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高島市・上御殿遺跡 8世紀末~9世紀前半の土師器の甕に人名「守君舩人」が7回墨書

2013年07月18日 | Weblog
 滋賀県文化財保護協会は17日、高島市安曇川町三尾里の上御殿(かみごてん)遺跡で、土器の周囲に同じ人名を7列記した特異な「墨書人名土器」(8世紀末~9世紀前半)が見つかったと発表した。
 土器は、口径約15cm、高さ約13cmの土師器の甕で、周囲に「守君舩人(もりのきみのふなひと)」という人名が縦書きで等間隔に7列、墨書されていた。底部に穴が開けられ、祭祀用だったとみられる。古代の川跡から見つかり、周辺からは厄除けなどに使われた8~11世紀の人形代(ひとかたしろ)51点や馬形代23点も見つかった。
 「守君」は日本書紀や古事記、新撰姓氏録に登場し、景行天皇の子孫(注1)とされ、美濃国(岐阜県)の豪族で、水の祭祀に関わった氏族「牟儀君(むげつのきみ、=牟宜都君身、毛津君)」と同族である。
 墨書人名土器など出土品は21日午前9時~午後5時に県立安土城考古博物館(近江八幡市)で公開される。午前10時と午後1時半には報告会がある。
[参考:共同通信、京都新聞、産経新聞、読売新聞]

(注1)
『日本書紀』巻七景行天皇四十年 秋七月癸未朔戊戌(十六日)。天皇詔群卿曰。今東國不安。暴神多起。亦蝦夷悉叛。屡略人民。遣誰人以平其亂。羣臣皆不知誰遣也。日本武尊奏言。臣則先勞西征。是役必大碓皇子之事矣。時大碓皇子愕然之。逃隱草中。則遣使者召來。爰天皇責曰。汝不欲矣豈強遣耶。何未對賊。以豫懼甚焉。因此遂封美濃。仍如封地。是身毛津君。守君凡二族之始祖也。

『古事記』 大帶日子淤斯呂和氣天皇(第十二代景行天皇)坐 纏向之日代宮 治天下也。
 此天皇 娶吉備臣等之祖 若建吉備津日子之女 名針間之伊那毘能大郎女 生御子 櫛角別王 次大碓命 次小碓命 (略) 
 大碓命者【守君 大田君 嶋田君之祖】。 (略)
 天皇聞看定三野(美濃)國造之祖 大根王之女 名兄比賣 弟比賣二孃子 其容姿麗美而 遣其御子大碓命以喚上 故其所遣大碓命勿召上而 即己自婚其孃子 更求他女人 詐名其孃女而貢上 於是天皇知其他女 恆令經長暇亦勿婚而惚也
 故其大碓命娶兄比賣 生子 押之兄日子王【此者三野宇泥須和氣之祖】亦娶弟比賣 生子 押弟日子王【此者牟宜都君等之祖】



キーワード:上御殿遺跡、墨書人名土器
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