中国四川省の大地震のニュースを見たときに、なぜ自分が、「祈りが足りなかった!」
「もっと印を組む必要があった!」と思ったのかを考えてみました。(^^;ゞ
それは自分のなかに、「もっと祈らなければならない」という思いがあったからです。
自分のなかに「祈り足りない」「印を組み足りない」という思いがあったのです。
四川省で亡くなった方々の人数が多ければ多いほど、私はますます強く、そう思うのです。
初めて、大地震のニュースを見たとき、死者の数は数百人でしたが、
「地球のアセンション(次元上昇)による自然淘汰」が起こったと思ったのです。
それで、私は「祈りの専門家」(笑)であるはずなのに申し訳ない。
「自分はいったい、何をしていたのか!」と思ったのです。(^^;ゞ
私ひとりの「祈り」は小さいので、誰かを救うことなど出来ないとは思いますが、
「亡くなられた方々の天命が完とうしますように、世界人類が平和でありますように」と思わないではいられない気持ちになりました。(^^;ゞ (「人類の意識」は、つながっていますね。)
今までの自分を反省して、「もっと、本気で祈らなければダメだ」と思ったのです。
そのとき同時に、昨年の大行事の後の法話で昌美氏が、
『「人類の業」によって、大きな天変地変が起きる可能性があったが、
皆さんが集団で組んだ「浄めの印」のお陰で、「人類の業」が消されて小さくなり、
大きな災害が起きても、多数の犠牲者が出ることはなくなった」と言っておられたことを思い出したのです。
「地球のアセンション(次元上昇)」による自然淘汰では、「人類の数が1割以下になる」とも言われているのですから、
四川大地震による死者の数は、「少人数」で済んでいるのかも知れませんが、
私には、「とても多くの人々が亡くなった」と思えたのです。(^^;ゞ
それで、私の『浄めの印(人類即神也の印)』が足りなかった。
「祈り」が足りなかったと思えたのです。(^^;ゞ
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★上の文中の、「祈りの専門家」という言葉に違和感を持たれる方があるかも知れませんね。(^^;ゞ
時には、『世界各国を浄める印による「世界平和の祈り」』をしながら、
毎日、そして気がつけばいつでも、「世界平和の祈り」をしているので、このような表現になりました。(^^;ゞ
けしって、「傲慢な気持ち」ではないのです。(^^;ゞ
4年間、「世界各国の平和の祈り」をしているので、
「私の意識」は自然に、「世界の国々に住む人々」に向けられるようになったのです。