カゲロウの、ショクジ風景。

この店、で、料理、ガ、食べてみたいナ!
と、その程度、に、思っていただければ・・・。

グリル 小宝

2011年01月30日 | 京都
「夢は叶う、望む以上に。」

懐かしむ、そればかりではないのである。

不可解な事に、身に憶えのない、そんなお店であっても、懐かしい、そう感じる事が多々ある、それが、優れた洋食屋の特色なのである。
特に、建物が古びているという訳ではない、それでも、懐かしいと感じる何かを持っている、いや、何か、ではない、味を持っていれば、それが、ほとんど全て、そうなのかもしれない。
確かに、古風な洋食の数々ではあるが、懐かしさ、それだけには止まらない、微妙に好ましい風味、それが、小宝にはある、そんな気がする。
京都には、他にも数軒、そのような郷愁を感じさせてくれる洋食屋が、あるにはあるのだが、その中でも、この小宝というのは、あからさまに突出した風味というのではないのだけれど、素人では言葉にならない、微かに個性的な風味を持っている、そのように思える。

兎にも角にもな、その大きさに比例して、お値段もそれ相応である小宝の洋食、要するに、これは、数人で訪れて、シェアするのが前提、そういう料理なのではなかろうか。
提供する立場にあっては、少々提言し辛い事ではあるが、ハッキリ言えば、お一人さまを、それとなく拒否している、同じく別の言い方であれば、客単価の低い商売はしたくないという事にも取れる、そのような按排である。
勿論、その価格で、その一品を、独力で制覇出来る客ならば、提供する側としても、文句はない、そういう訳であろう、そしてしかし、それどころか、むしろ、それを望んでいる、そのようなフシもある、これらの料理の有り様を眺めると、一面そう思えなくもない。

来る日も来る日も、同じ料理を作り続け、提供し続ける側にとって、美味しく食べて喜んでもらえれば、それだけで幸せなどという、奇麗事だけでなく、何かひとつ、口には上せない楽しみのようなものがあるとすれば、選択の余地のない、並以上の大きさのその料理を、悶え苦しみながら食べる客に、独力でそれを平らげ、驚かせてもらいたい、そんなサディスティックな欲求が、どこか心の片隅にあったとて、何の非難の謂れがあろう事か。
実際のところ、そのような思いをぶつけているとしか思えない、そんな類の料理屋というのが、一定数存在するというのは、そう言われてみれば一軒くらい、誰しもの脳裏に思い浮かぶことであろうが、単なるそれらのお店と小宝が違うのは、やはりその洋食、一品一品の旨さである。

正直、最終的に、印象として料理の旨さを相殺してしまうその量で、思い返せば、ひたすら腹の膨れる洋食であったという思いの残るお店であろう事、あまりにもありがちな、小宝。
だがしかし、やはりその真髄というのは、当初の一口、二口めに、意外と言っては何ではあるが、仄かに繊細な風味を感じさせる、その料理、その質であり、その本来評価されるべき本質を、何事かによって相殺される事なく味わう、そのつもりなのであれば、必然、食べ過ぎない事、それは、かなり重要な案件なのである。

そう、当たり前でしかない事を、あえて言うのではあるが、此処、小宝というのは、大人から子供まで、一家一同で伺い、様々の洋食を注文し、分け合う、それが、ベスト、それが、お店にとっても、おそらくは望ましい客としての在り方である。
だが、もし、それでも故あって、一人で訪れ、いかに苦しかろうとも、腹がはちきれる程に、たらふく洋食を食べてみたい、そう思うのであれば、此処、小宝にてその夢は、望む以上に叶う事、請け合いである。