町教委の発掘調査で中世の紀南で勢力を持っていた安宅(あたぎ)氏が築城したといわれる要害山(馬谷・うまんたに)城主郭跡から住居跡が確認された。
礎石やくぎ、備前焼の破片など生活していた裏付けとなる遺物が多数出土した。
町教委は、熊野水軍の一翼を担ったとされる安宅氏の関係する山城群を2005年度から調査し、国史跡指定に結びつけるためにその実像を解明しようとしている。要害山城は今回、初めて発掘した。町教委と富田坂クラブ会員など地元住民が約60㎡を調べたところ、一の曲輪と呼ばれる主郭から平面に切り取られた礎石が複数出土し、その近くで備前焼の破片がまとまって見つかった。青磁の破片も交ざっており、種類は不明だが古銭1枚も出土した。このほか、生活道具の茶臼の破片、建物の木材をつないでいたとみられるくぎ十数本(5~10cm)も出ている。
要害山城跡は、熊野古道富田坂沿いの富田平野が見渡せる標高90mの山上にある。伝承では1494(明応3)年に安宅氏が家臣の吉田春季に築城させたといわれる。領地の北の境目にあり、合戦が絶えなかった隣接の山本氏との最前線に位置する基地だったとみられている。これまでの測量調査で長い畝状の防御用竪堀11本が見つかっている。
11日(日)10時から現地説明会が行われる
[参考:紀伊新報]
備考:
和歌山県白浜町には要害山城と呼ばれる山城が2つある。
①西牟婁郡白浜町高瀬 (別名馬谷城) 築城・吉田春秀 時期・明応3年(1494)
②西牟婁郡白浜町堅田 築城・堅田善行 時期・元徳2年(1330)頃
日置川町にある・安宅氏の八幡山城跡から、富本銭(7世紀後半)が中世にも造られたことを示す模鋳銭が出土している。
礎石やくぎ、備前焼の破片など生活していた裏付けとなる遺物が多数出土した。
町教委は、熊野水軍の一翼を担ったとされる安宅氏の関係する山城群を2005年度から調査し、国史跡指定に結びつけるためにその実像を解明しようとしている。要害山城は今回、初めて発掘した。町教委と富田坂クラブ会員など地元住民が約60㎡を調べたところ、一の曲輪と呼ばれる主郭から平面に切り取られた礎石が複数出土し、その近くで備前焼の破片がまとまって見つかった。青磁の破片も交ざっており、種類は不明だが古銭1枚も出土した。このほか、生活道具の茶臼の破片、建物の木材をつないでいたとみられるくぎ十数本(5~10cm)も出ている。
要害山城跡は、熊野古道富田坂沿いの富田平野が見渡せる標高90mの山上にある。伝承では1494(明応3)年に安宅氏が家臣の吉田春季に築城させたといわれる。領地の北の境目にあり、合戦が絶えなかった隣接の山本氏との最前線に位置する基地だったとみられている。これまでの測量調査で長い畝状の防御用竪堀11本が見つかっている。
11日(日)10時から現地説明会が行われる
[参考:紀伊新報]
備考:
和歌山県白浜町には要害山城と呼ばれる山城が2つある。
①西牟婁郡白浜町高瀬 (別名馬谷城) 築城・吉田春秀 時期・明応3年(1494)
②西牟婁郡白浜町堅田 築城・堅田善行 時期・元徳2年(1330)頃
日置川町にある・安宅氏の八幡山城跡から、富本銭(7世紀後半)が中世にも造られたことを示す模鋳銭が出土している。
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