GUMBO

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file .237 Dennis EcKERSLEY 【デニス・エカーズリー】

2008-01-13 | DEF
【second wind】
Dennis EcKERSLEY

1972年、インディアンズと契約を交わしたエカーズリー。
75年、弱冠20歳でメジャーデビューを果たし、13勝、防御率2.60という好成績を残すも
新人王はフレッド・リンにさらわれてしまう。
エカーズリーはその後も76、77年と連続して2ケタ勝利をマークし
チームの主力投手として活躍、
さらに78年、トレードでレッドソックスへ移籍すると
この年20勝、防御率2.99と絶好調、
いきなりチームのエース格にのしあげる。
「この先、20勝なんていくらでも出来るさ」
若きエースは自身満々でそう嘯いた。

が、『驕る平家も久しからず』とはよく言ったもので、
79年も17勝をあげ、好調を維持したエカーズリーだが、
80年、12勝14敗、防御率4.28と不調に陥ると
81年は9勝、防御率4.27....と徐々に成績が下降線をたどるようになる。

なかなか上昇の気配を見せないエカーズリーは
83年、9勝、防御率5.61に終わると、
84年、シーズン途中でカブスへ放出されてしまう。
移籍後は10勝、防御率3.03と好投を見せたエカーズリー、
85年こそ、11勝、防御率3.08と頑張ったが、
86年、6勝11敗、防御率4.57の低迷ぶりで
87年、今度はアスレチックスへ放出。
「もう俺に売りなんて無いよ。どこへ行っても変わらないさ」
アル中の三流投手に成り下がったエカーズリーは、
望みを失っていた。

しかし、エカーズリーはまだ終わってはいなかった!
当時のアスレチックス監督、トニー・ラルーサと投手コーチのデイヴ・ダンカンの指示で
リリーバーとして起用されるようになり、さらに怪我で戦列を離れたジェイ・ハウエルに代わってクローザーに転向。
アスレチックスでの一年目は6勝、16セーブ、防御率3.03をマークする。
エカーズリーに二度目の風が吹いた。
88年、4勝、45セーブ(リーグ最多)、防御率2.35。
チームのリーグ優勝に貢献すると
89年、4勝、33セーブ、防御率1.56。
今度はワールドシリーズ制覇に多大な貢献を果たし、
チームの大黒柱的存在となる。
その後も、90年、4勝、48セーブ、防御率0.61(!!!).......91年、5勝、43セーブ、防御率2.96と快進撃。

「野球に感謝したい。こんなにも野球を愛せるようになるとは思わなかった」
既にアル中を克服し、抜群の制球力を発揮、
サイドスローからのスライダーもキレまくっているエカーズリーは
心からこう語った。

92年は最高の年となった。
7勝1敗51セーブ、防御率1.91......、
シーズン最多セーブ、MVP、サイ・ヤング賞の三冠を獲得、
6度目のオールスター出場も果たすなど、
押しも押されぬ球界を代表するクローザーへと登り詰めた。

93年からは、3年連続で防御率4点台.....と、
40歳近い年齢的な衰えもあってか、成績は下降していくが、
96年、ラルーサ監督を追ってカージナルスへ移籍すると、
30セーブ、防御率3.30とやや持ち直す。
97年も36セーブをマークするが、ここまでであった。
98年、43歳の老兵は古巣レッドソックスで現役を引退。

通算197勝、390セーブ、防御率3.50

2004年に野球殿堂入りを果たしている。

file .236 Don LARSEN【ドン・ラーセン】

2008-01-02 | JKL
【1956.10.8】
Don LARSEN

1956年のワールドシリーズは、
ヤンキースのドジャースの戦いになった。
互いに2勝し、勝てば『王手』となる第5戦、
ヤンキースの先発投手はドン・ラーセンであった。

ラーセンは、1953年、『史上最弱球団』セントルイス・ブラウンズでデビュー。
成績は、7勝12敗、防御率4.16であった。

54年、オリオールズに移籍するが
3勝21敗という、驚異的な勝負弱さを発揮してしまう。

55年、今度はヤンキースに移籍。19試合に登板し、9勝2敗、防御率3.06...と、
投法をノーワインドアップに変えたのが功を奏し、
見違えたような投球を見せる。

56年、ローテ入りを果たしたラーセンは、
11勝5敗、防御率3.26をマーク。
チームのリーグ優勝に貢献し、
ドジャースとのワールドシリーズに臨んだ。

ラーセンは、第2戦で先発するも
コントロールが乱れ、2回4失点で降板。
敗戦投手にこそならなかったが、
大舞台で結果を出す事は出来なかった。
ヤンキースはこの試合で2連敗、
が、この後2連勝し2勝2敗の五分となった。

第5戦、ラーセンに汚名返上の機会が与えられた....。

この日のラーセンはコントロールが冴えに冴えた。
ギル・マクドゥガルドやミッキー・マントルの好守にも助けられ、
デューク・スナイダー、ロイ・キャンパネラ、
ギル・ホッジス、ジャッキー・ロビンソンらを擁するドジャース打線に
ヒットどころか、四球すらも与えない。
.........結果、完全試合。

球場は興奮の渦に巻き込まれ、
ラーセンは、チームメイトの手荒い祝福を受けた。
このシリーズ、ヤンキースは見事世界一に輝き、
ラーセンは、シリーズMVPの栄誉を手にした。

一躍時の人となったラーセンだったが、
この完全試合を機に、一流投手へと変貌を遂げる....と、いうわけにはいかなかった。
翌57年こそ、10勝をあげるが、59年、6勝に終わると
その後はアスレチックス、ホワイトソックス、ジャイアンツetc...とチームを渡り歩き、
67年、カブスで現役を引退。
62年、ジャイアンツで2度目のワールドシリーズ制覇の美酒に酔う事こそ出来たものの、
通算81勝、防御率3.78....と平凡な数字しか残す事は出来なかった。

file .235 Steve CARLTON 【スティーブ・カールトン】

2008-01-01 | ABC
【孤高の左腕】
Steve CARLTON

1964年、カージナルスに入団したカールトン。
65年にはメジャーに昇格するが、
ブレークしたのは14勝、防御率2.98をマークした67年であった。
この年、カールトンは、リーグ優勝に貢献し、ワールドシリーズにも登板。
世界一の栄冠を勝ち取る事が出来た。

68年、13勝をあげたカールトンは、
オフに日米野球のため来日。
江夏豊のフォームや、他の日本人投手のスライダーに惚れ込み、
帰国後、キャッチャーのティム・マッカーバーとスライダーの練習に取り組み、見事に体得。
ベジタリアンに徹し、体調管理を怠らず、
トレーニングにマーシャルアーツやクンフーを取り入れる事で、
腕力を鍛えに鍛え速球のキレが飛躍的に向上した。

その効果もあって、69年は格段に投球内容が良くなり、
17勝、防御率2.17、210奪三振をマーク、
9月には1試合19奪三振を記録するなど、
目覚ましい活躍を見せた。

71年に20勝をあげ、チームの大黒柱に成長を遂げたカールトンだったが、
この年のオフ、契約交渉が難航した事からフィリーズへトレード。
悔しさがカンフル剤になったのか、
移籍一年目の72年、カールトンは、27勝、防御率1.97、310奪三振という
素晴らしい成績をおさめ、勝利数、防御率、奪三振の三部門でリーグトップ。
初のサイ・ヤング賞にも輝き、チームが最下位だった事を除けば、
最高ともいえるシーズンを送った。

その後もリーグ最高の左腕として活躍を続けたカールトンだったが、
マスコミとの関係は最悪であった。
家族のプライバシーを侵害するような記事を書かれた時から、一切の取材を拒否、
記者が自分のロッカーの近くにいるだけで
「俺のロッカーを覗いていやがったな!!」と怒り心頭で詰め寄る始末であった。
カールトンのマスコミ拒否は現役引退の瞬間まで貫き通される事となる。

76年20勝、防御率3.13をマークすると
77年は23勝、防御率2.64で二度目のサイ・ヤング賞受賞、
さらに80年は24勝、防御率2.34、286奪三振で三度目のサイ・ヤング賞受賞に加え、チームはリーグ優勝。
ワールドシリーズでも2勝をマークし、フィリーズ初の世界一の原動力として活躍した。

まさに全盛期のカールトン。
その投球は、恋女房のマッカーバーに言わせれば、『高尚なキャッチボール』。
バッターの存在など全く無視であった。
が、その無視しているはずのバッターにカモにされると
まるで親の敵のごとく、敵視した。
あるオフ、ハンティングに出かけたカールトンは、
鳥を撃ち落とし、さらに空に向けてもう一発ブッ放した。
「今の一発はジョニー・ベンチの奴に向けたのさ」
ベンチはカールトンを得意としていたのだ。

82年、23勝で4度目のサイ・ヤング賞に輝いたカールトンだったが、
85年、わずか1勝(8敗)に終わると、翌年、フィリーズから解雇。
以降は、働き場所を求めてジャイアンツやインディアンズなどチームを渡り歩くが、結果を出せず、
88年、ツインズを最後に『孤高のレフティ』は現役を引退した。

通算329勝、防御率3.22、4136奪三振。

1994年、95.8%という高い得票率で野球殿堂入りを果たしている。

file .234 Billy RIPKEN 【ビリー・リプケン】

2007-12-31 | PQR
【兄弟で二遊間】
Billy RIPKEN

言わずと知れた
カル・リプケンjr.の実の弟である。

ビリー・リプケンは、1987年の7月、
父カル・リプケン率いるオリオールズでデビュー。
怪我で試合出場が出来なくなった、
二塁手のリック・バールソンの代役としてのメジャー昇格であったが、
ここに、兄カルとビリーの兄弟二遊間、
及び、監督・父、息子2人が選手....というシチュエーションが実現。
メジャー史上発の快挙と相成った。

結局、この年は58試合で打率.308、2本塁打、20打点と好成績をマーク、
兄同様の堅実な守備だけでなく打撃でもチームに貢献を果たした。

が、翌88年は打率.207と成績が急降下、
父も開幕からわずか数試合で監督を解任させられてしまい、
ビリーとしては、喜ばしくないシーズンとなってしまった。

その後もレギュラー二塁手としてプレーしたビリー。
高い守備率を誇る堅実さに加え、
カルとの息の合った連携プレーにも磨きがかかり、
守備面では文句無しの働きを見せたが、
打つ方は、打率.291をマークした90年以外はパッとせず、
93年、レンジャーズへ移籍。
新天地での新たなスタートとなったが、
レギュラーに定着する事は適わず、
98年、タイガースを最後に現役を引退。

通算674安打、20本塁打、打率.247。

「兄のような選手にはなれない....と人は僕によく言うが、
 きっと皆、僕の事を身の程知らずだと思ってるんだね。
 自分と兄の違いは自分が一番よく知ってるよ。
 兄はスーパースターで、僕はそうではないけれど、
 良い選手を目指している....という点では変わらない筈だよ」

現在はラジオのキャスター等をこなしながら、
兄カルと共に、マイナー球団の運営に携わっている。

file .233 Pete REISER 【ピート・ライザー】

2007-12-28 | PQR
【悲運の激突男】
Pete REISER

名将レオ・ドローチャーは言った。
「ウィリー・メイズには全てが備わっている。ピート・ライザーには運だけが欠けていた。」

セントルイス生まれのライザーは、1940年、
21歳の若さでブルックリン・ドジャースの外野手としてデビュー。

2年目の41年、打率.343、14本塁打、76打点の好成績で
首位打者に輝き、チームのリーグ優勝に貢献。
MVP投票でも2位に付け、オールスターにも出場するなど
最高の一年を送った。
素質の塊のようなライザーには輝けるスーパースターへの道が
開かれているように見えた。

42年、外野への飛球を追ってフェンスに激突。
担架で運び出されると、2日間意識不明の状態となる。
間もなく戦列に復帰するも、.383あった打率は最終的に.310へ下降、
それでも64打点、20盗塁(リーグトップ)をマークするなど、
オールラウンドな活躍ぶり。
2年連続のオールスター出場にMVP投票6位....と
前年に劣らぬプレーを見せた。

その後、3年間の兵役を経て
46年にチームに復帰。
打率こそ.277と大幅に下げたが、
11本塁打、73打点...とクラッチヒッターぶりを見せつけ、
34盗塁で2度目の盗塁王に輝いた。

が、「迷うな」がスローガンだったというライザーは、
度々、守備中のハッスルプレーが災いして怪我を連発。
47年には、やはりフェンスに激突し、シーズン途中で戦列を離れるハメに.....。

結局、この時の怪我の影響からか、
48年以降は、往年の輝きを取り戻す事無く、
ブレーブス~パイレーツ~インディアンズとチームを渡り歩いたが、
レギュラーに定着する事は出来ずに終わってしまった。
52年現役を引退。

通算786安打、58本塁打、87盗塁、打率.295。
10年の選手生活で100試合以上出場は4度、
余りある才能を持ちながら、それをフルに発揮する事は適わなかった。

守備中に担架で運び出された回数は
キャリアで11回にものぼる。
恐らく不滅のメジャー記録なのではないだろうか???

file .232 Jesse OROSCO 【ジェシー・オロスコ】

2007-12-18 | MNO
【馬車馬】
Jesse OROSCO

史上最多の1252試合に登板、
24年間投げ続け、8チームを渡り歩いた息の長いリリーフ投手。

オロスコは78年ツインズにドラフト2位入団するが、
デビューは79年のメッツであった。

メジャーに完全に定着したのは82年。
この年54試合に登板し防御率2.72、
4勝をあげるも10敗を喫してしまい、
イマイチ信頼感に欠く内容となってしまった。

が、83年に62試合、防御率1.47、13勝/17セーブと
素晴らしい成績をマークすると、
翌84年は60試合、防御率2.59、10勝/31セーブ。
チームの信頼を得るに至った。

左腕から繰り出されるムーブするストレートとシンカーを駆使し打者を翻弄。
83年以降は引退するまで全てリリーフ登板であった。

86年は58試合、防御率2.33、8勝/21セーブで
チームの地区優勝に貢献。
プレーオフ/ワールドシリーズでも、8試合に登板し
3勝2セーブを記録するなど、メッツの2度目の世界一に大きな役割を果たした。

88年、ドジャースへトレードされると
55試合、防御率2.72、3勝/9セーブをマーク、
自身2度目の世界一の美酒に酔いしれた。

89年、インディアンズへFA移籍、
その後もブルワーズやオリオールズ等で
セットアッパーとして活躍。
目立たないながらも、安定感のある働きを見せ、
95年~99年は5年連続で60試合以上登板。
40歳になった97年は、キャリアハイの71試合、防御率2.32、6勝をマーク.....と
見事なまでの馬車馬ぶりを発揮した。

2003年、現役を引退。
通算防御率3.16、87勝、144セーブ。
1970年代~2000年代...と4ディケードを黙々と投げ抜いた、
メジャー史上屈指の仕事人投手である。

file .231 David CLYDE 【デビッド・クライド】

2007-11-29 | DEF
【phenom】
David CLYDE


デビッド・クライドは、
ヒューストンのウェストチェスター高校時代、
148イニングを投げ、自責点3、通算18勝0敗....という
驚異的な投球を見せ、全国的な大旋風を巻き起こした。

ファンやマスコミはクライドを『phenom(天才)』と呼び、
騒ぎ立て、新たなスター誕生に大きな期待を寄せた。

1973年、レンジャーズにドラフト1位指名されたクライド。
当時としては破格の125,000ドルの契約金が支払われ、
晴れてクライドは、プロ野球選手として
その一歩を踏み出した。

話題騒然の黄金ルーキーの登板は金になる....。
チームのオーナー、ボブ・ショートは、
プロ入りしたての18歳を、
即刻メジャーで投げさせる事を指示。

かくして、この年の6月、
デビッド・クライドは、ツインズ戦で
早くもプロ初先発。
5回を1安打8三振、2失点で切り抜け、
あのジム・カットに投げ勝ち、
『phenom』の名にふさわしい
鮮烈なメジャーデビューを飾る。

また、この日は、チーム創立以来最高の観客動員数を記録したという。

.......が、この早すぎるデビューがクライドに悪夢をもたらす事になる。
ろくな準備期間も無くメジャーで登板したクライドは、
その大きすぎる期待に充分に応える事は出来なかった。
デビューイヤーは防御率5.01、4勝8敗。
翌74年も防御率4.38、3勝9敗.....と
無惨な成績に終わったクライドは、
75~77年の3年間、利き腕の故障で、
たった1試合にしか登板出来なかった。

78年、インディアンズにトレード移籍。
防御率4.28、8勝11敗...とまずますの数字をマークするが、
翌79年は故障が再発し防御率5.91、3勝4敗。
その後も登板を果たす事は出来ず、
1981年、26歳の若さで現役を引退した。

通算18勝33敗、防御率4.63。

数年をかけて、マイナーでじっくりステップアップする事が出来ていれば........。

「初登板の時は、18歳の高校生に『開胸手術をしろ』...と言われた気分だったよ。」
後にクライドは語った。

file .230 Tony FERNANDEZ 【トニー・フェルナンデス】

2007-11-23 | DEF
【ドミニカが生んだ名手】
Tony FERNANDEZ

ドミニカ生まれのフェルナンデスは、
83年、ブルージェイズでメジャーデビュー。
着実に力を付け、85年に161試合に出場し
ショートのレギュラーの座を獲得する。

広い守備範囲と、美しくしなやかな動きで魅せる守備は絶品、
当時を代表する名手の一人として名を馳せ、
86年~89年まで、4年連続のゴールドグラブを受賞した。

86年、打率.310、10本塁打、65打点、25盗塁
87年、打率.322、5本塁打、67打点、32盗塁....と
打撃、走塁面でも非凡な才能を見せつけたフェルナンデスは
攻守に渡ってチームを牽引。
ブルージェイズを2度の地区優勝に導いた。

91年、ロベルト・アロマー、ジョー・カーター、フレッド・マグリフを含む
大型トレードでパドレスに移籍。

93年、メッツを経て、シーズン途中でブルージェイズに復帰、
古巣で打率.306、4本塁打、50打点、15盗塁と活躍。
チームのリーグ優勝に大きく貢献すると、
フィリーズとのワールドシリーズでも打率.333、9打点と大暴れ。
ブルージェイズを2度目の世界一に導く活躍を見せた。

以降は、毎年のようにチームを変え、
ヤンキースや、インディアンズで活躍。

98年に三たびブルージェイズに復帰すると
打率.321、9本塁打、72打点。
9年間到達していなかった打率3割をクリア。
99年も、打率.328、6本塁打、75打点.....と
巧打と勝負強さを見せつけた。

2000年、その巧打をかわれ、
日本のライオンズに入団。
打率.327、11本塁打、74打点と、
看板通りの打撃を披露した。

2001年、ブルワーズ、ブルージェイズの2球団で
打率.293をマークするも、この年限りで現役を引退。
背番号『1』は、ブルージェイズの永久欠番となった。

通算2276安打、92本塁打、844打点、246盗塁、打率288。

同年代に活躍したオジー・スミスの陰に隠れがちではあるが、
メジャー史にその名を残す、屈指の名遊撃手であった。

file .229 Ted WILLIAMS 02【テッド・ウィリアムス02】

2007-11-18 | ted williams
【The Splendid Splinter】
Ted WILLIAMS

メジャー史上、屈指の打者テッド・ウィリアムス。
そのデビューは1939年。
若干20歳のウィリアムスは打率.327、31本塁打、145打点という
驚異的な成績を残し、
華々しくルーキーイヤーを飾った。

翌40年も打率.344、43本塁打と活躍したウィリアムスは、
41年、打率.406、37本塁打、120打点と、
打率四割を記録。
さらに打率、本塁打の二冠王に輝き、
その天才ぶりをまざまざと見せつけた。

さらに42年は、打率.356、36本塁打、137打点で今度は三冠王を達成。
まさに唯我独尊の活躍で、23歳にして、
球界の頂点に達する存在となった。

その圧倒的な存在感は、当然相手チームの脅威となり、
インディアンズのルー・ブードロー青年監督なぞは、
野手を極端に右に寄せる、対ウィリアムス用シフトを決行。
プルヒッターのウィリアムスの打球を
全て凡打に変えようという作戦であったが
ほとんど効き目は無かったと言われている。

43~45年は兵役で全くプレー出来なかったウィリアムスだが、
46年に復帰すると打率.342、38本塁打、123打点と、
ブランクを感じさせない打撃を披露し、シーズンMVPを獲得。
47年には、打率.343、32本塁打、114打点で
自身二度目の三冠王に輝いている。

その後も圧倒的なスラッガーぶりで
チームの主力をはったウィリアムス、
30台を迎えた49年に、打率.343、43本塁打、159打点をたたき出し、
本塁打、打点の二冠を獲得し二度目のシーズンMVPに輝くなど、
その勢いは止まる事を知らなかった。

52~53年、ウィリアムスは、再び戦争にかり出される事となる。
これで都合5年間のキャリアを兵役で失う事になったわけだが、
この空白の5年間が無ければ、ウィリアムスはどこまで
その数字を伸ばしただろうか.........。

53年、シーズン途中に球界に舞い戻ったウィリアムス。
翌54年、打率.345、29本塁打と、
やはりブランクを感じさせない打撃を見せ、ファンを安堵させた。
57年、打率.388。
58年、打率.328...と二年連続で首位打者に輝き、
相変わらずの打撃の神様ぶりを披露したウィリアムス。
40歳になった59年は打率.254、10本塁打、43打点、
さしもの神様にも黄昏時が近付いている事を感じさせたが、
60年、打率.316、29本塁打、72打点と意地を見せ、
この年限りで有終の現役引退と相成った。

引退後は趣味の釣りに興じたり、
のんびりと過ごしていたが、69年、セナターズの監督に就任。
72年、チームがテキサス・レンジャースに変わるまで
4年間、指揮を司ったが、最高位が、69年の4位....と
こちらでは現役時ほどの華々しい結果を出せずに終わった。

1966年、野球殿堂入りを果たし、
2002年、この世を去った。

死後、遺体の冷凍保存を望む長男と、火葬を望む長女の間で
骨肉の争いがおこなわれ、裁判の判決に従って、
頭部だけを冷凍保存し、
胴体から下を火葬する...という
ウィリアムスにとっては、
安らかに眠れないような状況が続いている。

通算2654安打、521本塁打、1839打点、打率.344、
2019四球、出塁率.482。

不世出の大打者であった。

file .227 Chris CHAMBLISS 【クリス・チャンブリス】

2007-11-17 | ABC
【歓喜のホームイン】
Chris CHAMBLISS

1970年、インディアンズと契約を交わしたチャンブリスは、
マイナーで首位打者を獲得し、早くも頭角を表す。
71年にメジャーデビューを果たすと、111試合で打率.275、9本塁打、48打点と
まずまずの成績を残し、新人王を獲得。
一塁のレギュラーの座を掴み取る。

74年シーズン途中でヤンキースへ移籍すると、
75年、打率.304、9本塁打、72打点と好打ぶりを発揮。
76年には打率.293、17本塁打、96打点で、シーズンMVP投票でも5位にランクイン、
オールスター出場も果たした。

また、この年はプレーオフでも大活躍、
リーグ優勝をかけたロイヤルズとの対戦では、
5試合で打率.524、2本塁打、8打点の大爆発。
第5戦では、劇的なサヨナラ本塁打を放ち、
スタンドになだれこんだファンに、もみくちゃにされながら歓喜のホームイン。
チームを、実に12年ぶりのリーグ優勝に導いた。

レッズとのワールドシリーズでは0勝4敗と惨敗したが
チャンブリス自身は好調を維持、打率.313をマークした。

その後もヤンキースの主力打者の一人として
勝負強い打撃を披露するチャンブリス。
打率.287、17本塁打、90打点を打った77年も、リーグ優勝に貢献。
ドジャースと戦ったワールドシリーズでは、
優勝を決めた第6戦で殊勲の同点本塁打。
ヤンクスの世界一に大きな役割を果たした。

78年も打率.274、12本塁打、90打点で
チームを2年連続の世界一に導いたチャンブリス。
80年からはブレーブスへ移籍し、
82年に打率.270、20本塁打、86打点でチームの地区優勝に貢献するなど
相変わらずのクラッチヒッターぶりを披露。

86年に代打のスペシャリストとして
打率.311、2本塁打、14打点をマークするも
この年限りで現役を引退した。

通算2109安打、185本塁打、打率.279。

殿堂クラスの大選手では無いが、玄人好みの渋い魅力が光る名選手である。

file .226 Nolan RYAN 01【ノーラン・ライアン01】

2007-11-16 | nolan ryan
【デビュー/メッツ時代】
Nolan RYAN

生粋のテキサスっ子、ライアン。
家計を助けるべく、13~14歳の頃には、
車を駆り、新聞配達のアルバイトに勤しみ、
一方で、牛を育てて売り、高校生の時分には、学校で野球をプレーする傍らで、
既に自分の牧場まで存在していた。

18歳になったライアンは、メッツから指名を受け入団。
10巡目での指名であった。

マイナーで着実に実績を積み、66年、AAAを経ずにメジャーデビュー。
が、時期尚早だったか、2試合に登板し防御率15.00という散々な成績に終わった。

67年はメジャーで投げる事は無く、
さらに肩の故障でまともに登板する事も出来ない........。
兵役とリハビリに明け暮れる一年となってしまったが、
シーズンオフ、ライアンはリハビリも兼ねてウィンターリーグに参加、
徐々に自身の投球を取り戻していく......。

68年、本格的にメジャーデビューを果たし、21試合で、6勝9敗、防御率3.09。
134イニングで133三振を奪うなど、大きくステップアップしたが、
手のマメが完治しないのと、兵役の所為で、
ローテーションに食い込む事は出来ず、
年齢も近く、仲の良かったトム・シーバーに大きく遅れを取る事となった。

ミラクル・メッツ......。
1969年、弱小球団メッツは奇跡の逆転優勝を成し遂げ、
ワールド・シリーズでも強豪・オリオールズを破り、
ニューヨーク及び、メジャーリーグを大いに盛り上げた。
シーバー、ジェリー・クースマン、タグ・マグローら、
強力な投手陣の中、ライアンも25試合に登板、6勝3敗、防御率3.54と
まずまずの投球を見せ、優勝に貢献するが、監督の信頼を完全に得るには至らず、
先発登板は、10試合にとどまった。

が、ブレーブスとのプレーオフ、第3戦。
先発のゲーリー・ジェントリーが3回途中でKOされると
ブルペンにいたライアンに声がかかる。
ライアンは期待に応え、7回を2失点。
打線の援護もあり、見事、勝利投手となり、優勝の美酒に酔いしれた。

オリオールズとのワールド・シリーズでは、
第3戦、またもジェントリーの後を受け、リリーフ登板。
中堅手トミー・エイジーの好守にも助けられ、
2回1/3を1安打に抑える好投を披露、1セーブを記録した。
シリーズでの登板はこの1試合のみであったが、
プロ入り3年目にしてチャンピオン・リングを手中におさめた。

その後、70~71年と
ライアンはメッツで投げ続け、そこそこの成績をおさめるものの、
才能の開花には至らず、71年オフにカリフォルニア・エンゼルスへトレードの運びとなった。

テキサスの田舎者…ライアンは、NYでの生活になじむ事が出来なかった。
69年の世界一の時も、オフのセレモニーなどにはほとんど参加せず、
逃げるように、故郷のヒューストンはアルヴィンに帰郷している。
何処へ行っても、注目され人の多い都会の生活にペースを乱され、
ピッチングに集中する事が出来なかった。
ライアンのエンゼルスへのトレードは、
『球団史上最悪のトレード』と言われているが、
これは、実はライアン自身が首脳陣に直訴したものであった。

未だその大輪を咲かす事の出来ないライアン。
そんなライアンを、暖かいカリフォルニア......そして未知のアメリカン・リーグが待ち受けていた。

file .225 Kevin Mitchell【ケビン・ミッチェル】

2007-11-13 | MNO
【悪童】
Kevin MITCHELL

街のギャング団から足を洗うため野球を始めたミッチェル。
ギャング時代は3発もの銃弾を浴びた事があるというから凄まじい。
ともあれ、更正手段として始めた野球で
その才能を開花させたのである。

86年、メッツでメジャーデビューを果たしたミッチェルは、
この年、打率.277、12本塁打、43打点、
新人王投票で上位にランクされる活躍を見せる。

また、有名なレッドソックスとのワールドシリーズでは、
第6戦、ビル・バックナーの、あのエラーを生んだ10回裏の攻撃に
代打で打席に立ち、2死1塁の状況でセンター前ヒット。
同点のホームを踏み、奇跡の大逆転を生む一翼を担った。

翌87年、トレードでパドレスとジャイアンツでプレー、
2チーム合計で22本塁打、70打点と成績を向上させた。
また、内野手だったミッチェルだが、
ジャイアンツ時代の89年、外野手に転向。
ウィリー・メイズに直接守備の指導を受け、
子供のような嬉々とした表情を見せた。

そしてこの年、ミッチェルは大爆発。
打率.292、47本塁打、125打点の好成績で、
リーグ優勝に貢献。シーズンMVPの栄冠に輝いた。

その後も、チームの中心打者として活躍したミッチェル。
92年はマリナーズ、93年からはレッズとチームを変わったが、
その活躍の裏では悪童ぶりをフルスロットルに発揮。
仮病による欠場や無断早退、チームメイトとの喧嘩騒動をはじめ、
私生活でも恋人にたいする暴行や、
あげくの果てには、その恋人の愛猫を惨殺するなどの悪行三昧。
さらに、金銭トラブルで自分の父親さえもブン殴り、周囲を騒然とさせた。
92~94年は、出場試合数も3年連続で100試合を切るのだが、
この3年間、93年の.341を皮切りに、全ての年で打率.310以上をマーク。
94年は、打率.326に加え、30本塁打を放つなど、
試合に出れさえすれば、その実力をまざまざと見せつけたのであった。

95年、ストの影響からか日本のホークスに入団。
必殺技のワガママ/仮病を繰り出し、『看板通りの活躍』を披露して帰国。
96年、レッドソックスでメジャーに復帰するが、
オーバーウェイトとそれに起因する故障禍には勝てず、
98年、アスレチックスで現役を引退した。

通算1173安打、234打点、打率.284。
自己管理と真摯な姿勢さえ保ち続ければ........。

話を前に戻して、86年のワールド・シリーズ。
10回裏、代打に指名されたミッチェルだが、
その時すでに、敗戦を確信し、
クラブハウスで帰りの支度をしていたのだという。
メジャー2年目にして既に『早退病』が発病していたのだ。


file .224 Vince COLEMAN【ヴィンス・コールマン】

2007-11-12 | ABC
【ジャッキーなんて知らねえ】
Vince COLEMAN

メジャー史上、屈指の快速プレーヤー。
82年、カージナルスと契約すると、
マイナーリーグで、その快速ぶりを発揮。
85年にメジャーに昇格する。
するとこの年、いきなり打率.267、110盗塁をマークしブレーク。
31盗塁のトム・ハー、オジー・スミス、56盗塁のウィリー・マギー、
34盗塁のアンディ・ヴァンスライクらと共に脅威のスピード野球を展開した。

86年も107盗塁を決め、
結局、87年の109盗塁まで3年連続で100盗塁以上をマーク。
その存在感をまざまざと見せつけた。

88年は81、89年は65と、
数こそ減りはしたものの、相変わらずの快速で飛ばすコールマン、
90年は、77盗塁(打率.292)を記録し、
デビューから6年連続の盗塁王を獲得、
上達を見せない守備はともかくとして
打撃面では成長ぶりを見せつつあり、
いよいよ、プレーヤーとして脂が乗ってくると思われた.........。

91年FAでメッツに移籍すると、
コールマンのキャリアに暗雲が立ちこめてくる.........。
新球団で颯爽と、そのスピードを披露する筈が、
故障に苦しみ、出場試合数は激減。
ファンを失望させると、今度は取材の場で、
『俺はジャッキー・ロビンソンの事なんか何も知らねえ』と発言。
ファンを唖然とさせた。
『彼がジャッキーの事を勉強すれば、
 件の発言と自分の無知さに困惑する事になるでしょう』
とは、ジャッキー夫人であるレイチェルの弁。

さらに、クラブハウスでゴルフクラブを振り回し、
ドワイト・グッデンの腕を負傷させ、
ドジャー・スタジアムの駐車場では、
大勢のファンに爆竹を投げ込むという愚行を犯してしまう。
(子供を含む数名が火傷を負う事態に....)

メッツは、コールマンに出場停止処分を課し、
93年オフにはロイヤルズへトレード放出。
94年は104試合に出場し50盗塁、
95年はロイヤルズとマリナーズで合計42盗塁をマークするなど
脚力に申し分は無かったが、
96年、レッズでの33試合、打率.155を経て
97年、タイガースで現役生活を終えた。

通算1425安打、752盗塁、打率.264。

余談だが、ルーキーイヤーの85年、
コールマンは練習中にグラウンドの雨天カバーに足を巻き込まれ負傷し
ワールドシリーズを欠場する....という空前絶後の間抜けエピソードの持ち主でもある。

file .223 Darryl STRAWBERRY【ダリル・ストロベリー】

2007-11-11 | STU
【セックス、ドラッグ&ベースボール】
Darryl STRAWBERRY

高校時代から、エリック・デイヴィスらと共に、
その名がとどろいていたストロベリーは、
1980年、メッツから1位指名を受け、プロ入りを果たす。

83年、21歳でメジャーデビュー。
打率.257、26本塁打、74打点をマークし、
堂々、新人王を獲得、大器の片鱗をおおいに見せつける。

足を高くあげた構えから、
しなやかなスイングでボールをスタンドに叩き込むーーー
この、線の細いニュー・ヒーローは同時期にデビューした投手のドワイト・グッデンと共に
メッツの明るい未来を感じさせるニュー・ヒーローであった。

その後も、看板通りの活躍を続け、
86年には、27本塁打、93打点、28盗塁の活躍を見せ、
チームのリーグ優勝及び、WS制覇に大きく貢献。
84年~91年まで8年連続でオールスターに出場し、
名実共に、球界のスーパースターの一員となった。

87年、打率.284、39本塁打、104打点、36盗塁、
大きく打撃成績を飛躍させ、30/30も達成。
88年は打率.269、39本塁打、101打点で本塁打王を獲得し、
91年にはFA権を取得し、生まれ故郷のLAはドジャースに移籍。
5年で約2000万ドルの契約を結ぶなど、
順風満帆なキャリアを送っていたストロベリー。

......が、その実、見えないところでは、私生活でのトラブルが絶えず、
その体は麻薬・アルコールに蝕まれていた。

ドジャース1年目の91年こそ、27本塁打、99打点をたたき出すが、
翌92年からは、故障もあってか、全く別人のような平均以下の選手に成り下がり、
まともに出場すらままならない状況。
93年にドジャースを解雇され、
94年はジャイアンツでプレーするも、やはり、まったく奮わず
終いには、コカイン使用が発覚し出場停止及び、
解雇の憂き目に遭ってしまう。

95年、独立リーグでプレーしているところをヤンキースに拾われ、
96年には63試合の出場で11本塁打、チームのリーグ優勝に貢献すると
ポストシーズンでも大活躍、キャリアで2個目のチャンピオン・リングを
指にはめる事が出来た。

98年には24本塁打するも大腸ガンが見つかり、手術。
99年、コカインの使用により出場停止をくらい、
そのまま現役を引退した。

妻や、恋人への暴行、大好物のコカイン摂取、交通違反、大規模な脱税..........。
刑務所やリハビリセンターを第二の家とし、度重なる脱走。
あらゆるトラブルを巻き起こしたストロベリーだが、
実は、チャンピオンリングを3個も所有している。

また、スポーツ・イラストレイテッド誌の表紙を7度も飾るなど、
絶頂期の人気はやはり絶大だったが、
引退後は、アニメのシンプソンズファミリーに出演(?)したり、
ネバーランドで行われたマイケル・ジャクソン主催のパーティーに参加したり、
違った意味での人気ぶりを発揮した。

20世紀を迎えたここ数年も、
トラブルメーカーぶりを発揮しているが、
キリが無いので省略。

通算1401安打、335本塁打、1000打点、221盗塁。
意外に選球眼が良く、通算打率.259に対して、出塁率は.357と悪く無い。

人生の選球眼は.....悪い。

file .222 Andre THORNTON 【アンドレ・ソーントン】

2007-10-25 | STU
【thunder】
Andre THORNTON 

1973年、カブスで一塁手として
メジャーデビューを果たしたソーントン。
3年目の75年には、打率.293、18本塁打、
さらに88四球を選び、出塁率.428をマーク。
その才能を開花させた。

76年は、シーズン途中でエクスポズにトレードされた上に
打撃も不調に終わったソーントン。
が、ソーントンは77年に移籍したインディアンズで
再び輝きを取り戻す。
打率.263、28本塁打、70打点をマーク。
相変わらずの選球眼で70四球を選び出塁率は.378。
貧打のチームを支える活躍を見せた。

この年のオフ、ソーントンは最悪の悲劇に見舞われる。
自身が運転する自動車で事故に巻き込まれ、
最愛の妻と娘を失ってしまう。
悲しみにくれるソーントンだったが、
信仰と野球への情熱でそれを乗り越え、
78年、打率.262、33本塁打、105打点をマーク。
それまでで最高の成績をおさめ、天国の母娘に捧げた。

また、この頃から奉仕活動に力を入れはじめ、
「プロ運動家社会奉仕委員会」のメンバーとして
精力的に活動を牽引。
79年にはロベルト・クレメンテ賞を受賞した。

80年、ソーントンを今度は、膝の故障というアクシデントが襲う。
この年は1年まるまる全休するも、81年シーズン途中で復帰し。
82年は打率.273、32本塁打、116打点と華麗に復活。
カムバック賞やハッチ賞を受賞。
変わらぬ、強靭な精神力を見せつけた。

その後もインディアンズの主力打者として活躍。
1987年に現役を引退した。
通算253本塁打、895打点。
通算打率は.254だが、抜群の選球眼で出塁率は.360を誇る。

引退後もクリーブランドに住み続け、
事業家として成功をおさめる傍ら、
奉仕活動にも携わり続けている。