歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

東京都杉並区・立法寺 長谷川正次系の墓

2011年04月09日 | Weblog
日蓮宗 長廣山 立法寺 (杉並区和田2-16-3)


 山門は北に置かれており、本堂は北向きである。 南側は下り坂で、墓地になっている。
 寺の前に立つ説明板(平成21年2月 杉並区教育委員会)により、(時系列に整理すると)
永正3年(1506) 長廣院日立上人を開山、秋里氏を開基とし、赤坂(現港区)に開創され、その後、青山権田原(現港区元赤坂)に移転したと伝わる。 「文政寺社書上」には、寛永8年(1631)、立法院日了上人により青山権田原甲賀町(現港区元赤坂)に開創されたと記されている。(注1)
元文2年(1737) 千駄ヶ谷村名主太十郎の先祖弥次右衛門より土地を寄進され、当寺七世境妙院日性上人の代に千駄ヶ谷村(現国立競技場内)へ移転。(注2)
安政2年(1855) 火災により堂宇を焼失。
明治初年に再建。
大正8年(1919) 明治神宮外苑造営のため、現在地に移転。
昭和56年(1981) 宗祖七百遠忌の際、本堂、客殿、庫裏を新築。
平成15年(2003) 立教開宗七百五十年・開創五百年の記念事業として鳳凰門(仁王門)と宝塔を建立。
としている。

(注1) 青山権田原を現在の元赤坂に比定しているが、権田原の地名の由来と範囲は諸説ありわかっていない。
「地図で見る新宿区の移り変わり(四谷編)」(発行 昭和58年 新宿区教育委員会)[資料1](19世紀前半頃に編纂されている「御府内沿革図書」を参考にしている)をみると、延宝年中までには千駄ヶ谷御焔硝蔵の東(現・新宿区霞ヶ丘2 神宮外苑グラウンド中央付近)にあり、2011.1.28付けで記した「千駄ヶ谷村・霊山寺領 崇源院(江姫)の寄進によるもの」の中で、慶長11年(1606) に崇源院(江姫)が寄進した浄土宗・霊山寺領のひとつである百姓町屋の西に隣接している。 そして、「元文二巳年(1737)中 転地に成」と記されている。
(注2) [資料1]で、「元文ニ巳年(1737)中西手寺領入会百姓地の内立法寺。 元地青山権田原より当地え引移候由に有之。」と記しており、(注1)の場所から移転したことがわかる。 すると、現在の神宮外苑グラウンド中央付近(新宿区霞ヶ丘2)も「権田原」の範囲であったのかもしれない。 さらに、偶然あるいは所以があってか、移転されてきた立法寺の南に隣接して、崇源院(江姫)が寄進したもうひとつの霊山寺領の百姓町屋があった。
 また、名主太十郎家は、この霊山寺領の北にかつてあった浄土宗・長善寺にも寺地を寄進した。


 本堂などの建物には家紋が見られるが、ひとつは「井桁に橘」。日蓮宗の宗門であるが、屋根の鬼瓦に刻まれた紋は橘に3つ足がある。
 もうひとつは、瓦当には丸に上り藤紋で中に字?が描かれている。 秋里氏の家紋か?


 墓地に入り、歴代住職の墓のほかに興味のあったのは、長谷川正次系の長谷川家の墓。 長谷川正長には3人の男子があり、本家・正成、分家・宣次、正吉。 正成の後、本家を継ぐのは嫡男・正登。 次男・正次が分家を興す。 正次以降は、正重、正冬、正珍、正賢、正光、正陽、正義と続く。 立法寺にある長谷川家の墓で名前と没年が明確なのは正陽氏(1807-1865)。 6代目長谷川平兵衛藤原正陽…と刻まれている。
 墓の上部に家紋が2つ刻まれていた。 左に釘抜紋、右に左藤巴紋であった。
 
 長谷川家でも正長の次男・宣次を分家とする家系の宣似(長谷川平蔵)を主人公にした、池波正太郎作『鬼平犯科帳』の「埋蔵金千両」にも、この立法寺が登場する。 備前岡山の浪人・太田万右衛門こと盗賊・小金井の万次郎が住んだ場所が立法寺の裏であると設定されている。 現・国立競技場のグラウンド内西側あたりが想定される。

追記
 (注2)を続けて、もう少し、[資料1]の地図を見てみると、立法寺が移転されてきた場所の東隣に、宮重という名字が見える。 延宝年中(1673-1681)は御焔硝蔵地であったが、元禄10年(1697)に宮重作衛門の名が現れる。 元文二年(1737)には代替わりであろうか、宮重惣右衛門となっており、延享三年(1746)まで続いていたが、その後19世紀前半頃にはと3分割されてほかの人の名前に変わっている。
 長谷川平蔵こと宣以(のぶため)の菩提寺である日蓮宗・戒行寺(新宿区須賀町)の開基は宮重作兵衛忠次(?-1646)である。 同じ名字の「宮重」でその関係はいかが?
 また、立法寺があった場所の南、ひと屋敷先に長谷川という名前がある。 延宝年中は、まだ御焔硝蔵地であったが、元禄10年(1697)には大岡宇右衛門の名が現れ、正徳3年(1714)には長谷川藤左衛門、享保9年(1724)には長谷川藤九郎、延享三年(1746)には長谷川熊之助、19世紀前半頃には長谷川平兵衛になっている。 先の、6代目長谷川平兵衛藤原正陽(1807-1865)と、名前、時代とも一致している。 同一人物である可能性が高いのではと推定する。
コメント
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