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京畿義王市・円通寺は世宗妃・昭憲王后の願刹

2012年12月19日 | 韓国の遺跡・古墳など
 京畿道義王市(注1)清渓洞清渓山の中腹に跡だけが残った円通寺(원통사)という寺(注2)は、朝鮮第4代世宗(1397-1450)の昭憲王后沈氏(1395-1446)が発願して重創した朝鮮王室の願刹であった。
(注1)2007年に儀旺市から義王市に改称
(注2)ソウルの南にあり、漢江を越えて約15kmの距離。清渓山(標高618m)の中腹、南西斜面にある。
 水原大博物館は11日、義王文化院の依頼で行った円通寺址の調査過程で、このような事実を裏付ける決定的な文献記録と考古学遺物を同時に発見したと発表した。
 文献記録は、朝鮮前期代の文臣であり世祖時代の高僧・慧覚尊者信眉(1403-1480)の弟である金守温(1409-1481)文集の『拭疣集』で、昭憲王后が発願して重創し、それを再び彼女の末の息子・永膺大君(1434-67)がより一層大きく重創した事実を記録した『円通菴重創記』である。
 この重創期によれば、円通寺は昭憲王后が君主世宗の萬壽無彊(ばんじゅむきょう)を祈願して内需司に命を下して、洪煕乙巳(注3)、すなわち、世宗7年(1425)に僧侶海幢を代表に選んで重創したという。 この時、南向の仏殿(注4)を中心にその両側(東西)に禅堂と僧堂を建てた。
(注3)洪熙(こうき)の年号は、明朝第4代洪熙皇帝(1378-1425)の在位期間1424-1425に当るもの。
(注4)1425年に重創する前の建物はこの仏堂があるが、他には不明。
 その後、世宗11年(1429)に応真殿を建てたこと、さらに、昭憲王后死後には世宗と王后の間の8番目息子であり首陽大君世祖(1417-1468)の弟である永膺大君(1434-1467)が、龍門寺住持出身である大禅師戒眼を招聘して寺刹容貌を大々的に一新して世祖8年(1462) 8月には落成式を記念して大規模法会を開いたことなどが記されている。 これからみて、円通寺は昭憲王后の願刹に間違いないとしている。

 考古遺物としては、「洪煕」という年代を刻んだ瓦が発見された。「洪熙」は1425年の1年だけ使用された中国明国年号であり、この年はまさに金守溫の円通庵重創記で記している昭憲王后が円通庵を創建し始めたその年である。 2001年に世宗大博物館が円通寺址の地表調査を実施したことがあり、この時、「洪○」という銘文瓦が収集されたが、今回の調査で「洪煕」という字だったことが確認された。

 王室願刹として繁栄した円通庵が朝鮮中期以後に編纂された『新東国輿地勝覧』(1530編纂)では円通寺の名前が見られないことから、これ以前のある時期に廃寺になったとみられると推定される。
[参考:: 聨合ニュースほか]
 備考:記事の内容に腑に落ちない部分もあり、また、円通菴重創記の原文がわからないので、推定をまじえてまとめてみた。

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