【The Man of 1948】
Lou BOUDREAU
ブードローは、1939年、インディアンズで本格的にメジャーデビュー。
40年には打率.295、9本、101打点という
圧倒的に勝負強い打撃を見せ、遊撃のポジションを手中に収めた。
ブードローの真骨頂は、堅実な守備であろう。
キャリア15年で8度の守備率リーグトップがそれを物語っている。
また、多少の怪我では試合を休まないガッツも持ち合わせており、
「どうも胃の調子が悪いなぁ」と思いながらプレーし続けていたら、
盲腸だった............などという事もあったという。
41年オフ、24歳のブードローは、
球団フロントに『監督志望』の嘆願書を提出した。
驚くべき事に、それは認められ、
42年、弱冠24歳の青年監督(兼選手)が誕生する。
ハードな遊撃のポジションを守りながら、チームを指揮し、
打撃面でも、44年にリーグ首位の打率.327をマークするなど、好結果を残し続けた。
40年~49年にかけて、毎年リーグMVP投票に顔を出し、
8度のオールスター出場を果たしているのだから、
その安定した働きぶりが想像できよう。
ブードローのキャリアのハイライトは、
何と言っても1948年である。
30歳の青年監督兼正遊撃手は、
ジョー・ゴードン、ラリー・ドビー、
ボブ・レモン、ボブ・フェラー、サッチェル・ペイジ(!)ら
豪華キャストを牽引し、チームをリーグ優勝に導き、
打率.355、18本塁打、106打点でリーグMVPを獲得するなど、
自ら主演も務め上げてしまたのである。
また、ワールド・シリーズでも
かのスパーン/セイン用擁するブレーブスを、
雨など降らせてなるものかとばかりに打ち破り、
チームにとって、自分にとって、最高の年を見事に演出してみせた。
その後、ブードローは、
51年に選手兼監督としてブレーブスへ移籍、
52年に現役を引退した。
監督としては、54年までブレーブス、
55年からカンザスシティ・アスレチックス、
60年はカブスを率いた。
通算1646試合、打率.295、68本塁打、789打点、
選球眼に優れ、四球796に対して三振は309、
出塁率.380が光る。
他にもテッド・ウィリアムスを打席に迎えた時に
実行したブードロー・シフト(王シフトの原型?)や、
41年7月17日、ジョー・ディマジオのヒット性のあたりを好捕し、
連続安打試合記録を56でストップさせるなど、
大打者絡みの逸話も多い。
70年、野球殿堂入り。
2001年、死去。
Lou BOUDREAU
ブードローは、1939年、インディアンズで本格的にメジャーデビュー。
40年には打率.295、9本、101打点という
圧倒的に勝負強い打撃を見せ、遊撃のポジションを手中に収めた。
ブードローの真骨頂は、堅実な守備であろう。
キャリア15年で8度の守備率リーグトップがそれを物語っている。
また、多少の怪我では試合を休まないガッツも持ち合わせており、
「どうも胃の調子が悪いなぁ」と思いながらプレーし続けていたら、
盲腸だった............などという事もあったという。
41年オフ、24歳のブードローは、
球団フロントに『監督志望』の嘆願書を提出した。
驚くべき事に、それは認められ、
42年、弱冠24歳の青年監督(兼選手)が誕生する。
ハードな遊撃のポジションを守りながら、チームを指揮し、
打撃面でも、44年にリーグ首位の打率.327をマークするなど、好結果を残し続けた。
40年~49年にかけて、毎年リーグMVP投票に顔を出し、
8度のオールスター出場を果たしているのだから、
その安定した働きぶりが想像できよう。
ブードローのキャリアのハイライトは、
何と言っても1948年である。
30歳の青年監督兼正遊撃手は、
ジョー・ゴードン、ラリー・ドビー、
ボブ・レモン、ボブ・フェラー、サッチェル・ペイジ(!)ら
豪華キャストを牽引し、チームをリーグ優勝に導き、
打率.355、18本塁打、106打点でリーグMVPを獲得するなど、
自ら主演も務め上げてしまたのである。
また、ワールド・シリーズでも
かのスパーン/セイン用擁するブレーブスを、
雨など降らせてなるものかとばかりに打ち破り、
チームにとって、自分にとって、最高の年を見事に演出してみせた。
その後、ブードローは、
51年に選手兼監督としてブレーブスへ移籍、
52年に現役を引退した。
監督としては、54年までブレーブス、
55年からカンザスシティ・アスレチックス、
60年はカブスを率いた。
通算1646試合、打率.295、68本塁打、789打点、
選球眼に優れ、四球796に対して三振は309、
出塁率.380が光る。
他にもテッド・ウィリアムスを打席に迎えた時に
実行したブードロー・シフト(王シフトの原型?)や、
41年7月17日、ジョー・ディマジオのヒット性のあたりを好捕し、
連続安打試合記録を56でストップさせるなど、
大打者絡みの逸話も多い。
70年、野球殿堂入り。
2001年、死去。