歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

仙台市・中在家南遺跡隣接地 東北初の弥生中期の機織り部材「緯打具」が出土

2013年09月05日 | Weblog
 仙台市教委は4日、若林区蒲町字南の中在家(なかざいけ)南遺跡の西に隣接する農地で、弥生時代中期に使われたとみられる機織り機の部材「緯打具(よこうちぐ)」が見つかったと発表した。弥生期の機織り機の部品は、東北での発見は初めて。弥生時代に布を織る技術が仙台平野に伝わっていたことを証明する史料という。
 今回の調査で、中在家南遺跡で確認された川跡の延長部分が確認され、ここから弥生時代(約2000年前)と古墳時代(約1600から700年前)の木製農具が出土。 緯打具は8月上旬に、地下約2.5m地点から出土した。 幅約5cm、長さ約23cm、厚さ約1cmの木片で、糸で擦れたような線状の跡が何本も付いていた。 麻を織っていた可能性が高いとみている。
 ほかに、東北で初めてとなる木製農具「組み合わせ斧柄(おのえ)」も見つかった。
 発掘調査結果の報告会が7日(土)午前10時半~11時半に開かれる。
[参考:河北新報、仙台市HP]

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木津川市・浄瑠璃寺 本堂は保元2年(1157)移築の記録裏付け

2013年09月05日 | Weblog
 
 京都府木津川市教委は4日、真言律宗 小田原山浄瑠璃寺(同市加茂町)で、12世紀前半に高さ約1mにわたり土を盛って造成し、本堂が移築されていたことが分かったと発表した。
 現在の本堂・九体阿弥陀堂(国宝)は庭園の池の西側にある。当寺に伝わる寺の変遷を記した室町時代の文献「浄瑠璃寺流記」(重要文化財)(注1)には12世紀中頃までに庭園整備が完成し、「保元2年(1157)に本堂を西岸の辺に壊し移す(移築した)」などと記されており、その記述を裏付け、寺の成立を知る発見という。
 本堂の下を発掘したところ、土が層状になっており、地面の約50cm下に盛り土や井戸状の石組み遺構が見つかった。庭園の池の岸に小石を敷き詰めた洲浜を確認した。
 今回見つかった遺構からは、1110~30年代によく使われた瓦器椀が出土し、盛土造成や洲浜整備が、12世紀前半から行われたことがほぼ裏付けられたとしている。
石の間にあった土器1点(12世紀前半の瓦器(がき)碗)から、盛り土された時期を12世紀前半と特定した。
移築前から現在のような浄土式庭園もあったことがほぼ裏付けられた、と発表した。
 現地説明会は7日(土)午前11時、午後2時の2回開かれる。
[参考:共同通信、産経新聞、京都新聞]
 
(注1) 『浄瑠璃寺流記事』(じょうるりじるき)
 南北朝時代の観応元年(1350)に寺僧長算が転写したもの。
 当寺は応承2年(1047)、僧・義明(ぎみょう)上人を開基として創建されたものであるという。
 嘉承二年(1107) 本仏である薬師如来像などを「西堂」へ移す。本堂は取り壊し。
 嘉永三年(1108) 新・本堂(九体阿弥陀堂)を建立。
 久安三年(1147) 藤原忠通の第一子・伊豆僧正恵心(えしん)が入寺。
 保元二年(1507) 本堂(九体阿弥陀堂)を西側に移建。
[参考:「浄瑠璃寺と南山白の寺」(肥田路美著、昭和62年保育社発行)]



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古賀市・谷山北地区遺跡群 新たに漆塗りの弓を複数確認、累計10点以上

2013年09月05日 | Weblog
 6世紀末から7世紀初頭(古墳時代)の漆塗りの弓6点が確認された福岡県古賀市の谷山北地区遺跡群で、新たに複数の弓が見つかり、出土点数が少なくとも10点に上ることが分かった。
[参考:共同通信]

過去の関連ニュース・情報
013.6.8谷山北地区遺跡群 新たに武器、農具を確認
 弓は馬具の下に敷き詰められ、見た目は黒い漆膜状だが等間隔に装着された飾り鉄製金具や、先端に取り付ける金具「弓弭(ゆはず、弓の両端の、弦の輪をかける部分)」が4点確認され、少なくとも6点、漆膜状の広がりから、それ以上あるとみられるという。
2013.4.19谷山北地区遺跡群 船原3号墳に隣接した埋納坑から古墳時代後期の金銅製馬具が一式出土
 馬具の下には類例のない黒漆の膜が確認


キーワード: 船原3号墳、船原古墳
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