カゲロウの、ショクジ風景。

この店、で、料理、ガ、食べてみたいナ!
と、その程度、に、思っていただければ・・・。

嘔吐/J‐P・サルトル

2010年12月10日 | 日記
「嘔吐」と書いて、「はきけ」と読ませたい。
訳者としては、本来的には、「おうと」と読ませたいのではない、そのつもりらしいこの小説、1938年、サルトルの作品である。

サルトル、哲学者の作品などというと、シリアスで、ひたすら難解、小説としては、かなり小難しいなどのイメージが、巷にはあるのかもしれない。
だが、実際のところ、本作は、ユーモアの塊のような小説である。

尋常ではない密度で描かれる、狂人のものと言っていい、それ程の心理描写。
同じく、気違いの視点で描かれる小説に、魯迅の「阿Q正伝」などもあるが、そちらが比較的、社会風刺的であるのに対し、こちらは徹底して個人の在り方、彼に見える実存を描いているという点で、また別の類のものではある。

実際のところ、本作は、その手の雰囲気だけを追いかけるために、まるで的を得ない描写を重ねるような、ありきたりな偽物的作品とは異なり、とことん徹底的でありながら、的確で共感を抱かざるを得ない、その要所々々の詳細、誰しもが、どこか身に憶えのある感覚、それらは文句なく驚嘆に値するのではあるが、如何せん、それらのエピソードが、成るべくして繋がっていかない、そんな印象を受ける。

それはそれで、クールである、そう言えるのかもしれない。
だがしかし、もしかすると、そのような描き方そのものが、作家の照れ隠しのような気もする。

哲学というものは、宗教を排除する事、それを大前提として、成り立っている、そういう空気はあるものの、それは実は、謙虚に過ぎる定義であって、実際のところ、どれ程メジャーな宗教であれ、所詮はひとりの人間の妄想が生んだ思想、ビジョンであるその事に、違いはない。
つまり、宗教とは、ひとつの哲学なのである。

ま、異論も色々とあるであろうが、人はそれぞれ、思うように思えばいいのであって、他の人間がどう思おうと構わない、それとこれとは、また別の問題である。

要するに、何が照れ隠しなのかと言えば、実存を超えるもの、それに言及すると、宗教的にならざるを得ない、だから、より冷静に、客観的にあろうとするならば、学問の域を出る事は、出来ない。
だがしかし、何が書きたいのか、ハッキリした目的、その結論が、書く前から出ている小説に、感動はない。
道中、如何に脱線しようと、如何に狂人的視点で描こうと、ある段階を超えた驚きと感動を、学問的な要素だけで生み出す事は、出来はしない。
作家自身も、この先どうなるのかわからない、そのような状態で書き進められていく物語でなければ、読む側にスリルを与える事は、不可能である。
朧げに見えている、もしくは全く見えない結末に近づいていくその速度は、書き手も読み手も同じであるべきで、単なる予定調和に対しては、驚きも感動もあり得ない、それも、書き手も読み手も、同じである。

あえて言うのであれば、ジャンルに捕らわれない勇気、もしかすると、それが、本作には、決定的に足りない、そのように、思わなくもない。
哲学は勿論、宗教、さらに、科学にメロドラマ、それさえも呑み込んでこその、優れた小説、物語なのではなかろうか。


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