歴歩

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野見宿禰神社 墨田区亀沢2-8-10

2017年05月13日 | Weblog
  
鳥居、拝殿、本殿                          拝殿と石板敷き広場                        本堂裏

昨日(5月12日)に第72代横綱稀勢の里が、墨田区の 野見宿禰(のみのすくね)神社で土俵入りを奉納しました。
場所は、拝殿前の石板敷きの広場。

相撲の始祖とされる野見宿禰を祀る神社で、本堂裏にある説明板に下記が記されている。
かつてこの東側に相撲の高砂部屋がありました。明治18年(1885)に親方の高砂浦五郎が、津軽家上屋敷の跡地であったこの地に、相撲の神様として知られる野見宿禰を祀ったのが、この神社の始まりです。
石垣の石柱には、力士や相撲関係者の名前が刻まれており、本場所前には必ず、相撲協会の神事が行われます。
境内には、昭和27年(1952)に相撲協会によって建てられた歴代横綱石碑があり、その一基には、初代の明石志賀之助から四十六代朝潮太郎までの名前が、もう一基には四十七代柏戸剛以降の名前が刻まれています。

鳥居の左奥に「歴代横綱の石碑」があり、そこの説明板には、下記が記されている。
歴代横綱の石碑
所在地 墨田区亀沢二丁目八番十号 
野見宿禰神社内
 歴代横綱の名前を刻んだ二基の石碑は、昭和27年(1952)十一月に日本相撲協会が建立しました。一基は、初代明石志賀之助から四十六代朝汐(潮)太郎までの名前を刻み、もう一基には、四十七代柏戸剛以降の名前が刻まれています。
 野見宿禰神社は、明治十七年(1884)に初代高砂親方(高砂浦五郎)が相撲の始祖とされる「野見宿禰」を祀ったのが始まりです。
 玉垣には、力士や相撲関係者の名前が刻まれており、今でも東京での本場所前には、必ず日本相撲協会の関係者が神事を執り行うなど、相撲界が信仰している神社です
 創建当時は、神社の東側に初代高砂親方の部屋があったそうです。また、この地は、陸奥弘前藩津軽家の上屋敷跡でもあります。
 平成二十八年三月
                            墨田区教育委員会

野見宿禰と相撲については、
『日本書紀』垂仁天皇七年七月の条に、
 左右奏言。當麻邑有勇悍士。曰當麻蹶速。其爲人也。強力以能毀角申鈎。恒語衆中曰。於四方求之。豈有比我力者乎。何遇強力者。而不期死生。頓得爭力焉。天皇聞之。詔羣卿曰。朕聞。當麻蹶速者天下之力士也。若有比此人耶。一臣進言。臣聞。出雲國有勇士。曰野見宿禰。試召是人。欲當于蹶速。即日遣倭直祖長尾市喚野見宿禰。於是。野見宿禰自出雲至。則當麻蹶速與野見宿禰令捔力。二人相對立。各擧足相蹶。則蹶折當麻蹶速之脇骨。亦蹈折其腰而殺之。故奪當麻蹶速之地。悉賜野見宿禰。是以其邑有腰折田之縁也。野見宿禰乃留仕焉。
と記されています。
要約すると、垂仁天皇は、当時天下の力士だった當麻蹶速(たぎまのけはや)に並ぶ強い相手はいないかと問うたところ、出雲国に野見宿禰という勇士がいるとのことで、早速出雲から呼ばれ、二人は捔力(相撲)を取ることになった。その結果、野見宿禰が勝ち、當麻蹶速の地・当麻邑を賜った。野見宿禰は留まり、天皇に仕えた。
ということです。



稀勢の里、相撲の神様まつる神社で奉納土俵入り
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