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ザ☆シュビドゥヴァーズの日記

中都会の片隅で活動する8~10人組コーラスグループ、ザ☆シュビドゥヴァーズの日常。
あと告知とか色々。

幼少期に見た映画のワンシーン

2019-03-24 23:51:53 | ヨン様
こんばんは、ヨン様です。


小さいころに観た映画やテレビ番組というのは、非常に断片的なワンシーンの記憶だけ残っていて、肝心の話自体はあまり覚えていない、ということがありませんでしょうか。
そのワンシーンと言うのは、必ずしもストーリー全体として見て重要であるとは限りません。
話の展開として非常に些末なところであったりするのに、なぜか覚えているのです。

このように作品のシーンだけを断片的に覚えている場合、当然作品の名前自体は忘れていたりして、ほとんどの場合その記憶を追跡することができません。
「あー、あんなシーンのある作品があったなぁ」と思うだけで、その作品をもう一度見ることはかなわないこともよくあります。
最近は限られた情報からの検索可能性が上がってきているので、サルベージできるチャンスは増えているとは思いますが、さして重要でないシーンの記憶からではやはり限界があります。

ただし、特定キャラクターの作品など、例外的に作品の出自が追跡できる場合があります。
最近私が見た映画の場合もそれでした。
具体的には、『クレヨンしんちゃん ブリブリ王国の秘宝』がそれです。

私が覚えていたシーンは、大したことはありません。
このお話では、しんちゃん一家が悪の組織の陰謀で「ブリブリ王国」という国に連れてこられるのですが、その際、組織はニセの福引を実施することで野原一家をブリブリ王国に招待します。
悪の組織が設置した福引(回すと玉が出るタイプ)は、中身全てが特賞を表す金の玉になっており、強引にブリブリ王国への旅行を押し付けることで、野原一家を罠にかけるというわけです。
私が覚えていたのは、まさにこの福引のシーン、その中でも、福引のガラガラの中身が金の玉で埋め尽くされているのが映されるカットです。
なぜ、このカットを鮮明に覚えていたのか、正直よくわかりません。
さして重要なシーンとも思えないのですが、子供のころには、こういったそれほど重要でないシーンが強烈に脳裏に焼き付いていたりするものです。

今回の場合は、「クレヨンしんちゃん」という比較的メジャーなキャラクター映画のシーンであったために、作品全体をサルベージすることができました。
しんちゃんの映画の中で、あらすじの中に福引が登場するものは他にないようなので、そういった意味でも特定のしやすい映画だったように思います。
これは比較的幸運な(?)ケースで、記憶の闇に葬られてしまう作品も少なくありませんし、記憶違いをしている可能性も捨てきれません。

ところで、作品全体を見返してみると、意外と「あ、そういえばこんな場面もあったな」というシーンに出くわすことがあります。
鮮明に覚えていたのは、先ほどの福引のシーンだったのですが、その他のシーンも、見返してみると案外覚えていたりするのです。

頭の中でどういう整理の仕方をしたらそのような記憶の仕方になるのかについては、見当もつきません。
人間の脳は無意識のレベルでかなり細かいところまで記憶しているとも聞きます。
映画を鑑賞したことがトリガーとなった、古い記憶が呼び覚まされるということがあるということなのでしょうか。
もう少し使い勝手の良い記憶装置だったら助かるんですけどね…。


皆さんにも、幼少期の断片的な記憶の中に眠る作品がありますでしょうか。
時がたって改めて探してみたら、思わぬ再開を果たせるかもしれませんね。

それでは!

物理メディアを買ってしまう人の話

2019-03-17 23:23:15 | ヨン様
こんばんは、ヨン様です。


編集画面を開いたまま日をまたいでしまったので、例によって変な時間の更新となります。
どうかご容赦を。

本日は練習が行われました。
来月末に行われる合唱交流会に向けた曲に取り組んでおります。
まだ細かいミスはあるものの、全体の方向性はまとまってきたでしょうか。
残り一ヶ月でしっかり歌いこなせるよう頑張ってまいります。

今回の練習後はエスさんの家でスマブラをやろうかと思っていたのですが、諸事情によりそれはかないませんでした。
エスさんがダウンロード版で購入していたスマブラをうっかり消してしまっていたそうで、再ダウンロードの時間が間に合わなかったのです。
次回はちゃんとスマブラをやってから帰りたいところです(練習しろ!)。

ところで、最近はゲームソフトをダウンロード版で購入するひとが増えているのでしょうか。
ダウンロード版のほうが、ソフトを収納する物理的なスペースも必要ありませんし、日付変更とともにプレイ可能になるといったようなメリットがあります。
メーカー側も、一度ネット環境などのハード面の条件をクリアしてしまえば、物理的にソフトを提供したり販路を通したりする必要がない分、電子版の方が楽になるでしょう。
ましてや、ITも成熟しつつあるこのご時世です。
物理メディアなどは、今後エンシェントなテクノロジーとして骨董品のようなものに変化していくのかもしれません。

ちなみに私は、いまだに物理メディアがある場合には物理メディアのほうを選んでしまいます。
古臭い考えなんですかね。
物理メディアといっても、今どきはインターネットを介したアップロードがなければ動作等に問題が出る場合もあるので、もはやどこまで物理メディアに固執する意味があるのかと言われると反論の余地もありません。
なので、実利的な面というよりは、コレクション欲を満たすという側面のほうが大きいかなと思っています。

CDが登場したことで、アナログのレコードはほとんどが駆逐されてしまいました。
しかし一方で、レコードで聴くことに対するこだわりを持っている、根強いファンもいます。
アナログレコードのほうが理論上は収録音域に制約がないから、などと、合理的な理由付けをしようとする人もいるようですが、実際にはそれだけじゃないでしょうし、好きでいるということに合理的な理由は必ずしも必要ありません。
CDとの音質の差が実際的にあるかどうかということよりも、そのように信じて悦に入れることが重要なのです。
そう考えると、これからメディアの電子化(反物理化)がどんなに進んでいき、どれほどメジャーな市場で物理メディアが駆逐されていったとしても、ファミコンの、あの「カシャッ」とはめるカセットソフトを愛好し続ける人は存在し続けるでしょう。


そんなわけで、私は今後も物理メディアを購入し続けることになるかと思います。
おうちがCD屋敷にならないよう気をつけます。

それでは!

トラベルセットの歯ブラシに物申す

2019-03-10 23:53:45 | ヨン様
こんばんは、ヨン様です。


現在、所用で愛媛県に来ております。
愛媛というのはポンジュースが蛇口から出てきたりする県です。
あとはまぁ、みかんがおいしいです。

最近、トラベルセットの歯磨き粉が切れて、そろそろ買い替えようかと考えております。
いくつか種類がありますが、歯磨き粉にこだわりがあるひとであればそれを目安に選んだりすることもあるでしょうし、そういったこだわりがなければ持ち運びやすいかといった機能性に重点を置くことになるでしょう。
もっとどうでもよい人は、特に考えずに目に入ったものを買うということもあるかもしれません。

ところで、なんでトラベルセットの歯ブラシはそろいもそろって粗い毛先をしているのでしょうか。
どれを見ても、掃除用ブラシのような毛先と形状になっており、これなら掃除ブラシに歯磨き粉を付けて使っても大差ないのではないかと思うことすらあります。
人の口内を排水溝かなにかと同じようなものであるとでも思っているかのようです。

「トラベルセットは短期間しか使わないのが普通だから、そんなに目くじらを立てなくても…」と感じる読者もいらっしゃることでしょう。
しかし、旅行中だからと言って歯磨きの重要性が低くなるということはまったくありません。
むしろ旅行だからと、「贅沢な食事に舌鼓」だの「新鮮な海の幸」だのといった豚のごとき飽食にうつつを抜かすのが人間の本性というものです。
そう考えると、旅行先では歯磨きの必要性が低減するどころか高まると言えます。

旅行先でこそ、高品質な歯ブラシが必要とされている―――。
なぜ、歯ブラシメーカーは、少し考えればアルパカでもわかるこのような重大事実に気が付かないのでしょか?
別に、現行の商品に文句があるわけではありません。
口の中を掃除用ブラシで磨いてもいいという人は、掃除用ブラシでイソイソと磨けばよろしい。
掃除用のブラシに加えて、きちんと人の口内を磨くためのブラシを、トラベルセットの形で販売してみてはどうか、ということなのです。
こんなことは、少し考えればアルパカでも思いつきます。

とは言え、救済措置が残されていないわけではありません。
ようは歯ブラシの差し替えができれば良いわけですから、トラベルセットはいわば歯ブラシと歯磨き粉の収納ケースとして使用し、ちゃんとした歯ブラシを別途購入すればよいだけの話です。
そうすれば、トラベルセットにもともと入っていた掃除用ブラシも、本来の掃除用ブラシとして正しく使うことができ、一石二鳥だと言えます。


トラベルセットに入っている歯ブラシに不満をお持ちの方は、上記のような対応をとることを強くお勧めします。
ぜひ一度、お試しください。

それでは!

イチから作るときの息苦しさ

2019-03-03 22:49:54 | ヨン様
こんばんは、ヨン様です。


昨日、シュビの練習があり、粘っていた1曲を届けることができました。
曲がりなりにも間に合ったことについては、素直に喜びたいと思います。
いつもギリギリなのは反省しなければなりませんが…。

加えて、事実上、次回の練習までにもう1曲を作らないといけない状況です。
次回は9日(土)を予定しております。
あんまり大丈夫じゃないような気がしますが、まぁ大丈夫でしょう。

音楽でも文章でも、何かをイチから作らなければならないときというのは、なんとも息苦しいものです。
最初の一文、一小節を書くまでに何時間も浪費してしまったりします。
書き始めればそれなりに勢いに任せることができますが、思い通りにいかないところでまた小一時間ぐらい右往左往したりしています。

そういった点で、イチから作る作業と、浄書などのそれを最終的に整える作業というのは、本質的に異なっています。
仮に同じ作業時間があったとしても、浄書はほとんど何も考えずに機械的かつ均質に作業を行うことができます。
もちろん、一部悩んだりすることもありますが、基本的にはルールに則っていじっていくだけです。
それに対して、イチから作る作業というのは、時間が与えられればそれだけ作業ができるという類のものではありません。
時間を確保してそれに見合った成果が出せることがある一方、むしろ時間がなく追い込まれた時のほうが効率が良くなったりもするので、正直見通しが立ちにくいのです。
ある程度のコストパフォーマンスで創作物を生産できるプロの方たちは、その点ではやりスゴイものをお持ちだと言えるでしょう。


そんなわけで、今週は少し曲作りに専念する必要がありそうです。
今週末には元気な新曲ができているはず…。

それでは!

編曲と作曲について

2019-02-24 23:38:12 | ヨン様
こんばんは、ヨン様です。


本日は練習およびちょっとした(ハードな)収録がありました。
私個人としては、かなり久しぶりの練習です。
体をなまらせないためにも定期的に歌いたいものです。

ところで、私は合唱作りについて、基本的に編曲を専らとしていると自負しています。
それは、シュビドゥヴァーズがサブカル合唱団であればある意味で当然と言えることです。
既存のコンテンツを合唱という形でリメイクするのがサブカル合唱の基本的なストラテジーだからです。

にもかかわらず、最近はなぜか作曲の作業をするようになってしまいました。
どうしてこんなことになってしまったのでしょうか。

そのあたりは正直成り行きというほかないのですが、その中で改めて気が付いたことがあります。
編曲と作曲は兄弟関係みたいなもので、編曲に際して四声づけや対旋律づけができるのであれば、理論上基本的な作曲作業はできるといってもよいでしょう。
私が作れたのは、せいぜい「幼女ペロペロ」ですが。

しかし、似て非なる部分もあります。
編曲の場合、すでに曲自体の骨組みはほとんどの場合出来上がっています。
アニソンの編曲を例にとれば、メロディー、コード進行、伴奏といった基本的な構成要素は既にそろっており、そこに和声付けや対旋律付け、伴奏のピアノ編曲などを行うことになります。
もちろん、民謡の編曲など、クラシカルな編曲の場合にはこの限りではありませんが、サブカル合唱界における「編曲」とは、上記のものだと思ってよいでしょう。

ところが、作曲の場合はまったく事情が異なります。
今しがた挙げた楽曲の骨格となる構成要素を、ゼロから自分自身で作り上げなくてはなりません。
また、ポピュラー音楽では、事実上「ABサビ→ABサビ→(C)→サビ」など、定型的な構成ができあがっていますが、クラシカルな作曲作業の場合にはこのあたりがもう少し複雑です。
定型的な構成もある一方で、有節歌曲(いわゆる、1番、2番があるような楽曲)の割合は少なく、曲ごとにかなりまちまちです。

というように、編曲と作曲では頭を抱える部分が少し違っています。
ただし、これは必ずしも作曲のほうが編曲の上位互換で、編曲の方がその下であるということを意味しているわけではありません。
総じて作曲のほうが手のかかる作業ではあるかと思いますが、できているものを違った形に見せたり見栄えを上げたりすることと、ゼロから新しいものを生み出すというのは、全然とは言わないまでも、かなり質が異なっています。

例えば、編曲の場合には、確かに新しいメロディーを作り出さなければならないという気苦労はありませんが、既にメロディーがあるという制約のなかで美しい和声や対旋律をつけるといった点に気をもまなければなりません。
これは、編曲ならではの困難だと言えるでしょう。
特にポピュラー音楽の場合、旋律が主体となって作られていることも多いので、なかなかここに手を加えるわけにはいきません。
また、音楽理論の中においては、管弦楽法というオーケストラアレンジの技法が独立の体系としてまとめられています。
複雑な楽器群を使って曲をアレンジすることは、それだけで大変な作業になるのです。

このように、編曲と作曲というのは、理論的前提を共有しながらも、ある程度独立した技術とセンスが求められるように思います。
音楽をやる場合にはどちらにも長じていることが望ましいとはいえ、それぞれに究めるべき道があるのではないでしょうか。


というわけで、今回は編曲と作曲の違いについて考えてみました。
私も未熟者なりに作曲を頑張りたいと思います。

それでは!

「1週間ぶり」と言うとき、「前回」は「1週間前」か「2週間前」か

2019-02-17 23:41:57 | ヨン様
こんばんは、ヨン様です。


先週はちょっとあわただしくしていて、ブログの更新が滞ってしまいました。
一週間ぶりの更新となります。
よろしくお願いします。

さて、ところで「~ぶり」という表現に関する曖昧性の問題をご存知でしょうか。
先ほど私は「一週間ぶり」という表現を使いましたが、これは少し考えるとおかしなところがあります。
なぜなら、前回の更新日は「2月3日」であり、今日(2月17日)までの間隔は「2週間」空いているからです。
実際、今回のような状況で「2週間ぶりの更新」という表現を使っても、決して間違いということにはならないでしょう。

このような曖昧性は、他の類似表現にも見られます。
サッカーワールドカップは「1年おき」に開催されるのでしょうか、それとも「2年おき」に開催されるのでしょうか?
間に1年が挟まっていると考えれば「1年おき」とも言えますし、間隔が2年空くと考えれば「2年おき」という表現でも違和感がありません。
「~ぶり」や「~おき」にはこのような曖昧性が付きまとうのです。

このような曖昧性が生じる要因について考察した研究が既にあるようなのですが、ちょっと今手元にないので私の当て推量をしたいと思います。
というより、考えは既に述べているも同然なのですが、要するに、人間はできごと同士の関係に言及する際に「点対点」の関係に注目する場合と、「線対線」の関係に注目する場合があるということなのではないでしょうか。
例えば、「点対点」の関係に注目した時には、事象同士の絶対的な時間的間隔が問題になっており、事象Aと事象Bが時間的には2年空いているのであれば「2年ぶり/おき」と表現されるというわけです。
一方で、「線対線」の関係に注目した場合、時間的間隔のスケールに見合った単位同士の間隔が問題にされ、事象Aが2018年に、事象Bが2020年に起きるのであれば、間に差しはさまっている単位(このスケールの場合、「年」)は「1」なので「1年ぶり/おき」と表現されるのです。

普段はあまり意識されませんが、このような曖昧性は日常的に見られるものです。
私も意識せずにどちらのパターンも使っているような気がします。
オリンピックなどは「4年に1度」というフレーズがかなり使いまわされているため、あまり「3年おき/ぶり」という表現は使われませんが、これはかなり例外的なものでしょう。


というわけで、今回は「1週間ぶり」という表現を手掛かりに言葉の曖昧性について考えてみました。
これを機に、自分がどちらの捉え方を選んでいるか見直してみてはいかがでしょうか。

それでは!

臨界期仮説について

2019-02-03 23:15:24 | ヨン様
こんばんは、ヨン様です。


言語学界では広く浸透しているものと思われますが、人間の言語習得には「臨界期」と呼ばれる発達段階上の限界時期がある、という仮説があります。
つまり、ある言語について、一定の年齢までに習得できる環境にあれば、当該言語を母語あるはそれに準じたレベルで使用できるのに対し、ある年齢を上回ってしまうと、母語なみに習得することが困難になってしまうということです。

このことは、私たちの母語に対する容易さと、外国語学習の困難さを比べれば、経験的にもはっきると分かることなのではないかと思われます。
このブログを読んでいる人のほぼすべては、日本語の母語話者であり、生まれたときから今日にいたるまで、ほとんどの時間を日本語とともに過ごしてきたものと推察されます。
そのような人々にとって、日本語を使用することはほとんど苦もないことです。
もちろん、文章や話し言葉の巧拙はあるにせよ、「日本語が話せない/聞き取れない」という理不尽な思いをしたことのある人は、皆無といってよいでしょう。
これは、日本語を不自由なく使いこなしている人の多くは、一定の年齢よりも前から日本語に接し、習得を完了しているからであると考えられます。
それに対し、一定の年齢を超えてから習得しようとした言語(ほとんどの日本人にとっては、おそらく英語)については、まったく対照的な感覚を持っているはずです。
ある概念や要求を伝えたいときに、母語である日本語の場合にはほとんど意識せずに伝えることができますが、非母語である英語等の言語でそれと同等の内容を伝達しようとすることには、かなりの困難が伴うのが普通です。
では、一番最初に習得した言語の場合にこのような困難が必ず伴うのかというと、必ずしもそうではありません。
バイリンガルの例からも分かるように、一定の年齢以下で習得を開始した言語の場合、それが必ずしも第一言語ではなくとも、かなりの程度習熟することが可能です。

以上のことを総合すると、言語の習得に際し、一定程度の習熟度に達するためには、習得の開始年齢が極めて重要な要因になっていることが伺えます。
このような、一定程度の習熟度に達するための習得開始年齢の上限が、いわゆる臨界期と呼ばれるものになります。
ヴァイオリン等、一部の楽器については練習の開始年齢が重要であるとされていますが、それと似たようなことが言語にも言われているということです。
臨界期というのはあくまで仮説的概念であり、いつが臨界期にあたるのかは個人差等もあるものと考えられますが、おおよそ10代前半くらいがそれに相当する時期であると考えられるでしょう。

臨界期仮説においては、普通、「脳の成長など、何らかの生理的要因により加齢とともに言語の習熟が困難になる」というような説明が与えられています。
つまり、これは人間側の意識でどうこうできる問題ではなく、脳が幼少期から変質してしまうのだ、と考えるわけです。
しかし、このような説明が妥当であるかどうかは、議論の余地があるでしょう。

例えば、一定年齢に達するまでに日常的に特定の言語を使用していた場合、話し手と聞き手の知識のギャップや他者に対する配慮など、かなり高度な思考がその言語によって可能になっていることになります。
すると、脳の変質という要因とは別に、伝達内容が母語の表現とともに惹起され、新しく習得している言語の定着を阻害してしまうというのは、十分に考えられるのではないでしょうか。
要するに、一定の年齢に達した人は、伝えたい概念のほうが高度化してしまっているために(伝えたい内容と、学習して身に着けた外国語の技術との間に埋めがたい溝が生じてしまうために)、習得が困難になっているということです。
これは、脳そのものに言語習得の困難さをもたらす要因があるのではなく、伝達したいという欲求やそれを実現できない悔しさ、もどかしさ、羞恥心などが非母語の習得を妨げていると考える点で、生理的要因によって説明しようとするアプローチとは異なっています。

もちろん、この点についてはもっと慎重に検討しなければはっきりしたことは分かりません。
もし、生理的な要因によって非母語の習得が困難になっているのでなければ、子供と同じように習得の実践をすれば、臨界期を過ぎた大人も非母語を母語並みに使いこなせるようになることを予測しますが、それを実証的に分析するのは簡単なことではないでしょう。
また、文法的にかなり正確に非母語を理解している人であっても、口頭で話した場合に強い訛りが出ることは珍しくありません。
そのような事実を踏まえると、音韻と文法では、臨界期が一致しないという可能性も考慮に入れる必要があります。

いずれにせよはっきりしているのは、一定の年齢を過ぎると非母語の習得が困難になるということです。
なにをそんな当たり前のことを、と思うかもしれませんが、「では、なぜそのようになっているのか」という疑問に答えることは、重要でありながら容易ではありません。
コミュニケーション能力を高めるという点では、多言語を柔軟に習得できる脳の構造になっていてもおかしくないのに、実際にはそうなっていないのです。
事実として存在する臨界期を、脳の発達段階によるものとみなすのか、人の意識の成熟に伴う二次的な要因によるものと見なすのかは、そのような疑問に対する答えの一つとなりますが、どちらが正しいかは今後いろいろな人が実験等を通じて明らかにしなければならない課題であると言えるでしょう。

とまぁ長々と書いてきましたが、要は、外国語の勉強は、幼少期に自然と身に着けてしまったというようなラッキースケベを除き、基本的にかったるいものだということです。
私にとっても外国語学習の時間は楽しいばかりではありません。
ただ、かったるいなりにそれなりのお付き合いの仕方があり、そういったお付き合いのためには、自分自身の母語についてよく知っておくことが、本来的には重要なことだと言えるでしょう。
この言語は日本語とこういう点で違うのか、ということに自覚的になれるからです(例えば、「そういえば太郎はまだ学生だった」というようなとき、英語では過去形を使うことがありませんが、このような場合に日本語に足元を引っ張られないようにするためにも、日本語がどのような場合に「~た」の形を使うのかを知っておくことは、極めて有意義です)。
敵を知り、己を知ることで、非母語学習の困難を軽やかに乗り越えていきたいものです。


本日は臨界期の話を通じて、最後には自戒めいたことを申し上げました。
脳みそのせいであれ、学習者の意識のせいであれ、まずは日本語について知るところから外国語の学習を始めてみるというのも、悪くないんじゃないでしょうか。

それでは!

言い訳めいた記事

2019-01-27 23:56:08 | ヨン様
こんばんは、ヨン様です。


最近いろいろなことがありすぎて、少々わけのわからないことになっております。
ようやく少し落ち着いてきましたが、1月いっぱいまでは混沌とした日々が続いていくものと思われます。
平成の次の時代まで生き残れるのでしょうか…。

そんなドタバタもあり、シュビで仰せつかっている作業のほうも滞り気味になっております。
いくつかあるうちのひとつでも今日中に一区切りつけなければ…。
こういうのは強引にでも時間を作ってやっていくしかないでしょう。

なお、先日録音が行われた冬アニメ曲については、近日中の公開を予定しております。
公開日が判明したら改めてお知らせいたします。
どうぞお楽しみに。


最近じっくりと書く時間がなくて恐縮です。
今度は少し長めの記事でも書こうかと思います。

それでは!

本日は録音が行われたようです

2019-01-20 23:17:54 | ヨン様
こんばんは、ヨン様です。


本日は録音が行われたようです。
残念ながら私は参加できていません。
なるべく録音の日程は優先するようにしているのですが、今日は外せない用事があり不参加となりました。

まだ音源は聴けていないのですが、きっと良いものに仕上がっていることでしょう。
今月中の公開を目指して動いていくことになるかと思います。
どのアニメの曲になっているかはお楽しみということで。

最近は練習自体がおぼつかなかったりとメンバー間の調整も難航していたので、今回録音が実現できたことはそういった意味でもよかったですね。
練習にしろ録音にしろ、一つ一つ積み重ねていくことが大切です。
私は参加できませんでしたが!


次の練習は2月を予定しております。
次回以降の練習から合流し、歌のカンを取り戻せていければと思います。

それでは!

扇風機、冬の陣

2019-01-13 23:25:37 | ヨン様
こんばんは、ヨン様です。


最近、ツイッターではシュビのアカウントが比較的まじめな合唱の話をしていましたね。
普段合唱の話をしない本ブログですが、ここで便乗して合唱の話をしてみてもよいかもしれません。

まぁそれはさておき、冬になると暖房器具の扱いに手を焼かされるものです。
足元のものは特に問題ありませんが、天井付近に備え付けられているオフィスや家庭のエアコンは、十分に足元を温めてくれないことしばしばです。
足元まで温風が届かない結果、部屋の上層の暖気と下層の冷気というような、二層構造になってしまいます。

性能に限界があるとはいえ、なぜ暖房機能を備えているエアコンのほとんどがこの致命的ともいえる欠陥を何年、何十年と抱え続けているのでしょうか。
下の冷気をさらうくらいの激アツな暖流を発生させることは難しいのでしょうか。
ともあれ、たいていの凡庸なエアコンは、立っている人の頭頂部を温める機能しか持ち合わせていません。
これは仕様だと言ってよいでしょう。

さて、このような状況を打開する作戦として、扇風機を使うということが指摘されてきました。
部屋の中の上下層にとどまった空気を、扇風機によってかき回して対流させるのです。
すると、絶え間なく冷気と暖気が入れ替わり、部屋全体が温まってまいります。

これは、暖房器具を扱う人であればいわば当たり前のことですが、先日、小さな発見をいたしました。
私は、こういった部屋全体の暖気と冷気をかき回すには、扇風機にそれなりのパワーと指向性がないとだめなものとばかり思っていました。
しかしながら、実際には15度くらいしか上に傾かない夏用の扇風機を回すだけで、部屋全体が温まることに気が付いたのです。
これは、私の中で極めて大きな発見でした。

というわけで、暖房の温風が足元まで届かず、立った時に頭頂部を温めている人は、ぜひ扇風機を使ってみてください。
そんなにしっかりしたものじゃなくても大丈夫です。
ほんのちょっと上目遣いのできる気の利いた夏用の扇風機が一台あれば、一年中快適に過ごすことができます。
もちろん、サーキュレーターとか空気清浄機とか、空気をかき回せるものであればなんでもよいのですが、扇風機はどうせ夏も使う機会の多いものですし、何より安価です。
だまされたと思って、普通の扇風機を買ってみてください。


というわけで、今日は暖房と扇風機のお話でした。
すでにご存知の読者諸賢にはただの無駄話となりますが、少しでもお役に立てれば幸いです。

それでは!