歴歩

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豊岡市・祢布ヶ森遺跡 但馬国府の新たな役所跡 「想定より広かった」

2017年05月26日 | Weblog
 豊岡市教委は22日、同市日高町岩中の祢布ヶ森(にょうがもり)遺跡で、平安時代の但馬国府に関連した国衙とみられる複数の建物跡が見つかったと発表した。
 同遺跡の南端とされた位置よりさらに南200mの場所に、建物跡6棟(最大で縦4・8m、横約5・4m)になる掘立柱の柱穴跡が計39個見つかった。 穴の間隔も等間隔で、一定方向に正確に並べられていたため、役所の可能性が高い。
役人が儀式などに使ったらしい同時代の土器など約200点も出土した。 墨書土器も含まれていた。
 但馬国府は「日本後記」や、これまでの調査で出土した木簡から、延暦23年(804)に移転したとされる。
 今回の発見で、規模の大きい国府だったことがわかった。
[参考: 神戸新聞、産経新聞、毎日新聞]

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豊岡市・南構遺跡 古墳時代の竪穴住居跡12棟を発見、但馬国府と関連か

2013年10月24日 | Weblog
 兵庫県教委は、豊岡市日高町久斗(くと)の南構(みなみがまえ)遺跡から、古墳時代前後半の竪穴住居跡12棟(前期2、中期1、後期9)と横穴式石室を持つ古墳3基が出土したと発表した。 古墳時代の竪穴住居跡が多数見つかったのは但馬北部では初めて。
 奈良・平安時代の大規模な集落跡も発見されたことから、平安時代初め、近隣・日高地方に移転してきた但馬国府と密接に関連していた可能性があるとしている。
 古墳後期の子持勾玉や、貨幣「和同開珎」、平安期の緑釉陶器の皿なども出土した。
 現地説明会が26日(土)午後1時半から開かれる。
[参考:産経新聞、毎日新聞]

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キーワード:南構遺跡
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豊岡市・八坂神社古墳、中谷貝塚遺跡 縄蓆文土器出土を確認、天日槍伝説の重要資料 

2009年07月10日 | Weblog
 県立考古博物館と豊岡市立出土文化財管理センターが1日、豊岡市内で過去に見つかった古墳時代中期の二つの遺跡から出土した土器片14個が、亀田修一・岡山理科大教授(東アジア考古学)の鑑定で、朝鮮半島で作られた筋状の縄目模様のある縄蓆文(じょうせきもん)土器(승석문토기)であることが分かったと発表した。
 縄蓆文は、4~6世紀の朝鮮半島の土器に特徴的な技法で、縄を巻いた板で土器を整形した筋状の縄目模様。
 1981年に八坂神社古墳(同市土渕)で土器片11個と2003年に中谷貝塚遺跡(同市中谷)で土器片3個が出土した。甕や壺などの一部とみられる。
 古墳時代中期(5世紀後半)に渡来人が来た証拠になるという。縄蓆文土器は窯跡が主に朝鮮半島東南部から見つかっている。縄蓆文土器を焼いた窯は日本ではほとんど見つかっておらず、甕などの実用品のため、交易で伝わったのでなく、渡来人が直接持ち込んだ可能性が強いという。
 県内では、播磨地域を中心に約20例の縄蓆文土器の出土が確認されているが、アメノヒボコの伝説の舞台となった但馬地域では、柿坪遺跡(朝来市山東町)の1例のみで、しかも北但馬からは初めて。
 古代、新羅の王子、天日槍(アメノヒボコ)に代表される渡来人が、北但馬で存在したことを裏付ける重要資料としている。
 いずれも11日から同市日高町称布の但馬国府・国分寺館で開催される「アメノヒボコの考古学」展で展示する。9月6日まで。
[参考:2009.7.2読売新聞、2009.7.3日本海新聞、2009.7.10毎日新聞]

参考:
桜井市広報「わかざくら」平成17年9月号で、縄蓆文土器の出土について記されている。概略は次の通り。
 谷遺跡と安倍寺遺跡の度重なる調査により、二つの遺跡は鍛冶や玉造(たまつくり)に関係する集落の遺跡になる可能性が高いという。そして、両遺跡で出土した遺物の中から、縄蓆文タタキや格子目(こうしめ)タタキなど朝鮮半島で使われている土器と共通する仕上げや形をしている土器が確認されるようになってきている。古墳時代の鍛冶や玉造などの特殊技術は渡来系の人々との関連が考えられている。(時期は確定されていないが、古墳時代中~後期の遺構?)
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兵庫県豊岡市・祢布ヶ森遺跡 全国初めて「詩経」の木簡

2008年06月21日 | Weblog
市教委は20日、豊岡市日高町の祢布ヶ森(にょうがもり)遺跡で、平安時代(9世紀)の木簡約200点が出土し、一部に全国で初めて中国最古の詩集「詩経」の注釈書の一節が書かれた木簡が含まれていたことを発表した。
木簡は203点見つかり、詩経が書かれた木簡は長さ39・5cm、幅10・9cm、厚さ0・7cm。「淒寒風也谷風曰東風」(淒(せい)は寒風なり。谷風は東風という)などと墨書され、注釈書「毛詩正義」のものとほぼ同文だった。下には「健児長」とあり、国府を警備する兵士「健児(こんでい)」が字の練習のために書いた可能性がある。
(注)健児:、奈良時代から平安時代における地方軍事力として整備された軍団。
詩経の注釈書は当時「大学寮」の教科書として使われたとされ、地方の役人も都と同様に「詩経」を学んでおり、木簡から但馬の文化水準が高かったことがうかがえる。同遺跡は縄文時代から平安時代の複合遺跡で、これまでの調査で出土した木簡から、延暦23(804)年に移転した「但馬国府」跡とみられる。
 別の木簡には桓武天皇の姪「従三位五百井女王(じゅさんみいおいのじょおう)」の名前が記され、五百井女王が「従三位」の位だったのは808~812年であり、また別の木簡の中には「弘仁四(813)年」の年号を記するものがあり、木簡の時期が特定できた。
 ほぼ同時期の810~816年に但馬国司だったのは、桓武天皇の皇子で五百井女王の親類にあたる良岑安世(よしみねのやすよ)で、漢詩に秀で、後に漢詩集「経国集」を編集しており、詩経木簡との関連が注目される。
 木簡は21日~7月8日、豊岡市日高町の但馬国府・国分寺館で展示する。
[参考:産経新聞、読売新聞、毎日新聞、神戸新聞]



キーワード: 祢布ヶ森遺跡、但馬国府
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