GUMBO

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file .252 Bobby DOERR【ボビー・ドーア】

2008-06-28 | DEF
【ベストフレンド】
Bobby DOERR

1935年、17歳でレッドソックスと契約を交わしたドーア。
マイナー時代からそのバット・コントロールと守備には定評があり、
若干19歳で37年にメジャーデビューを果たすと、
38年、145試合で打率.289、5本塁打、80打点、
無類の勝負強さを見せつけ、二塁手のレギュラーの座をつかんだ。

39年、打率.318、12本塁打、73打点。
同い年で、マイナー時代からの親友でもあるテッド・ウィリアムスも
この年にメジャーデビューを果たし、その天才ぶりを早くも発揮した。

40年、打率.291、22本塁打、105打点、
41年、打率.282、16本塁打、93打点.....と、
安定したクラッチヒッターぶりでチームの勝利に貢献したドーア。
42年から、6年連続でオールスタ-に出場するなど、
若きチームのスターとして台頭、
リーグを代表する二塁手にまで登り詰めた。

以降、メジャー実働14シーズンで
.290以上の打率6回、
100打点以上、6回をマーク。
46年には打率.271ながら、18本塁打、116打点で、
MVPレースでは3位に付ける大活躍。
敗れはしたものの、ワールドシリーズでも打率.409を打ち、
その勝負強さをフルに発揮。
自慢の二塁守備にも、ますます磨きがかかり、
チームメイトからの尊敬も厚かった。

48年、打率.285、27本塁打、111打点をマーク、
49年も109打点を叩きだすと、
50年、打率.294、27本塁打、120打点とキャリアハイの成績をおさめ、
30代に入っても、変わらぬ勝負強さを誇っていたドーアだったが、
51年、椎間板ヘルニアを煩い、この年限りで現役を引退。
最後のシーズンは、打率.289、13本塁打、73打点、
故障さえなければ、あと数年は元気にプレー出来たであろう。

引退後、テッド・ウィリアムスや、ドム・ディマジオ、ジョニー・ペスキーら、
チームメイト達と、変わらぬ友情を育み続け、
特に、テッドとは、お互い無類の釣り好きとあって、
多くの時間を共に過ごした。

テッドは、基本的には気の良い性格だったが、
気に食わない事があると、すぐカッとなり爆発する....
いわゆる『お子ちゃま』だった。
ドーアは、そんなテッドの相手を、現役時代、
一番多くつとめた男だったが、
そんな関係は引退後も続いたという.......。

通算1865試合、打率.288、223本塁打、1247打点。
1986年、ベテランズ委員会により野球殿堂入りを果たした。


file .251 Walt DROPO【ウォルト・ドローポ】

2008-06-14 | DEF
【1950】
Walt DROPO

NBA、NFLのチームからも契約の打診があったという、
スポーツの才能に恵まれたドローポは、
1947年、レッドソックスと契約を交わした。

49年に一塁手としてメジャーデビューを飾り、11試合に出場、
打率.146に終わったが、
翌50年、打率.322、34本塁打、144打点と大爆発。
ルーキーにしてオールスター出場を果たし、打点王に新人王も獲得。
チームメイトのテッド・ウィリアムスと並ぶ、主力打者として、
おおいに期待を抱かせる、ド派手な活躍ぶりを見せた。

が、51年、打率.239、11本塁打、
これまたド派手に成績を落とすと
52年、シーズン途中、タイガースへリリースされてしまった。
この年、新天地では、打率.279、23本塁打、70打点をマークし
元新人王の面目を保ったが、
53年は打率.248、13本塁打、96打点。
勝負強さは発揮したものの、
かつての栄光を考えると、地味と言わざるをえない成績に終わってしまう。

55年、ホワイトソックスへ移り、
打率.280、19本塁打、79打点をマークしたが、
その後はジリ貧。
レッズ、オリオールズとチームを変え、
61年、現役を引退した。

結局、30本塁打も100打点も
新人王を獲得した1950年しかクリア出来ず、
超一流選手にはなれなかったドローポだが、
12打席連続安打のメジャー記録保持者である。

通算1113安打、152本塁打、704打点。

file .250 Bob CERV【ボブ・サーヴ】

2008-05-13 | ABC
【ルームメイト】
Bob CERV

1951年、25歳の時に
ヤンキースでメジャーデビューを飾ったサーヴ。
55年に55試合の出場ながら打率.341を打つなど
そのセンスを随所に見せつけるが、なかなか出番に恵まれず、
56年オフ、アスレチックスにトレードされる。

新天地でレギュラーの座を獲得したサーヴは
57年、124試合で打率.272、11本塁打、44打点をマーク、
翌58年は数字を大幅に伸ばし、
打率.305、38本塁打、104打点。
MVPレースで、4位につける活躍を見せ、
キャリア唯一のオールスター出場も果たした。

59年、打率.285、20本塁打、87打点のサーヴ、
翌60年、シーズン途中でヤンクスへ出戻ったが、
61年は新球団のエンゼルスへエキスパンションドラフトで移籍。
初試合で本塁打を放つなど、18試合に出場するも、
5月にトレードで三たび、ヤンクスのユニホームに袖を通す事になった。

折しも、この年のヤンクスは、
ロジャー・マリスの『61』で盛り上がった年。
サーヴは、57試合に出場し
打率.271、6本塁打、20打点とまずまずの成績で
チームのリーグ優勝に貢献した。

結局、この後、
62年に移籍先のアストロズで現役を引退。

通算成績は、829試合で打率.276、105本塁打、374打点。

さて、サーヴといえば、
何と言っても、1961年に
ミッキー・マントル、ロジャー・マリスの2人と
ルームメイトだった事で知られている。
上記2人が、ルースのシーズン本塁打記録60超えを目指し
激しい火花を散らしたこの年、
サーヴは、常に彼らの傍らにおり、
2人を見ていたのであった。


file .249 Oscar GAMBLE 【オスカー・ギャンブル】

2008-04-24 | GHI
【アフロ】
Oscar GAMBLE

三振の少ない、勝負強い打撃が持ち味の
メジャーリーグ史上、屈指のフォトジェニックな外野手である。

ギャンブルは若干19歳にして、
カブスでメジャーデビューを果たした。

レギュラーに定着したのは、73年、
チームはフィリーズを経て、インディアンズに変わっていた。
この年、打率.267、20本塁打をマーク。
トレードマークのアフロヘアもこの頃からデカくなりはじめている。

翌74年も打率.291、19本塁打、59打点と、
徐々に打撃に安定感が増して来たギャンブルだが、
ますますデカくなるアフロヘアとは対照的に
この後、2年間ほど、成績は伸び悩む。

77年、ホワイトソックスへ移籍、
ここに来て、ようやく打撃面での急成長が見られ、
打率.297、31本塁打、83打点をマーク。
アフロヘアも絶好調で、
いよいよスラッガーの仲間入りかと思われたのだが、
78年、パドレスへ移ると、7本塁打、47打点と
大きく成績を落とす事になる。

79年、レンジャーズ~ヤンキースで
計100試合に出場、
打率.358、19本塁打、64打点と、
今度はヒットマシーンの仲間入りかという好成績を残したギャンブル。
肝心のアフロヘアは、「俺、もう30だし」と思ったのか、
もしくは、ヒゲ+グラサン+小アフロの同僚、レジー・ジャクソンから
「俺より目立つんじゃねえ」と脅されたのか、
大分小さくまとまってしまったが、
この後、84年までヤンキースで活躍。
82年には108試合で打率.272、18本塁打、57打点をマークするなど
随所に勝負強さを発揮するも、
85年、ホワイトソックスで、現役を引退した。
引退時、アフロはもはや、アフロとは呼べないくらいに
小さく縮小していた。

通算打率.265、200本塁打、666打点。


file .248 Rollie FINGERS【ローリー・フィンガース】

2008-04-23 | DEF
【ひげ】
Rollie FINGERS

スライダーと速球を武器に持つ
メジャーリーグ史上、屈指のフォトジェニックな投手である。

フィンガースは、1968年、アスレチックスでメジャーデビューを果たす。
71年までは、先発、リリーフの両方で登板、
そこそこの結果は残したものの、ブレーク....とまでは行かなかった。

が、72年からリリーフに定着すると、結果が出始め、
この年、11勝21セーブ、防御率2.51、
守護神に定着し、チームをリーグ優勝に導くと、
レッズとのワールドシリーズでも6試合で1勝2セーブと活躍し
世界一に大きく貢献した。

その後も、
73年、7勝22セーブ、防御率1.92
74年、9勝18セーブ、防御率2.65...
キャット・フィッシュ・ハンターやヴァイダ・ブルーといった面々と共に、
安定した投球でチームを支え、
72年~74年のアスレチックス、3年連続の世界一に貢献。
74年は1勝2セーブで、ワールドシリーズMVPにも輝き、
黄金時代の立役者の一人として、おおいに、その力を発揮した。

75、76年も二桁勝利及び20セーブ以上をマークしたフィンガース、
77年、FAでパドレスへ移籍し
リーグが変わるも、そのピッチングに影響は見えず、
8勝35セーブの好成績。
78年も37セーブ、2年連続でリーグ最多セーブに輝き、
その地位を揺るぎないものにした。

81年、トレードで、
今度はブルワーズに移籍。
再び、アメリカンリーグでのプレーとなったが、
この年は、フィンガースにとって、
キャリア中、屈指のシーズンとなった。
6勝28セーブ、防御率1.04。
チームを地区優勝に導き、
サイ・ヤング賞とシーズンMVPのダブル受賞。
リリーフ投手としてはメジャー史上初の快挙である。

82年、29セーブ、防御率2.60。
83年は故障で棒に振ったが、
84年、華麗に復活、23セーブ、防御率1.96をマーク。
齢30台後半にして、翳りの見えない投球を見せていた
カイゼル髭のリリーバー、フィンガースであったが、
85年、17セーブをマークするも防御率5.04と成績を落とすと、
この年、38歳で現役を引退、
輝かしいキャリアにピリオドをうった。

通算114勝、341セーブ、防御率2.90

1992年に殿堂入りを果たしている。


file .247 Roy FACE【ロイ・フェイス】

2008-04-16 | DEF
【193SV】
Roy FACE

メジャーリーグの公式記録で、
タイトルの対象でもある『セーブ』。
この『セーブ』が制定されるに至るきっかけになった投手...と言われている。

フェイスは、1953年、パイレーツでメジャーデビューを果たした。
53~55年は先発とリリーフの掛け持ちであったが、
56年から、リリーフに専念(この年は3試合先発しているが)、
同年、68試合、12勝13敗、6セーブ、防御率3.52を記録する。

以降、必殺のフォークを武器に、
安定した投球内容でチームを支えたフェイスだったが、
59年は、リリーフ登板だけで18勝1敗、防御率2.70...と
とてつもない成績を残した。
MVP投票でも7位にランクされ、初のオールスターにも出場。
地味な役割であったリリーバーのフェイスの存在が、
一躍、クローズアップされる格好となり、
この事が、後の『セーブ』誕生に繋がるのである。

60年、10勝、24セーブ、防御率2.90と前年に引き続き好成績をマーク。
チームもリーグ優勝を果たし、
ビル・マゼロスキの優勝決定サヨナラ本塁打を生んだヤンキースとのワールドシリーズでも、3セーブ。
4試合に登板し、6失点と打たれはしたが、
先発のヴァーノン・ロー、ハービー・ハダックスと共に、
マントル、マリス、ベラ擁する強豪を相手に取り、
奇跡の優勝の立役者の一人として、
チームに大きな貢献を果たしたのであった。

その後も、
62年に28セーブするなど、
リーグ有数のリリーバーとして活躍を続けるが、
69年、3球団目のエクスポズを最後に
現役を引退した。

通算104勝、98敗、193セーブ、防御率3.48。

メジャーリーグが『セーブ』を正式な公式記録に認定したのは、
フェイスが現役を引退した1969年の事である。


file .246 Jesus ALOU 【ヘスス・アルー】

2008-04-14 | ABC
【三男】
Jesus ALOU

言わずと知れた、アルー三兄弟の末弟である。

1963年、二人の兄が在籍しているジャイアンツで
メジャーデビュー。
球団の期待度は、フェリペ、マッティより高かったという。
64年に115試合で、打率.274、3本塁打、28打点、
65年、打率.298、9本塁打、52打点をマーク、
外野のレギュラーを獲得した。

69年、アストロズへ移籍、
70年には打率.306、1本塁打、44打点と
初の打率3割以上を打つが、
非力で四球も少なく、
外野守備も平均レベル。
二人の兄のような華やかな活躍とは無縁であった。

その後、
アスレチックス、メッツとチームを変えるも、
100試合以上出場する事は出来ず、
79年、アストロズで現役を退いた。

通算打率は.280、32本塁打、377打点。

file .245 Matty ALOU【マッティ・アルー】

2008-04-13 | ABC
【次男】
Matty ALOU 

言わずと知れた、アルー三兄弟の次男である。

1960年、兄・フェリペが在籍しているジャイアンツでメジャーデビュー。
61年、81試合に出場し、打率.310をマークするも、
レギュラーには定着出来ず、
66年にパイレーツに移籍してから、
安打製造機としての才能を開花させた。
この年、141試合で打率.342の好成績で見事、首位打者に輝き、
打率.327の兄・フェリペとリーグ打率の1、2位を
兄弟で独占するという快挙を成し遂げた。

以降も66年~69年まで、
4年連続で打率.330以上をマーク。
2度の200安打以上を記録するなどヒットマシーンぶりを発揮。
また、右翼のロベルト・クレメンテの隣を守り、俊足を活かし好守を連発、
リーグ屈指の右中間を形成するなど、
攻・走・守、全ての面で、チームの勝利に貢献した。

71年、カージナルスへ移籍すると、
打率.315、7本塁打、74打点。
シーズン途中にアスレチックスへ移籍した72年も、
打率.307を打つなど、安定した打撃を披露、
チームも世界一に輝き、
マッティも勝利の美酒に酔いしれた。

その後、
ヤンキースやパドレスを経て、
74年、日本のライオンズに入団、
76年まで3年間プレーし、262試合で、258安打を放っている。

メジャー通算打率.307、1777安打、156盗塁。
オールスターには2度出場している。


file .244 Felipe ALOU【フェリペ・アルー】

2008-04-12 | ABC
【長男】
Felipe ALOU

言わずと知れた、アルー三兄弟の長男である。

メジャーデビューは1958年、
着々と成績を伸ばし、61年に外野のレギュラーに定着する。
当時のジャイアンツには大打者ウィリー・メイズが
チームの顔として君臨し、
さらにウィリー・マッコビーやオーランド・セペダら
若き、スター候補の台頭も著しかった。
アルーも、そんな若手有望株選手として期待を集め、
62年、打率.316、25本塁打、98打点と、
好成績をマークし、ブレークを果たす。
63年は打率.281、20本塁打、82打点、
又、この年の9月15日には、
途中出場の次男マティ、三男ヘススと共に
外野の3ポジションを兄弟三人で守った。

64年、トレードで、ミルウォーキー・ブレーブスへ移籍。
65年、打率.297、23本塁打、78打点、
66年、打率.327、31本塁打、74打点と、
好成績を残し、
ハンク・アーロンやジョー・トーレといった面々と並び、
チームの勝利に貢献した。

以降、長打力には翳りが見え始めるも、
勝負強い打撃で活躍を続け、
アスレチックス、ヤンキースとチームを変えながら、
68年には打率.317、11本塁打、57打点、
71年は打率.288、8本塁打、69打点をマーク。
74年、ブルワーズで3打席立っただけで現役を引退した。

通算打率.286、2101安打、206本塁打、852打点、107盗塁。

引退後は、エクスポズや、ジャイアンツで監督として
指揮を司り、2度の地区優勝に輝いている。

息子のモイセズ・アルーもメジャーリーガーである。


file .243 Ken BOYER 【ケン・ボイヤー】

2008-04-10 | ABC
【チームリーダー】
Ken BOYER

言わずと知れた、クリート・ボイヤーの兄であり、
メジャーリーグ史、屈指の名三塁手である。

投手としてプロの道に足を踏み入れたボイヤーだが、
その打撃力を買われ、三塁手として
1955年、メジャーデビューを果たした。
56年、打率.306、26本塁打、98打点をマーク、
その才能を開花させ、さらに好守を連発。
瞬く間にスタン・ミュージアルに次ぐ、チームの主力打者になる。
以後、58年には打率.307、28本塁打、90打点、
60年は打率.304、32本塁打、97打点、
61年は打率.329、24本塁打、95打点..と
58年~61年まで、4年連続で打率.300、20本塁打、90打点以上を打ち、
さらに、64年まで7年連続で20本塁打、90打点以上をマーク、
6年連続オールスター出場、
ゴールドグラブも3度受賞するなど、
リーグを代表する三塁手として、その名をおおいに馳せた。

64年、ボイヤーは打率.295、24本塁打、119打点で
打点王と、シーズンMVPを獲得。
弟のクリートが在籍するヤンキースとのワールドシリーズでは、
第4戦で、劇的な逆転満塁本塁打を放つなど、
2本塁打、6打点の活躍でチームの世界一に大きな貢献を果たした。

65年、打率.260、13本塁打、75打点に終わったボイヤー、
この年を境に衰えが見え始める。
66年にメッツに移籍し、チームトップの61打点を叩きだすが、
往年の活躍ぶりからは、ほど遠く、
69年、ドジャースで現役生活にピリオドを打った。

若かりし頃、チームの顔だったミュージアルから、
練習法や、野球に対する姿勢など、多くを学んだボイヤーは、
ミュージアル引退後、師の教えをティム・マッカーバーやルー・ブロックら、
多くの後輩たちに伝授した。

怪我をおしてプレーする事もしばしばで、
何故、その怪我で毎日プレー出来るのか...とチームメイトに聞かれたボイヤーは
こう答えたという。
「俺なんかに5万ドルもの年棒を払ってくれる職場が他にあるかい??」

引退後、コーチや監督を歴任するが、
81年、ガンのため、51歳の若さで死去。
通算打率.287、282本塁打、1141打点。
信じられない事に、未だ野球殿堂入りを果たしていない。


file .242 Ron SWOBODA 【ロン・スウォボダ】

2008-03-04 | 1969/Miracle Mets
【ロッキー】
Ron SWOBODA

ロッキーのニックネームでファンに愛されたロン・スウォボダ、
そのキャリアは、9年と短く、
通算で、624安打、73本塁打、344打点、打率.242の数字を残している。

65年にメッツでメジャーデビューを果たしたスウォボダ、
この年、打率.228、19本塁打、50打点をマーク。
チームの外野のレギュラーに定着した。

67年、打率.281、13本塁打、53打点...と
好成績を残し、着実な成長を見せていたスウォボダであったが、
数字的にはこの年がピークで、
以後は、安定度、長打力、共に陰りを見せ始め、
出場機会は年々減っていく。

が、69年は、スウォボダにとっても
最高の年だったのではないだろうか、
弱小メッツがシーズン後半、奇跡の追い上げで
リーグ優勝、及び、ワールド・シリーズ制覇を果たした
いわゆる『ミラクル・メッツ』イヤーだったからだ。

スウォボダ自身は、主に、対左投手用として起用され、
通算成績こそ打率.235、9本塁打、52打点...と
平凡以下の結果に終わったが、
シーズン終盤の5週間ほどで、26打点を叩きだす働きをみせ、
メッツの逆転優勝に大きな貢献を果たした。

また、ワールドシリーズでも打率.400をマークした他、
好守を見せるなど、存分に暴れ回った。

その後、エキスポズやヤンキース...とチームを変え、
73年に現役を退いた。

さて、とある日、
先に紹介したスパーキー・ライルは、
クラブハウスに、ヤンキース球団から自分に届けられた
バースデー・ケーキを見て愕然とした。
普段から、多選手のケーキに尻型を残す奇行を働いていたライルだったが、
この日はやられた...。
自分のケーキには、尻型どころか、
本物の『ウ●コ』がトッピングされていたのである。

そう.....、まるで映画『ピンク・フラミンゴ』を地で行くような
品性のかけらも無い、お下劣合戦のもう一方の主役こそ、
ロン・スウォボダその人だったのである。

スウォボダは、自らが放ったキャッチャーフライが脳天に直撃したり、
バッティング・ケージに閉じ込められてしまったり、
試合中、自分の打席が回ってきた時に
のんびりトイレにいて代打を出されたり....と、
なかなかの天然ぶりを発揮したユニークな選手でもあった。

file .241 Sparky LYLE【スパーキー・ライル】

2008-03-01 | PQR
【バースデーケーキ】
Sparky LYLE

1970年代、屈指のリリーバー、スパーキー・ライルは、
64年、オリオールズと契約を交わすも、
同年、レッド・ソックスへ移籍、
67年にメジャーデビューを果たした。
左腕から繰り出す、キレのあるスライダーを武器に
安定した投球で、チームのブルペンを支え、
67~71年まで、5年間で69セーブをあげる活躍を見せた。

72年、トレードでヤンキースへ移籍すると、
その才能をさらに開花させ、
この年、59試合で9勝-35セーブ、防御率1.92、
サイヤング賞やMVP投票ではいずれも上位に食い込む活躍で
その存在をおおいにアピールした。
73年には25セーブをマークし、オールスターにも初出場、
リーグを代表するストッパーに成長した。

76年、7勝-23セーブ、防御率2.26で
チームのリーグ優勝に貢献したライル。
惜しくもワールド・シリーズでは敗退したが、
77年は、雪辱を晴らす。
13勝-26セーブ、防御率2.17と八面六臂の活躍で
地区優勝に貢献を果たすと、
ロイヤルズとのプレーオフでは4試合に登板し2勝、
ドジャースとのワールド・シリーズでも2試合で1勝をマークし
世界一の大きな原動力となった。
また、この年はサイ・ヤング賞も受賞し、
ライルのキャリアで最高の年となった。

ここまで、リリーフ投手として
順風満帆なキャリアを送ってきたライルだったが、
78年、グース・ゴセージがパイレーツからFA移籍で
ヤンキースに入団すると、立場が急変。
ストッパーからセットアッパーへ役割が変更になり、
9勝-9セーブ、防御率3.47とまずまずの活躍を見せるが、
シーズン終了後、レンジャースへトレード放出されてしまう。

その後、レンジャース~フィリーズ~シソックスと
チームを変わるも、往年のような活躍を見せる事はなく、
82年、37歳で現役を引退した。
通算899試合、99勝-238セーブ、防御率2.88。

さて、ライルといえば、その投球とは別に数々の奇行で知られている。
中でも有名なものは、
クラブハウスに届けられる選手のバースデーケーキに
尻の後を付ける(勿論、丸出しで....)
....という、下品極まりない行為なのだが、
上には上がいた....。

その選手とは..............

次回に紹介するといたします。


file .240 Branch RICKEY【ブランチ・リッキー】

2008-02-29 | 2013年映画『42』
【名GM】
Branch RICKEY

1905年、捕手として、セントルイス・ブラウンズに入団したリッキー。
1914年まで現役を続けたが、選手としては芳しい成績を残すには至らなかった。

が、現役メジャーリーガーとしてプレーする傍ら、
ミシガン大学で法律の勉強や、野球部の選手を指導していたリッキーは、
スカウトとしての眼力や監督・コーチとしての才能を育み、
1914年、プレーイング・マネージャーとしてブラウンズの指揮を司る事になる。

監督となったリッキーは、
画期的な練習方法(例えばバッティング・ケージ内の打撃練習)や、
選手への講義など、当時としては斬新な試みに挑戦するものの
成績面では結果を残す事が出来ず、
1919年、今度はカージナルスの監督に就任する。

名選手・ホーンズビーらを要するカージナルスだったが
当時は弱小球団であった。
リッキーはチーム強化のため、監督とGMを兼任し、
メジャーとは全く別の組織だったマイナーリーグのチームを買収し始める。
独立したリーグだった筈のマイナーチームを
自球団の育成機関にするためである。
安い資金で大勢の有望選手を囲い込み、育てる.....。
リッキーの作戦は功を奏し、レッド・シェーンディーンストや
ディジー・ディーン、スタン・ミュージアル、マーティー・マリオン、イノス・スローター等の
名選手を次々と輩出。
カージナルスは1928年から34年まで4度のリーグ優勝に輝いている。
当時のコミッショナー、ケネソー・ラウンディスは、
マイナーリーグのファーム化に懸念を示したが、
強豪・ヤンキースなどがカージナルスに追随したため、
結局、独立したマイナー・リーグは消滅。
完全にメジャーリーグの選手育成機関に成り下がってしまった。

1942年、リッキーはドジャースのGMに就任する。
ここでも彼は、当時としては考えられなかった改革を推し進める。
........黒人選手との契約である。

おりしも、黒人選手のメジャー入りに強く反対していたケネソー・ラウンディスは、コミッショナーを退任。
替わって、就任したハッピー・チャンドラーは黒人へ門戸を開く事をたからかに宣言しており、
舞台は整っていたのである。
リッキーは早速、ジョージ・シスラーらに、黒人選手のスカウティングを命じ、
かのジャッキー・ロビンソンを発掘。

かくして、ブルックリン・ドジャースに黒人メジャーリーガーが誕生、
リッキーからの『ひたすら耐えろ』という過酷な命令を忠実に守ったロビンソンの大成功によって、
ジャイアンツをはじめ、各球団がドジャースの後に続き、
メジャー・リーグは新時代へ突入する事になるのであった。

が、その成功の裏で、ニグロ・リーグは衰退を極め、
1960年頃には完全に消滅してしまった。
ブランチ・リッキーはその後も、ドン・ニューカムやロイ・キャンパネラ等の
名黒人選手を発掘するが、ニグロ・リーグには何の補償も行わなかった。

その後、
ドジャースを辞めたリッキーは、
古巣カージナルスへの復帰などを経て、
1965年、84歳で死去、
67年に野球殿堂入りを果たした。


file .239 Goose GOSSAGE 【グース・ゴセージ】

2008-01-24 | GHI
【ガチョウのゴセージ】
Goose GOSSAGE

1970年、ホワイトソックスに入団したゴセージ。
72年、メジャーデビューを果たし、36試合に登板、
7勝1敗、防御率4.28...とまずますの成績をおさめる。

その後も、主にリリーバーとしてマウンドに立つが、
ブレークしたのは75年。
この年、62試合を投げ9勝8敗26セーブ、防御率1.84の好成績、
サイ・ヤング賞レースでは6位にランクされ、オールスターにも出場した。

翌76年は、先発投手にスイッチ、
9勝をマークするも、17敗を喫し、防御率は3.94。
シーズン終了後は、パイレーツへ放出されてしまう。

パイレーツで11勝26セーブ、防御率1.62...と
意地を見せたゴセージは、78年、ヤンキースへFA移籍。
ここからゴセージの黄金時代の幕が上がった。

ロン・ギドリー、キャットフィッシュ・ハンター、
レジー・ジャクソン、サーマン・マンソン...といった個性派集団の中でも
全く埋もれることなく、快投を披露。
豪快かつ、躍動感溢れるフォームから豪速球を繰り出し、
相手打者を手玉に取り、
63試合で10勝、27セーブ、防御率2.01をマーク。
チームをリーグ優勝に導くと、ワールドシリーズでも3試合に登板し1勝。
ヤンクスの世界一に多大な貢献を果たしてみせた。

以降、ヤンキースの絶対的なストッパーとして活躍。
80年、6勝、33セーブ、防御率2.27(MVP投票、サイ・ヤング賞投票、共に3位)
81年、3勝、20セーブ、防御率0.77(MVP投票9位、サイ・ヤング賞投票5位)
....と絶好調。
30歳になった82年も4勝、30セーブと安定した働きを見せると、
83年は13勝、22セーブ、防御率2.27。
リーグを代表するストッパーとして、
その名をおおいに高らしめた。

84年、パドレスへFA移籍。
10勝、25セーブ、防御率2.90をマーク。
チームをワールドシリーズへと牽引するが、
大舞台で『ストッパー殺し』カーク・ギブソンに手痛い一発を見舞われるなど、2試合で4失点。
世界一の美酒に酔う事はかなわなかった。

その後、84年~86年まで3年連続で20セーブ以上と安定したピッチングを続けるゴセージだが、
徐々に、往年の勢いは失われていった。
88年からカブス、ジャイアンツ、ヤンキースとチームを変えるもパッとせず、
90年は日本のホークスに入団、
ここでも28試合で2勝、8セーブ、防御率4.40...と結果を残すには至らなかった。

91年、レンジャーズでメジャー復帰し、
以降、アスレチックス、マリナーズと球団を変えるが、
炎のストッパーに返り咲く事なく
94年、現役を引退した。

通算で1002試合に登板し、1809.1/3イニングで124勝、310セーブ、防御率3.01
2008年、悲願の野球殿堂入りを果たしている。

ちなみにニックネームの『グース(ガチョウ)』だが、
いうまでもなく、佇まいがガチョウに似ている事からつけられたものである。


file .238 Nolan RYAN 02 【ノーラン・ライアン02】

2008-01-14 | nolan ryan
【エンゼルス時代】
Nolan RYAN

72年、エンゼルスへ移籍したライアンを待っていたのは、
その転機を支える事になる、大きな出会いの数々であった。

コーチのジミー・リース、トム・モーガン、
キャッチャーのジェフ・トーボーグ....。

彼等は、ライアンの欠点を指摘し、その克服に
いくらでも、つき合った。
シーズン前の猛練習により、ライアンは配球を学び、
モーションを修正し、コントロールも数段良くなった。

19勝、防御率2.28、329奪三振。
ライアンは遂に満足のいく好成績をおさめる事が出来た。
73年は更なる成長を見せつけ、
21勝、防御率2.87、383奪三振、
シーズン2度のノーヒッターと、サンディ・コーファックスの持つ
シーズン奪三振記録382を更新。

『カリフォルニア・エクスプレス』の誕生であった。

「奴の速球は、俺を殺すかもしれねえ」.....レジー・ジャクソン

「ライアンのボールが耳の後ろを通過した時は死んだかと思った。
 結局凡退したが、ベンチに生きて帰れただけでも幸せだった」.....フィル・ガーナー

「ライアンは恐い。打席ではケツの穴がハミ出ているよ」.....ブルックス・ロビンソン

「メジャーリーグよりも上のリーグがあるとすれば、
 ライアンはそこのピッチャーさ」.....ハル・マクレー

74年、22勝、防御率2.89、367三振、
3度目のノーヒッターに、3年連続の300奪三振......と
快進撃を続けるライアンだったが、
この3年、全ての年で16敗を喫している。
この時期、全球団で最弱といわれたエンゼルス打線が、
もう少しマシだったら....『勝率5割投手』などとは言われていなかったかもしれない。

75年は故障の所為もあって、14勝、186奪三振にとどまったライアン、
76年、体調を万全に戻すと、17勝、327奪三振、
77年、19勝、341奪三振....と
看板通りの『カリフォルニア・エクスプレス』ぶりをフルに発揮、
チームの大黒柱として、リーグを代表するエースとして、
その豪腕をまざまざと見せつけた。

この頃、チームのGMにバジー・ババシが就任。
ライアンとババシの相性は最悪であった。
ノーヒッターがかかった試合で、微妙な当たりがエラーになった時なぞは、
ババシは公式記録員に食ってかかったという。
「お前の所為で奴に大金を出さなきゃいけなくなるだろっ!!」
ライアンは、ノーヒッター達成で25000ドルをチームから受けとれる契約を結んでいたのだった。

1980年、ライアンはアストロズへFA移籍する。
ババシのために投球する事はどうしても出来なかったわけである。

ともあれ、ライアンは故郷に戻る事となった。