうかは分からないか・・・)セックスをするようなことはありませんでした。

 僕は売春婦にしても彼女たちは金に困っていて仕方なく売春をしているのだ。彼女たちはかわいそうな人たちなのだ。だから平和を説く男たちは彼女たちを金で買うようなことを許さず、ただで金をめぐんでやるべきだと真面目に思っていました。

 僕はなぜだか分からないけど子供の頃から漠然と女性は男性より高級な存在だと思っていました。悪い女性がいたとしても初めから悪かったわけではない。男性さえ女性を汚さなければ女性は悪くならないと信じていました。

 でも実際のところはどうなのでしょう。

 若くても「汚い!」と反射的に思ってしまうような振る舞いをする女性が増えました。僕には彼女たちが意識的に自分の醜い部分をさらけ出しているように見えるのですが、もしそうだとしたらなぜそんなことをするのでしょう。

 たぶん父は正しかったのです。そういう毒々しい女性は誰かに不当に傷つけられてどうしようもなくなった姿を見せているのでしょう。昔の日本ではそういう役目は売春婦が担っていたのですが、今では素人の子にまで広がってしまったのだと思います。

 文化を否定すればいいのでしょうか。

 いや、文化は人間の弱さを補うために生まれるけれど、文化を否定すれば人間の弱さがなくなるわけではない。だから人間は一人ひとり己の弱さと向き合っていかなければならないのでしょう。

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永遠

2010年05月19日 05時04分38秒 | インポート

 最近僕は虚無に襲われることがなくなりました。「虚無に襲われる」といっても何のことだかさっぱり分からないという人がほとんどだと思いますので説明させていただきます。

 それは深夜に訪れる、目に見えない、音もない、からっぽの真空といったらいいでしょうか。それに僕の頭が包まれると僕の神経のメーターの針は振り切れそうになり、パニック(白痴になってしまう!)を起こしかけ、しばらくの間とても不安定な精神状態になってしまうのです。

 こういうことが過去数年間に五・六回、僕の身に起こっていました。

 今から思うと虚無に襲われる前は決まって独りで「死」について思考していました。死んだら僕は二度と再生しないのだろうな。たとえその後何億年と年を重ねたとしても・・・と考えていました。その裏には僕のような高等な生き物が何で死ななきゃいけないのだ。それじゃあんまりじゃないか。もったいないじゃないか。でもどうしようもない・・・という気持ちがありました。

 神さまがいなければやっていられないよ。実際一分たりとも。永遠はどこにもなくて、誰も触れることはない・・・と思っていたらやっていられないのです。

 僕は永遠じゃない。僕はいずれ死ぬ。でも僕が存在したという事実は永遠な存在に記憶していてもらわなければ困るのです。

 その永遠な存在が僕のいう神さまで、そう思えなければ僕が今を持ちこたえることなどできない。

 こういう気持ちを分かってもらえるでしょうか。

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ふたごころ

2010年05月18日 07時29分34秒 | インポート

 僕は大学で法律を勉強していたせいか善とか悪とか罪とか罰とかいう言葉に過剰に反応した時期がありました。

 でも正直なところ、人間はなぜ罪を犯すのかということはよく分かりませんでした。「悪いことをするのは馬鹿だからさ」で済ませてしまっていました。

また当時の僕は相手を攻撃することによって自分の正当性を保持しようとしていたところがありました。そのメカニズムはこうです。相手を悪いと言う→自分と区別する→相手は悪いから自分は正しい。

 でもこれは多くの人が捕らわれる錯覚です。それでも相手を貶めることによって自分を救おうとするのは人間の性でしょうか。

 最近では勝ち組・負け組、僕の青春時代ではネアカ・ネクラの二分法です。日本人の多くの思考回路はこの点に関してぜんぜん進歩していないのだなと思いました。欺瞞に満ちている。

 若いとき僕は自分を悪人としたくありませんでした。自分を悪人とすると自分の正当性が揺らいでしまうような気がしていたからです。

でも僕のアルバイト先の社長は人間にはふたごころあるとおっしゃいます。人間は善い心も悪い心も持っているということです。

 僕はこの視点はイエス・キリストのものと同じだと思います。イエスの目は当時のユダヤ社会で罪人とされた者たちに優しく、正しいとされていた者たちに厳しいのですが、人間は誰でもふたごころを持っていることを熟知していたからだと思います。

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純粋

2010年05月17日 06時22分57秒 | インポート

 僕は中学一年の時、担任のK先生に裏表のない性格と言われたことがあります。その時、僕はその言葉を好意的に受け取ったけれども最近までその意味が分かりませんでした。

 若者は純粋だと言われるのを時々聞きます。それについて若い頃はそれこそ単純にほめ言葉だと思いました。でも中年と呼ばれる歳になってみて、純粋というのは必ずしもよい言葉ではないなと思います。

 純粋な人は目を見ればだいたい分かります。澄んでいて真っ直ぐです。でも怖い。純粋な人は怖い。気に入ったものは相手の意向などお構いなしにただひたむきに好意を寄せますが、気に入らないものは残酷と思えるほどあっさり切り捨ててしまうからです。僕は悲劇とはこういうところに生まれるのではないかと思います。

 今の僕は不純だと思います。単純に気持ちよくなることがあまりなくなりました。またストレートに嫌悪感を抱くこともなくなってきました。色で表せば、白でもなく黒でもない。グレーということになるでしょう。

 でもそれでもいいと思っています。物事の裏と表を観ることができるようになってきた証拠だと思うからです。

 割り切れない思いは気持ち悪いけど、一方だけを切り捨てることはさらに悪いことだと思います。

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