【902】のように考えたのは、偶然にも『明日はもっと素晴らしい』(自伝・西園寺昌美著)を読んだからなのです。
そのなかの一節を読んで、自分が少し考え違いをしていることの気づいたのです。(^^;ゞ
それは、『すべては、神さま(守護霊さま)がやって下さることなのだから、
任せることが大切だ』という箇所です。
いままでの私には、人は「白光の教え」などに出会って、「真理に気付くべきだ」という思いがあったのです。
そして、真理に出会っていない人の「今」はプロセスであり、不完全な状態だという思いがあったのです。(^^;ゞ
つまり、他人を、真理というモノサシで評価していたのです。これは間違いでした。(^^;ゞ
「真理の側」に自分を置いて、他人を裁いていたのです。
それぞれの方々に守護霊さんが付いていて、それぞれの段取りと方法で、ご自分の人生を歩まれているのだという基本的なことを忘れていたのです。(^^;ゞ
「自分の見方(分析)」で、他人さんを判断していたのです。(^^;ゞ
人それぞれに守護霊さんがいて、人生とは導きのプロセスであるのですから、
「忌まわしい体験も、必要なことであり、良い体験なのだ」という視点が抜けていたのです。
そして、そういう視点が欠けていたので、
「自分の守護霊さんに任せる」ことは、ある程度出来ても、
「他人を、他人の守護霊さんに任せる」、つまり「他人さま即神也」ということが、私には解っていなかったのだと思いました。 (^^;ゞ
そのなかの一節を読んで、自分が少し考え違いをしていることの気づいたのです。(^^;ゞ
それは、『すべては、神さま(守護霊さま)がやって下さることなのだから、
任せることが大切だ』という箇所です。
いままでの私には、人は「白光の教え」などに出会って、「真理に気付くべきだ」という思いがあったのです。
そして、真理に出会っていない人の「今」はプロセスであり、不完全な状態だという思いがあったのです。(^^;ゞ
つまり、他人を、真理というモノサシで評価していたのです。これは間違いでした。(^^;ゞ
「真理の側」に自分を置いて、他人を裁いていたのです。
それぞれの方々に守護霊さんが付いていて、それぞれの段取りと方法で、ご自分の人生を歩まれているのだという基本的なことを忘れていたのです。(^^;ゞ
「自分の見方(分析)」で、他人さんを判断していたのです。(^^;ゞ
人それぞれに守護霊さんがいて、人生とは導きのプロセスであるのですから、
「忌まわしい体験も、必要なことであり、良い体験なのだ」という視点が抜けていたのです。
そして、そういう視点が欠けていたので、
「自分の守護霊さんに任せる」ことは、ある程度出来ても、
「他人を、他人の守護霊さんに任せる」、つまり「他人さま即神也」ということが、私には解っていなかったのだと思いました。 (^^;ゞ