『知足日記』

『知足』とは、『生かされて、生きている』・『必要な物、必要な経験は与えられている』・『すべて必要。すべて良し』と知ること

【1282】「言葉」以外では、自分を問えない

2008-01-27 06:55:39 | 思索
「本質的な問い」の答えは、「心境(納得)」という形でやってきます。
「心境」を得たあとに、言葉で表現されることはありますが、
「本質的な問いの答え」は、言葉を超えた形でやってきます。(^^;ゞ

たとえば、『私は、ここに、こうしている者である』という答えです。(^^;ゞ

言葉は、外界を問うための道具ですが、
その言葉によって、自分を客体化することが出来るので、
外界を問うための言葉が、「自分」を問い返すことになるのです。

よく、言葉の暴力といわれますが、(^^;ゞ
「言葉」は、自分を問い詰めることも出来て、「暴力」にもなり、
自死に至ることさえあります。

言葉がなければ、人は、自分を追い込むことがありません。

けれども、言葉で問う以外の方法で、「人間が、自分に問いかけること」はできません。
言葉は、「外界の分析」であると同時に、自己分析でもあるのです。(^^;ゞ

このようなことを考えていましたら、
『「他人から、どのように見られているか」と思うことが、
「自分をどう見ているのか」である。』という言葉が浮かびました。

これは、
『人間は、一人で生きているのではなくて、
周りの人々を含めた環境の中で生きいて、
それ以外の自分はなくて、
「それがすべてである」』という意味です。(^^;ゞ

『人間は、自分の環境のなかで、答えを出して、生きていけば良い』という存在のようです。

そのときの指針となる言葉が、『いま、生きている』という真理です。

朝、眠くて、布団から出にくいときでも、『いま、生きている』と思うと嬉しくなって、
『今しかないから、起きてブログを書こう』と思い、起きられるのです。(^^;ゞ

「私」とは、『環境を含めた自分』のことです。

『自分の意志』には、色々ありますが、(^^;ゞ
『自分の意志』とは、周りの環境によって作り出された『自分の意志』なのだということを
分かっていなければいけません。

業にまみれた『自分の意志』を、そんなに後生大事にする必要はないのです。(^^;ゞ

『自分』とは、環境の結晶であり、しかも、「環境の中で、独りの存在」なのです。

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