曹洞宗・崑崙山 玉窓寺 (港区南青山2-7-8)
青山忠成(1551-1613)の息女(玉窓秀珍大姉、?-1601、川口長三郎近次室)死去後、母・忠成内室(天方通興女?)が、その菩提を弔うため青山家下屋敷に、玉窓秀珍大姉を開基、青松寺(港区)八世頭室伊天(とうしついてん、普光禅師、1523-1600)を開山として慶長6年(1601)に建立した。 二世は青松寺九世一峯麟曹(いっぽうりんそう)大和尚。
山門はビルに囲まれながらも、閑静さを感じる。 山門には鬼瓦とともに獅子あるいは狛犬の飾り瓦がありちょっとユーモラスである。
歴代住職の墓が立ち並び、写真左の真中には当寺開山・普光禅師、2世・一峰麟曹(いっぽうりんそう、1567-1623)、3世・渓翁玄岳の名が刻まれている。
当寺開山 勅特賜普光禅師、 二世 一峯麟曹大和尚、 三世 中興 渓翁玄岳大和尚
歴代住職の墓の左手前に建つ宝篋印塔は、川口長三郎近次(注1)とその室であり当寺開基・玉窓秀珍大姉の名が並んで刻まれている。
元和五巳未□ 六月十二日 天翁了雪居士、 慶長六辛丑天 六月十六日 玉窓秀珍大姉
(注1)川口長三郎については、新訂寛政重修諸家譜9に詳しい。
「左馬充長三郎、実は松下右近将監高信が男。母は松下源太郎安秀が女。 高信遠江国頭陀寺城没落の時近次わずかに2歳。乳母に抱かれて川口合左衛門某が許に至り、後これが養子となる。」としている。 松下家は、宇多源氏(祖:源雅信)の流れを汲み、高長を祖として、遠江・浜松庄で活躍している。高長→長信→国長と続き、国長の長男・国綱の系統はその後徳川時代に大名を輩出するようになる。 国長の三男・長範の系統が為雲(注2)、高信そして長三郎となる。
長三郎を養子にした川口合左衛門某は、遠江新居関所の初代関所奉行になった江馬一成の配下であるとしている。 その後の、長三郎については、
「天正14年召れて東照宮につかへたてまつる。時に33才。のち小田原の役に属従し、文禄元年相模国のうちにおいて、采地200石をたまひ、二年下総国のうちにて100石の新恩あり、3年御使番となり、5年関原の役に供奉す。7年上総国のうちにをいて700石を加えられ、すべて千石を知行す。
のち、台徳院殿に勤仕し、元和元年大阪の役にしたがひたてまつる。五年六月十二日死す。年四十六歳。法名了雪。青山の玉窓寺に葬る 。のち代々葬地とす。 妻は青山忠成が女。」
と記されている。
長三郎近次の後は正武(左門長三郎、1595-1640、法名宗見) → 正信(1616-1684、法名政信) → 政平(?-1693、長三郎、法名幼枝)と続いていく。
正信は、正保4年(1647) 奉行として千住大橋(小塚原橋)の架け替えを行っている。
政平室は青山忠俊(1578-1643)の息女である。
(注2)松下為雲(藤六郎)
[「紹巴富士見道記の世界」内藤佐登子著 2002 続群書類従完成会発行]に、戦国時代の連歌師紹巴は、為雲とは十年も京にいた旧友と書いている。 さらに、為雲の子・高信には秀綱という弟がいて、後に都築雅楽助秀景の養子になる。通称惣左衛門。遠江国では今川氏真に仕え、秀景の死と今川氏衰退の後、徳川家康の配下となるとしている。
2017.5.8追記
NHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」に登場する松下常慶について
国長の子、長男・国綱、三男・長範の間に二男・連長がいる。
連長→(安秀)→連昌→四男・安綱と続く。
安綱が「二諦坊」の主こと修験者・松下常慶(1558-1624)である。
青山忠成(1551-1613)の息女(玉窓秀珍大姉、?-1601、川口長三郎近次室)死去後、母・忠成内室(天方通興女?)が、その菩提を弔うため青山家下屋敷に、玉窓秀珍大姉を開基、青松寺(港区)八世頭室伊天(とうしついてん、普光禅師、1523-1600)を開山として慶長6年(1601)に建立した。 二世は青松寺九世一峯麟曹(いっぽうりんそう)大和尚。
山門はビルに囲まれながらも、閑静さを感じる。 山門には鬼瓦とともに獅子あるいは狛犬の飾り瓦がありちょっとユーモラスである。
歴代住職の墓が立ち並び、写真左の真中には当寺開山・普光禅師、2世・一峰麟曹(いっぽうりんそう、1567-1623)、3世・渓翁玄岳の名が刻まれている。
当寺開山 勅特賜普光禅師、 二世 一峯麟曹大和尚、 三世 中興 渓翁玄岳大和尚
歴代住職の墓の左手前に建つ宝篋印塔は、川口長三郎近次(注1)とその室であり当寺開基・玉窓秀珍大姉の名が並んで刻まれている。
元和五巳未□ 六月十二日 天翁了雪居士、 慶長六辛丑天 六月十六日 玉窓秀珍大姉
(注1)川口長三郎については、新訂寛政重修諸家譜9に詳しい。
「左馬充長三郎、実は松下右近将監高信が男。母は松下源太郎安秀が女。 高信遠江国頭陀寺城没落の時近次わずかに2歳。乳母に抱かれて川口合左衛門某が許に至り、後これが養子となる。」としている。 松下家は、宇多源氏(祖:源雅信)の流れを汲み、高長を祖として、遠江・浜松庄で活躍している。高長→長信→国長と続き、国長の長男・国綱の系統はその後徳川時代に大名を輩出するようになる。 国長の三男・長範の系統が為雲(注2)、高信そして長三郎となる。
長三郎を養子にした川口合左衛門某は、遠江新居関所の初代関所奉行になった江馬一成の配下であるとしている。 その後の、長三郎については、
「天正14年召れて東照宮につかへたてまつる。時に33才。のち小田原の役に属従し、文禄元年相模国のうちにおいて、采地200石をたまひ、二年下総国のうちにて100石の新恩あり、3年御使番となり、5年関原の役に供奉す。7年上総国のうちにをいて700石を加えられ、すべて千石を知行す。
のち、台徳院殿に勤仕し、元和元年大阪の役にしたがひたてまつる。五年六月十二日死す。年四十六歳。法名了雪。青山の玉窓寺に葬る 。のち代々葬地とす。 妻は青山忠成が女。」
と記されている。
長三郎近次の後は正武(左門長三郎、1595-1640、法名宗見) → 正信(1616-1684、法名政信) → 政平(?-1693、長三郎、法名幼枝)と続いていく。
正信は、正保4年(1647) 奉行として千住大橋(小塚原橋)の架け替えを行っている。
政平室は青山忠俊(1578-1643)の息女である。
(注2)松下為雲(藤六郎)
[「紹巴富士見道記の世界」内藤佐登子著 2002 続群書類従完成会発行]に、戦国時代の連歌師紹巴は、為雲とは十年も京にいた旧友と書いている。 さらに、為雲の子・高信には秀綱という弟がいて、後に都築雅楽助秀景の養子になる。通称惣左衛門。遠江国では今川氏真に仕え、秀景の死と今川氏衰退の後、徳川家康の配下となるとしている。
2017.5.8追記
NHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」に登場する松下常慶について
国長の子、長男・国綱、三男・長範の間に二男・連長がいる。
連長→(安秀)→連昌→四男・安綱と続く。
安綱が「二諦坊」の主こと修験者・松下常慶(1558-1624)である。
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