GUMBO

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file .267 Lou BOUDREAU【ルー・ブードロー】

2008-12-15 | ABC
【The Man of 1948】
Lou BOUDREAU

ブードローは、1939年、インディアンズで本格的にメジャーデビュー。
40年には打率.295、9本、101打点という
圧倒的に勝負強い打撃を見せ、遊撃のポジションを手中に収めた。

ブードローの真骨頂は、堅実な守備であろう。
キャリア15年で8度の守備率リーグトップがそれを物語っている。
また、多少の怪我では試合を休まないガッツも持ち合わせており、
「どうも胃の調子が悪いなぁ」と思いながらプレーし続けていたら、
盲腸だった............などという事もあったという。

41年オフ、24歳のブードローは、
球団フロントに『監督志望』の嘆願書を提出した。
驚くべき事に、それは認められ、
42年、弱冠24歳の青年監督(兼選手)が誕生する。

ハードな遊撃のポジションを守りながら、チームを指揮し、
打撃面でも、44年にリーグ首位の打率.327をマークするなど、好結果を残し続けた。
40年~49年にかけて、毎年リーグMVP投票に顔を出し、
8度のオールスター出場を果たしているのだから、
その安定した働きぶりが想像できよう。

ブードローのキャリアのハイライトは、
何と言っても1948年である。
30歳の青年監督兼正遊撃手は、
ジョー・ゴードン、ラリー・ドビー、
ボブ・レモン、ボブ・フェラー、サッチェル・ペイジ(!)ら
豪華キャストを牽引し、チームをリーグ優勝に導き、
打率.355、18本塁打、106打点でリーグMVPを獲得するなど、
自ら主演も務め上げてしまたのである。
また、ワールド・シリーズでも
かのスパーン/セイン用擁するブレーブスを、
雨など降らせてなるものかとばかりに打ち破り、
チームにとって、自分にとって、最高の年を見事に演出してみせた。

その後、ブードローは、
51年に選手兼監督としてブレーブスへ移籍、
52年に現役を引退した。
監督としては、54年までブレーブス、
55年からカンザスシティ・アスレチックス、
60年はカブスを率いた。

通算1646試合、打率.295、68本塁打、789打点、
選球眼に優れ、四球796に対して三振は309、
出塁率.380が光る。

他にもテッド・ウィリアムスを打席に迎えた時に
実行したブードロー・シフト(王シフトの原型?)や、
41年7月17日、ジョー・ディマジオのヒット性のあたりを好捕し、
連続安打試合記録を56でストップさせるなど、
大打者絡みの逸話も多い。

70年、野球殿堂入り。
2001年、死去。


file .266 Tommy DAVIS【トミー・デイヴィス】

2008-12-14 | DEF
【60sドジャースの打の顔】
Tommy DAVIS

60年代前半のドジャース。
ドライズデール/コーファックスがチームの象徴であったが、
モーリー・ウィリスと、フランク・ハワード、そして二人のデイヴィスも
チームの攻撃の要であった。
二人のデイヴィス.....、
一人はウィリー・デイヴィス、
そしてもう一人がトミー・デイヴィスである。

学生時代はバスケットボールでも鳴らしたデイヴィスだったが、
選んだ進路はベースボールだった。
1960年に、ドジャースの外野のレギュラーをつかみ取ると
打率.276、11本塁打、44打点をマーク。
新人王こそ同僚のフランク・ハワードに持っていかれるが、
その才能をまざまざと見せつける。

61年、打率.278、10本塁打、58打点のデイヴィスは、
翌62年、打率.346、230安打、27本塁打、153打点、18盗塁...、
首位打者、打点王の二冠に輝き、大ブレークを果たすと、
63年も打率.326、16本塁打、88打点、15盗塁....、
前年に続き、首位打者を獲得、
チームをリーグ優勝に導き、
ワールドシリーズでも打率.400の大活躍。
ドライスデール/コーファックス/ジョニー・ポドレスらと共に、
MM砲を擁するヤンキースを散々に打ち破った。

65年、怪我でシーズンの大半を棒にふったデイヴィスは、
66年のオフ、メッツへ放出され、打率.302、16本塁打、73打点。
勝負強い打撃は新天地でも変らず発揮された。

以降、73年まで、実に9度に渡りチームを変えたデイヴィスであったが、
69年は、アストロズとシアトル・パイロッツで80打点、
70年は、アストロズ/アスレチックス/カブスで73打点をマークするなど
クラッチな打撃は影を潜める事は無く、
73年、オリオールズで打率.306、7本塁打、89打点、
74年も打率.289、11本塁打、84打点...と
2年連続でチームの地区優勝に貢献。
30代半ばにして、その渋い打撃は、衰えを知らぬかのようであった。

76年、ロイヤルズでその現役生活に終止符を打ったデイヴィス、
通算1999試合、打率.294、2121安打、1052打点。


サンディ・コーファックスは語る。
「62~63年において、トミー・デイヴィスは、球界で最高の打者だった。
 チームに最良の貢献をしてくれたよ。
 ただ非常に残念な事に、それを認識しているファンは決して多くは無かったんだ」


file .265 Greg MADDUX【グレッグ・マダックス】

2008-12-13 | MNO
【プロフェッサー】
Greg MUDDUX

1986年、一人の偉大な投手が、
シカゴ・カブスで、メジャーデビューを飾った。
グレッグ・マダックスである。
この年、2勝(4敗)防御率5.52に終わったマダックスは、
翌年も6勝(14敗)防御率5.61と結果を残すに至らなかったが、
88年にブレーク。
18勝(8敗)防御率3.18...と目覚ましい進化を遂げ、
オールスターにも出場。
89年は、19勝(12敗)防御率2.95。
92年には20勝(11敗)防御率2.18をマークし、
キャリア初のサイ・ヤング賞を受賞している。

ストレートのスピードこそ平凡以下なマダックスであったが、
唯一無比なるコントロールが最大の武器。
相手の心理を読みつつ、
打者の手元で変化するツーシームや変化球を、
ストライクゾーンギリギリの所にキめ、打者を翻弄。
特にシンカーぎみに深く沈む必殺のサークルチェンジは
幾多の強打者を悩ませた。
『投手にとって最高の仕事は27球で試合を終わらせる事』
....という名言でも解るとおり、
打者の『打ちたい気持ち』を利用し、
打たせて取る頭脳的なピッチングを展開、
グラウンド外での眼鏡姿も相まって、
『プロフェッサー(教授)』なるニックネームまでいただいた。
また、出塁させてしまった走者には、ほとんど関心を示さず、
牽制や盗塁阻止、クイックモーション等、
走者をアウトにする行為はほとんど無視した。
あくまでも、打者を打ち取る..............
それがマダックスのポリシーであった。

93年からアトランタ・ブレーブスに移り、全盛期を迎える。
移籍一年目で20勝(10敗)防御率2.36/サイ・ヤング賞
94年、16勝(6敗)防御率1.56/サイ・ヤング賞
95年、19勝(2敗)防御率1.63/サイ・ヤング賞.......と、
4年連続でサイ・ヤング賞に輝く偉業を達成し、
トム・グラヴィン、ジョン・スモルツらと共にチームを支え、
3度のリーグ優勝に大きく貢献。
特に、95年のインディアンズとのWSでは
2試合に投げ、1勝、防御率2.25と活躍、
世界一の美酒におおいに酔い痴れた。

その後も、芸術的なピッチングを続けたマダックスは、
97年~2000年まで、4年連続で18勝以上をあげるなど、
88年~2004まで17年連続で15勝以上をマーク。
その間、防御率が3.50を上回ったのは、わずか3度...と
凄まじい程の安定感を誇っていた。

38歳になった2004年から
カブス~ドジャース~パドレス~ドジャースと
チームを変えて投げ続けたマダックスだったが、
2008年、42歳で惜しまれつつ現役引退を発表。

通算744試合、355勝(227敗)、防御率3.16、
流石のコントロールで、通算四球はわずか999(1シーズン平均45)。

卓越したフィールディングも代名詞の一つであり、
ゴールド・グラブ受賞は、実に18度を数えた。
また、打撃も決して悪くなく、
通算打率.171をマークしている。

まさに不世出の大投手であった。

file .264 Sam McDOWELL【サム・マクダウェル】

2008-10-04 | MNO
【Sudden Sam】
Sam McDOWELL

1961年、18歳でメジャーデビューしたマクダウェル、
さすがに荷が重く、制球難にも苦しみ、
63年までの3年間で6勝12敗と、
結果を出すには至らなかった。

そんなマクダウェルだったが、1964年、
突如、その才能を開花させる。
31試合に登板し、11勝、防御率2.70、
ようやくローテーションピッチャーとして
チームに貢献する事が出来たのであった。

65年、マクダウェルはさらにパワーアップ、
長身の左腕から繰り出される豪速球とチェンジアップで打者を圧倒。
防御率2.18、17勝、325奪三振をマーク、
防御率と奪三振のタイトルに輝き、
初のオールスター出場も果たした。

その後、
67年~72年まで6年連続で二桁勝利、
65年~70年まで、やはり6年連続の200奪三振以上(最多奪三振は5度)、
68年~71年まで4年連続でオールスター出場...など
マクダウェルのパワーピッチングは冴えに冴え渡った。
特に70年は、防御率2.92、キャリア初の20勝、304奪三振をマーク、
サイ・ヤング賞投票でも3位に入る活躍ぶりを見せた。

....が、その反面、コントロール難は修正がきかず、
64年~71年まで8年連続で100与四球を記録、
デビューの頃苦しんだ制球難を克服する事は出来なかった。

そんなマクダウェルだったが、
30歳を迎えると、
突然、その投球に衰えが見え始める。
原因は酒であった。
過剰に摂取したアルコールは、マクダウェルの才能を蝕んでいく。
結局、75年パイレーツで現役を引退。

通算425試合、防御率3.17、141勝134敗。

引退後はアルコール中毒との戦いが待っていたがこれを克服、
カウンセラーとしてレンジャーズやブルージェイズに在籍、
その人生をモデルにした、テレビドラマも制作された。


file .263 Fernando VALENZUELA 【フェルナンド・ヴァレンズエラ】

2008-10-03 | VWX
【フェルナンドマニア】
Fernando VALENZUELA

メキシコ生まれのヴァレンズエラは、
地元のチームで投げているところをスカウトに見いだされ、
1979年、ドジャースと契約するに至った。

80年、弱冠19歳でメジャー昇格を果たすと、
この年、17.7イニングを無失点に抑える鮮烈なデビューを飾る。
また、振りかぶった時に顔が空を見上げるようになる独特のフォームも相まって
ファンに強烈な印象を与えた。

翌81年には、開幕から5完封を含め8連勝。
激しく変化するシンカー(スクリューボール)を武器に快投を見せる
メキシコから来たスーパーレフティの登場は、
LAのみならず、全米の野球ファンを熱狂の渦に巻き込み、
熱烈にヴァレンズエラに声援を送るファンは、フェルナンドマニア...と呼ばれた。
結局この年、ストライキによる影響もあってか
勝ち星は13勝にとどまったが、8完封、防御率2.48をマークし、
チームのワールドシリーズ制覇に大きく貢献。
サイ・ヤング賞と新人王をダブルで戴冠し、
当然、オールスターにも出場を果たした。

3年目の82年もヴァレンズエラの勢いは加速する。
285イニングを投げて、防御率2.87、19勝13敗、
2年連続のサイ・ヤング賞とはいかなかったが、
その実力をフルスロットルで発揮した。

以降、81年~87年まで7年連続10勝以上をマーク、
86年には、防御率3.14、21勝をあげるなど、
ドジャースのエースとして球界に君臨。
82~87年の6年間は、連続して250イニングを投げ、
エースのなんたるかをおおいに示して見せた。

そんなヴァレンズエラの勢いが止まったのが88年、
蓄積疲労もあったのか23試合で5勝8敗、防御率4.24。
登板イニングも142.3と、200を大きく割ってしまった。

その後、
89、90年と2年続けて二桁勝利をあげ、
90年にはノーヒッターも達成したヴァレンズエラだが、
全盛期の勢いは戻らない。
91年のオリオールズをはじめとして
フィリーズ、パドレス、カージナルスとチームを変えながら、
メキシカンリーグとメジャーリーグを往復。
96年にパドレスで防御率3.62、13勝8敗と復活するもここまで。
翌97年、カージナルスで現役を引退した。

通算453試合、防御率3.54、173勝153敗。
打撃センスもよく、通算打率.200、10本塁打、84打点をマーク、
90年には打率.304、1本塁打、11打点..と
野手と見紛うような成績を残した。

オールスターには6回選出され、5試合に登板。
通算7.2イニングを無失点に抑えている。


file .262 Al HRABOSKY 【アル・ラボスキー】

2008-10-02 | GHI
【狂えるハンガリー人】
Al HRABOSKY

その魁偉な長髪・髭面と、
独特な投球時の儀式、
加えて、ハンガリーの家系の生まれである事から
『マッド・ハンガリアン』のニックネームで親しまれた
名物ピッチャーである。

1969年、カージナルスと契約し、
70年に、20歳の若さでメジャーデビューを果たしたラボスキーは
73年、中継ぎ投手として44試合に登板し、防御率2.09と結果を残す。

74年には、65試合で防御率2.95、8勝1敗9セーブの好成績をマークし
サイ・ヤング賞レースで5位に入る活躍を見せた。

荒々しい風貌から繰り出される豪速球で
相手打者を封じ込めたが、
その速球よりも、打者に嫌がられたのが、
ラボスキーの投球スタイルである。
まず、投げる前に打者に背を向け、
何やらブツブツとつぶやきながら、セカンドベース方向へ歩き出す。
精神集中を終えると、ようやくマウンドに戻り投球する........。

1球ごとにこれをやられたら、
打者としては、たまったものではない。

ビル・マドロックなどは、
ラボスキーが投げる準備を終えた頃合いをわざと狙って、
独り言を言いながら
バッターボックスから自軍ベンチの方へ歩いていく....という物真似で
ラボスキーに対抗したほどである。

が、このカラフルなリリーフピッチャーは、
前述の活躍が示す通り、キャラクターだけの色物では無かった。

75年、65試合、防御率1.66、13勝3敗22セーブで
サイ・ヤング賞投票3位の大活躍を見せると、
ロイヤルズへ移籍した78年には、
58試合で防御率2.88、8勝7敗20セーブで
チームの地区優勝に貢献。

82年にアトランタで現役を退いたラボスキー、
実働13年での通算成績は、545試合、64勝、97セーブ、防御率3.10。

現在は解説者の傍ら、
レストランやバーを経営している。

file .261 Jim ABBOTT 【ジム・アボット】

2008-10-01 | ABC
【隻腕のエース】
Jim ABBOTT

1967年、ミシガンで生まれたアボットは、
先天性右手欠損....右手首より先が無い、という
ハンディキャップを背負って生まれた。
両親は、高校を出たばかりの18歳同士、
生まれてきた赤ん坊を見た時の衝撃は計り知れないが、
二人は悲観せず、普通の子供として育て、
アボットのやりたい事を、好きにやらせた。

やがて野球を始めたアボットだったが、
問題は守備であった。
アボットは、投球時にグローブを右手首に乗せ、
投球直後にそのグローブを即座に左手にはめる...という動作を
時間をかけ何度も練習し、ついに会得。
高校、大学と、投手としてプレーし続け、その才能を開花。
ついには、ソウル・オリンピックの代表メンバーに選出され、
金メダル獲得の原動力となった。

1989年、カリフォルニア・エンゼルスに入団したアボットは、
マイナーでのプレーを経ず、防御率3.92、12勝をマーク。
5月17日には、レッドソックス相手に完封、
ロジャー・クレメンスに投げ勝つ...という大金星をあげている。
新人王レースでも5位に付け、
早くも、チームのローテーション入りを果たした。

91年は、アボットにとって、最高の年となった。
防御率2.89、18勝という素晴らしい成績で、
サイ・ヤング賞の投票では3位にランクイン。
チャック・フィンリーやマーク・ラングストンといった面々と共に、
主力投手としてチームを支えた。

92年も7勝ながら防御率2.77と好投し、
安定した投球を見せたアボットだったが
93年、J.T・スノウらとのトレードでヤンキースへ移籍。
この年の9月のインディアンズ戦では、
ノーヒット・ノーランを達成。
インディアンズ打線には
ケニー・ロフトン、カルロス・バイエガ、アルバート・ベル、
売り出し中のジム・トーミー、
この年デビューしたマニー・ラミレスなどがおり、
今見ると、かなり豪華な布陣であった。

その後、ヤンキースを経て、
シソックス、エンゼルス、ブルワーズと渡り歩いたアボットだったが、
91~92年頃のキレのある投球は復活せず、
1999年、ブルワーズを最後に現役を引退した。

通算263試合、87勝、防御率4.25。

とある試合、
無意識にセーフティバントの構えを見せ、
投手がアボットだと気づき、バットを引いた選手に対し、
「何故バントをしなかった?? あの場面ではあり得る作戦だろ?? 
私に気を使う事は無いし、バントをしない事は逆に私を見下してる事になるんだぜ」
と言い放ったという。

男・アボット、歴史に残る名レフティである。

file.260 Norm CASH 【ノーム・キャッシュ】

2008-08-23 | ABC
【Stormin' Norman】
Norm CASH

1973年、7月15日、デトロイト。
デトロイト・タイガースvs カリフォルニア・エンゼルス、
この日、エンゼルスの先発投手、ノーラン・ライアンは
9回2死までタイガースを無安打に抑える
快刀乱麻の投球を見せていた。
........あと一人でノーヒッター........
主砲のノーム・キャッシュが打席に立つと
ライアンは、その眼を疑った。
キャッシュの手に握られていたのは
バットではなく、テーブルの脚だったのだ。
「あんた、何やってんだ、馬鹿な事はやめろ」
審判のロン・ルチアーノはが注意するとキャッシュは真剣な面持ちで言い放った
「どうせ、打てないんだ。コイツだってバットだって一緒だろ!!」

NHLのベアーズからもドラフトされたというキャッシュ。
58年、ホワイトソックスでデビューするも成績は泣かず飛ばず、
ブレークを果たしたのは60年、タイガースへトレードされてからであった。
この年、打率.286、18本塁打、63打点をマークしたキャッシュは
翌61年、自慢のお手製コルクバットで豪打連発。
打率.361、41本塁打、132打点...と脅威の成績を残し
首位打者の栄冠に輝くが、この年は運悪くロジャー・マリスの『61』の年。
キャッシュが注目を浴びる事は殆ど無かった。

コルクバットを捨て、新たな気持ちで迎えた翌62年、
39本塁打を放ちパワーを見せつけたものの、
打率は.243まで降下し、打点も89。
前年に比べおおいに成績を下げた。

以降、63年は打率.270、26本塁打、79打点、
66年は打率.279、32本塁打、93打点と
主砲としては申し分無い働きを見せるキャッシュだったが
61年レベルの成績を残すのには至らなかった。

68年、打率.263、25本塁打、63打点、
物足りない数字ではあったがチームはリーグ優勝。
カージナルスとのワールド・シリーズでは、
打率.385、1本塁打、5打点と大暴れ。
タイガース22年ぶりの世界一に大きな貢献を果たした。

その後、74年までタイガースでプレーし現役を引退。
前述のライアンの一件でも分かる通り、
ユーモアのセンスに溢れ、ファンや他の選手たちに愛された。
ランナーで出て、1~2塁間で挟まれた際には
両手で『T』の字を作り、タイムを要求した事もあるという。

通算1820安打、377本塁打、1103打点、打率.271
一塁守備も名人級であった。

1986年、ボートの事故で死去。


file .259 Don NEWCOMBE【ドン・ニューカム】

2008-08-02 | MNO
【Newk】
Don NEWCOMBE

ニグロ・リーグのニューアーク・イーグルスで活躍していたニューカムが
ブルックリン・ドジャースと契約を交わしたのは1946年。
メジャーデビューを果たしたのは1949年。
3年間、待たされたフラストレーションを一気に爆発させたニューカムは、
この年、防御率3.17、17勝の大活躍。
チームをリーグ優勝に導き、
ワールドシリーズでは、2敗を喫するが、
ヤンキース相手に好投を見せ、その勇姿を選手やファンの心に焼き付けた。

翌50年、防御率3.70、19勝
51年には、防御率3.28、20勝、リーグトップの164奪三振.....と、
早くも、ドジャースのエースに君臨していたニューカムであったが、
52~53年は兵役のため、チームを離れた。

豪速球とカーブが武器のニューカム、
未だ、人種差別が幅をきかせていたこの時代、
白人打者相手に闘志むき出しの投球で、
相手を震え上がらせた。
敵軍コーチから、人種絡みの汚い野次を飛ばされた時には
打者に対して、頭部を狙ったかのようなピッチングで威嚇。
恐怖にかられた、その打者は
味方ベンチの、コーチに対し、
「てめえ黙りやがれ!! 俺が殺されるだろう!!」と
キレる始末であったという。

54年、兵役から戻っていたニューカムは、
身体のキレが戻らず、防御率4.55、9勝と調子を崩すが
翌55年は見事復活。
防御率3.20、20勝の好成績で
チームのワールドシリーズ進出に大きく貢献。
シリーズでは、1試合で6失点を喫し、
勝利投手にはなれなかったが、ドジャースは見事、優勝。
宿敵ヤンキースを倒しての世界一を果たし、
ニューカムも、大いに仲間と喜びを分かち合った。

56年は防御率3.06、27勝.....と大活躍、
MVPとサイ・ヤング勝のダブル受賞を果たしたが、
新人王、シーズンMVP、サイ・ヤング勝を全て獲得した選手は
今のところ、このニューカムのみである。

その後、ニューカムは
チームがブルックリンからLAに移ると、
大きく調子を崩し、58年シーズン途中でレッズへ移籍、
59年に防御率3.16、13勝をマークするなど奮闘したが
60年を最後にメジャーのチームで投げる事は無かった。

ちなみにメジャー時代から、野手顔負けの打撃力を見せつけていたニューカム。
通算打撃成績は、打率.271、15本塁打、108打点を誇り、
62年、外野手として日本のドラゴンズで活躍した際には、
81試合で打率.262、12本塁打、43打点をマークした。

メジャー通算149勝、防御率3.56、1129奪三振。


file .258 Hideo NOMO【野茂英雄】

2008-07-31 | MNO
【英雄】
Hideo NOMO

1989年オフ、8球団からの指名を受け
抽選の結果、バファローズに入団した野茂。
身体を半回転させて投げる、いわゆる「トルネード投法」から繰り出される
速球と鋭いフォークボールでパ・リーグの打者を圧倒、
防御率2.91、18勝、287奪三振など、
投手8部門で1位となり、シーズンMVPと新人王をダブル受賞、
鮮烈なデビューイヤーを飾った。

以降、4年連続の最多勝、最多奪三振など、
快刀乱麻の活躍を続け、日本球界を代表するエースとなった。

93年オフ、最大の理解者であり後ろ盾であった仰木彬監督が退団すると
野茂を取り巻く環境が一変する。
新監督の鈴木啓示は、これまで野茂が取り組んでいた
合理的なトレーニングを否定。
トレーナーの立花龍司を遠ざけ、自身の精神論を押し付けた。
その結果なのか、野茂は右肩を痛め、この年、17試合の登板にとどまり、8勝に終わる。

94年オフ、契約問題などで球団とこじれた野茂は、
任意引退の形をとり、バファローズを退団。
メジャー・リーグ挑戦の意向をあきらかにする。

95年、ドジャースとマイナー契約を交わした野茂。
日本のマスコミ、識者の多くが「我が儘」「無謀」と評する中、
5月にメジャーデビューを果たすと、この年、
防御率2.54、13勝、236奪三振をマーク、
最多奪三振に加え、新人王に輝いた。
さらに6月の月間MVP受賞やオールスター戦での先発登板など、全米を席巻。
スト問題などで人気低迷が叫ばれていたメジャー・リーグを再び盛り上げるのに一役買い、
さらに、日本でも社会現象になるほどの大フィーバーを演出した。

96年には、ロッキーズ戦でノーヒット・ノーランを達成するなど活躍し
防御率3.19、16勝、234奪三振。
97年は防御率4.25ながらも14勝、233奪三振をマークし、
メジャーを代表する投手として、その地位を確立した。

98年シーズン途中でメッツへ移籍し、2球団で6勝。
99年からはブルワーズ、タイガースとチームを変え、
2001年、レッドソックスへ移籍、
防御率4.50、13勝、リーグトップの220奪三振をマーク、
初登板のオリオールズ戦では二度目となるノーヒットノーランを達成し、
再び、全米の注目を集めた。

2002年、FAでドジャースへ復帰すると
この年、防御率3.39、16勝、193奪三振の好成績。
翌2003年も防御率3.09、16勝、177奪三振....と
古巣で安定した投球を続けた野茂であったが、
2004年、不調に陥り、防御率8.25、4勝に終わると、
2005年、移籍先のデビルレイズでも思うような活躍が出来ず
その後、2年間はメジャーの試合で投げる事は無かった。

今日、多くの日本人選手が
メジャーリーグの舞台でプレーしているが、
彼らに道を切り開いたのは、間違い無く野茂である。
日本でのメジャーリーグ人気に火を付けたのも言うまでもなく野茂である。
また、カル・リプケンJr.と子供野球教室を実施したり、
ノモ・ベースボール・クラブを結成し、
社会人野球を盛り上げようと奮闘するなど、
ベースボールに対する真摯な姿勢は、多くの尊敬を集めている。

2008年、ロイヤルズで、
3年ぶりにメジャーのマウンドに立った野茂。
3試合で9失点を喫すると
7月、「悔いが残る」現役引退を発表した。

メジャー通算320試合、123勝、109敗、防御率4.21、1915奪三振。
パイオニアが残した堂々たる数字である。

file .257 Clete BOYER 【クリート・ボイヤー】

2008-07-29 | ABC
【名手、日本へ】
Clete BOYER

名三塁手ケン・ボイヤーを兄に持つクリート・ボイヤーは、
18歳の若さでメジャーデビュー。
アスレチックスで47試合に出場し打率.241をマークした。

ブレークしたのは1960年、
ヤンキースへ移籍してからであった。
この年打率.242、14本塁打、46打点、
打撃は荒いものの、ケンと同じ三塁手として、
兄を凌ぐ守備力を見せ、チームのリーグ優勝に貢献した。

1961年、球界がロジャー・マリスの『61』に湧いた年、
ボイヤーは打率.224、11本塁打、55打点をマーク。
明けて62年は打率.272、18本塁打、68打点と
勝負強い打撃を見せ、ヤンキースの2年連続の
世界一に大きな貢献を果たす。

内野の要として
王朝ヤンキースを支えたボイヤー、
64年には、兄ケンの在籍するカージナルズとワールド・シリーズで相まみえ、
惜しくも世界一は逃したものの、
第7戦で兄弟アベックホームランを達成した。

67年、ブレーブスへ移籍、
この年、打率.245、26本塁打、96打点をマーク。
以降も、同僚の大打者ハンク・アーロンらと共に、
攻守にわたって、チームを支えた。

が、そんなボイヤーに大きな転機が訪れる。
1971年、チームを批判する発言をかましたボイヤーは、
シーズン途中で解雇されてしまい、
他球団からの誘いも無く、
ハワイの独立リーグでプレーする事になってしまったのだ。

そんなボイヤーに熱い視線を送っていたのが
日本のホエールズの海外スカウト牛込惟浩氏であった。

牛込氏からスカウトされたボイヤーは
72年からホエールズ三塁手としてでプレー。
4年間で打率.257、71本塁打、218打点をマークすると共に
卓越した守備力で多くの選手、ファンをうならせた。
現役引退後も日本に残り、その技術を後身に伝授した。

その後、アスレチックスやヤンキースのコーチを勤め、
2007年、アトランタにて死去。

メジャー通算1396安打、162本塁打、654打点、打率.242。


file .256 George BELL【ジョージ・ベル】

2008-07-26 | ABC
【ドミニカンは気難し屋】
George BELL

1978年、フィリーズと契約を交わしたベルだったが
80年のオフ、ブルージェイズへ移籍、
81年メジャーデビューを飾った。

その才能が開花したのは84年。
この年、打率.292、26本塁打、87打点をマーク、
同い年のロイド・モスビー、ジェシー・バーフィールドと共に
フレッシュな外野陣を形成した。

85年は打率.275、28本塁打、95打点、21盗塁で
チームの地区優勝に貢献。
86年、打率.309、31本塁打、108打点と
さらに成績を上げ、
87年には、打率.308、47本塁打、134打点で
打点王とシーズンMVPを受賞。
リーグを代表するスラッガーへと成長を遂げた。

神経質で気難しい性格のベルは、
いわゆる「陽気なドミニカン」では無かった。
87年、チームが、あと少しで地区優勝..という
シチュエーションになった時は
勝負のラスト10試合ほど、考え込みすぎて大スランプに陥り、
性格が災いして、地元マスコミとの関係も良くは無かった。

88年、24本塁打、97打点を叩きだすも、
前年に比べ大きく成績を落とし、
89年も18本塁打..と
絶頂時の87年に比べ、数字が落ち始めたベル。

91年カブス、92年からはホワイトソックスとチームを変え、
93年に現役を引退した。

通算1702安打、265本塁打、1002打点、打率.278

file .255 Bob ALLISON 【ボブ・アリソン】

2008-07-20 | ABC
【ツインズ創成期の英雄】
Bob ALLISON

大学時代は野球に加えてフットボールでも
花形選手だったアリソン。
プロ入りに際し、野球の道を選んだアリソンは
ワシントン・セネターズと契約を結ぶ。

1959年、レフトの定位置の座を得たアリソンは
打率.261、30本塁打、85打点の堂々たる成績で
オールスター出場及び新人王獲得と
最高のルーキーイヤーを送る。

61年には29本塁打、105打点、
62年は打率.266、29本塁打、102打点、
チームがミネソタに移り、ツインズとなっても
その豪打は相変わらずであった。

長いメジャーリーグの歴史の中では、
多くのパワーデュオが存在した。
ルース/ゲーリック、メイス/マッコビー、アーロン/マシューズ
カンセコ/マグワイア、オーティズ/ラミレス.....etc
そして、ミネソタにおいては、
通算573本塁打の「キラー」こと
ハーモン・キルブリューのデュエットパートナーが
このボブ・アリソンであった。

巨漢の強打者でありながら、抜群の選球眼、
積極的な守備と巧みなベースランニングも持ち味。
地元では、親友のキルブリューに次ぐ人気を誇った。

63年、打率.271、35本塁打、91打点
64年、打率.287、32本塁打、86打点...と
安定した強打者ぶりを発揮していたアリソン、
65年にはチームのワールドシリーズ進出に貢献し
シリーズ弟2戦では、逆シングルで、難しいフライを好捕、強い印象を残すも
結局、ドライスデール、コーファックスを擁する
ドジャースを破るには至らなかった。

その後もキルブリューや、トニー・オリヴァといった面々と共に
チームを支えたアリソンだったが、
30歳台半ばに差し掛かったあたりで、
攻守にわたり、満足のいくプレーが出来なくなり
70年、現役を引退。
引退後は、コカコーラ社に席を置き、
95年、死去。

通算1281安打、256本塁打、796打点、打率.251。


file .254 Bucky DENT【バッキー・デント】

2008-07-19 | DEF
【Mr.October in 1978】
Bucky DENT

70年、ドラフト1位でホワイトソックスに入団したデントは
73年、メジャーデビュー。
74年には遊撃のレギュラーを獲得し打率.274、5本塁打、45打点、
同年の新人王投票で2位に入る活躍を見せた。

打撃面では、非力で出塁率も低く、多くを望めない選手だったが
堅実な守備でチームを支え、甘いマスクで女性人気も高かった。

1977年、ヤンキースへ移籍。
レジー・ジャクソンやグレイグ・ネトルズ、サーマン・マンソンといった
個性溢れる選手に混じってプレーし、
打率.247、8本塁打、49打点、
9番遊撃としてワールドシリーズ制覇に貢献し、
勝利の美酒に酔い痴れた。

バッキー・デントといえば、
なんと言っても1978年であろう。
この年、ヤンクスとボソックスは同率首位で
レギュラーシーズンを終えた。
そこでワンデイ・プレーオフとなるわけだが、
コイントスの結果、試合はフェンウェイで行われる事になる。
同年、デントは打率.243、5本塁打、40打点に終わっており
相変わらず打撃では活躍を期待できない選手だったが、
この日は違った。
ヤズの本塁打などでボソックスがリードしていた7回、
デントはマイク・トーレスからグリーンモンスターを超える
会心の3ランホームランを放ちチームの勝利に多大なる貢献を果たす。
その後もデントの勢いは止まらず、
ドジャースとのワールドシリーズでは
6試合で打率.440、7打点と大爆発。
同じく大活躍だったレジー・ジャクソン(打率.391、2本塁打、8打点)を抑え、
見事シリーズMVPに輝く。
この年に限っては、Mr.オクトーバーはデントであった。

その後、デントはレンジャーズ、ロイヤルズとチームを変え、
84年に現役を引退。
古巣ヤンキースの監督を務めた事もあったが、
結果を残すに至らなかった。
通算1114安打、40本塁打、423打点、打率.247。

ヤンキースでは5年間にわたり、遊撃のポジションを守ったが、
デント以降、このポジションは選手が定着せず、
95年のデレク・ジーターの登場を待たなくてはならなかった。


file .253Wally MOON【ウォーリー・ムーン】

2008-07-12 | MNO
【Moon shots】
Wally MOON

1954年、プロ初打席を場外ホームランで飾ったムーン、
この年、24歳のムーンは151試合で
打率.304、12本塁打、76打点、18盗塁と大活躍。
スタン・ミュージアルやレッド・シューンディーンストらと共にチームを牽引、
同年デビューのアーニー・バンクスやハンク・アーロンらを抑え、
見事、新人王を獲得した。

翌55年も打率.295、19本塁打をマークし
デビューイヤーがフロッグで無い事を証明すると、
以後、カージナルスの主力選手として攻守にわたり活躍。
57年にはキャリアハイとなる24本塁打を放ち、
スラッガーとしての更なる成長を見せた。

58年オフ、
この年絶不調に終わったドジャースは、
名門復権のキーマンとしてムーンに白羽の矢を立てた。
結局、トレードでドジャースに移籍したムーンは、
見事その期待に応え
打率.302、19本塁打、74打点。
勝負強い打撃と好守を見せ、
リーグ優勝に貢献、
ワールドシリーズでもホームランを打つなど活躍し
チームを世界一に導いた。
MVP投票では4位に終わったが、チーム内での得票数では
ホッジスやスナイダーといった名だたる名プレーヤーの上を行っており
その活躍ぶりがいかにクラッチだったかが証明された。

60年、打率.299、13本塁打。
61年、打率.328、17本塁打、88打点.......と
以降もドジャースの主力打者として活躍を続けたが、
61年をピークに年々成績が落ちていき、
65年、53試合で打率.202、1本塁打に終わると、
この年のワールドシリーズ優勝を土産に
現役から退いた。

通算1457試合、打率.289、142本塁打、664打点。