『知足日記』

『知足』とは、『生かされて、生きている』・『必要な物、必要な経験は与えられている』・『すべて必要。すべて良し』と知ること

【1403】「印」で、問題は解決可能ですが、それは物事が改善されることではないのです。

2008-05-16 06:03:29 | 思索
maotitiさん、お帰りなさい。 「出張」ご苦労さまでした。(^^;ゞ

以下の文章は、maotitiさんの【1402】へのコメントを読む前に、店で書いたものですが、
【「印」で、問題の解決は可能か?】というテーマへの論点は、
「言葉あそび」(笑)ということも含めてずれていないと思います。(^^;ゞ

ただ私は、「言語による人生(外界・宇宙)の解析や把握」を、「言葉あそび」だとは思わないのです。(^^;ゞ

言葉という道具を通じての「真理の探究」(笑)だと思っていて、
「人生とは、言葉による把握以外の何物でもない」(笑)と思っているのです。(^^;ゞ

池田晶子さんは、「人間は、言葉によってしか救われない」と書いていますが、
まさに、「人間とは『言葉』であり、人間は『言葉』を生きている」のです。
『人間=言葉(人間は言葉である)』と表現しても良いほどです。(^^;ゞ

このプログ自体も「言葉」ですし、『世界(外界)』とは、「人間の言語による把握(イメージの把握)」なのです。

この「人間の言語による把握(イメージの把握)」のことを、「思い」とも言いますので、
【世界=言葉=思い=人間=世界】(言葉での理解)なのです。

ということで、以下の「言葉あそび」(笑)を吟味してみてください。
単なる「言葉遊び」なのか、「言葉による真理の探究」(笑)なのかということを(^^;ゞ
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結論を先にいいますと、【「印」で、問題の解決は可能なのです】が、
それはちょっと、「人を煙にまくような議論」(笑)なのです。(^^;ゞ 

★まず、「問題」は、どこにあるのかというと、「人間の頭の中」にあります。

「地震で多数の人が死ぬ事は、問題である」とか、
「幼児が飢餓で死ぬのは、解決できそうなことなので、問題である」と、「人間の頭」が思っているのです。

なかには、そのように考えない人もいます。たとえば、
「地震で多数の人が死ぬ事は、あたり前である。
人間は生まれたら、必ずならず死ぬのだ」という人もいます。

「幼児が飢餓で死ぬのは、確かに可愛そうであり、不幸なことですが、
 人間の欲に基づいた経済のシステムが、そのようになっているのだから仕方がない。

食料を私有しないで、皆で分け合うシシテムを作れば、全人類に充分に行き渡るだけの食物を、
地球上で作ることはできる。」という人もいます。

誤解しないでほしいのは、「問題であると思うこと」がいけないということではなくて、
『「問題」は、人間の頭の中にあるという構造になっている』ことなのです。

それで、「印」を組みますと、「問題だ」という思い(考え・言葉)が消えるのです。(^^;ゞ
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ここまでの「言葉あそび」で、maotitiさんの『「印」で、問題は解決可能か?』という問いについて、
字面だけを検討すれば、『「印」で、問題が解決された』ことになります。

これを「けむりに巻いた議論」(言葉あそび)ということも出来るのですが、
「言葉で問われた問題」に言葉で答えると、こういう議論(論理)にならざるを得ないのです。(^^;ゞ

maotitiさんの言われるように、「言語は、問題を解決するために生まれたもの」だとも言えるのですが、
言葉のもう一つの側面は、「言霊(ことだま)」としての性格です。

精神世界や禅問答の話で、『答えは、問いのなかにある』というのですが、
これは、煩悩即菩提にも通じていて、「言語とは、自分に帰ってくるもの」なのです。

★この「言葉による理解」とは別のこととして、「印」を組むと実際に、「問題」が消えるというのも、
「人生の真実」として、私の心の中に起こる現象です。
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★ けれども、上のような論理のすり替え(笑)では、
『世界の状況』は、なにも変わっていないことになります。

『世界の状況』が変わっていないのに、「印」を組んだら「問題」が消えてしまったのですから、
『世界の状況』は、さらに悪化するかも知れません。(^^;ゞ

ところで、『世界の状況』とは、何でしょうか?
なにが、『世界の状況』なのでしょうか?

話が、少し飛躍するかも知れませんが、「事実」はいつも「事実」なのですから、
『自分が思っている世界の状況』は、「世界の事実」とは別のことではないでしょうか?

つまり、「世界の事実」と『自分が思っている世界の状況』は違うのです。
私たちは、自分の色メガネで見た『世界の状況』を 客観的な事実だと思っていますが、
そうではないのです。

これは、上の『「問題」は自分で作り出している』と同じ論理です。

それで、「世界の平和」とはどのような状態なのかを、イメージしてみてください。

「世界中から武器が無くなった状態」ですか?
「言い争う人のいない状態」ですか?

いろいろと想像できると思いますが、
私は、『すべての人々の心が平安である状態』だと思っています。

すべての人々の心から、「争いの思い」が消えたときに、『全世界は平和である』と言えるのです。
【「現実的ではない」とも言えますが、それとはまた「別の話」だと思ってください。「構造上」の話です。(^^;ゞ)】

これを、逆からいいますと、
『一人一人の心が、平安にならない限り、全世界の平和はない』となり、
『一人一人の心の平安が、「全世界の平和」を創る』となります。

つまり、『全世界の平和』は、外から与えられるものではなくて、
人類自身が、自分たち一人一人で獲得してゆかなければならないものなのです。

全人類一人一人の心が平安になれば、『全世界』は平和であり平安なのです。(構造的には)

そうであるのなら、まず自分が、「平和で平安な心」になりましょうというのが、
実際に「世界平和の祈り」をすることなのです。

少なくとも、『「世界人類が平和でありますように」という言葉を繰り返えす祈り(世界平和の祈り)』をしている間は、
「自分の心」は平安です。

10000人が「世界平和の祈り」をすれば、10000人の心が平和で平安なことになります。
10万人が「印」を組めば、10万人の心が平和で平安なことになります。

私は、5月18日(日)に富士聖地で行われる【世界平和の祈りの集会】(SOPP)に参加するのですが、
昨年は、その行事の時刻にあわせて、世界中で100万人の人たちが「世界平和の祈り」をしたそうです。

地球上のその時間には、「100万人分の平和」があったのです。

この行事の時刻にあわせて、全人類が「世界平和の祈り」をすれば、
そのとき、「全世界は平和」なのです。

「全人類の平和」が、一時的に達成されるのです。
「世界人類が平和でありますように! 成就」なのです。

ここまで話が進めば、『自分が「世界平和の祈り」をすることが、世界平和を創りだすことだ』
ということになります。

自分の心を平安にすることで連帯すれば、『世界平和』を創り出すことが出来るのです。
「世界を平和にする」のは、私たち一人一人の心なのです。

私たち一人一人の心が平安であることが、『世界』が平安であることなのです。

あとは、自分がやるかどうかだけなのです。(^^;ゞ


宗教・宗派を超えて、共に世界の平和を祈る行事