35願
(漢文訳)
たとい、われ仏となるをえんとき、十方の無量・不可思議の諸仏世界、それ、女人ありて、わが名字を聞き、歓喜信楽し、菩提心を発し、女身を厭悪せん。(その人)寿終わり手てのち、また女像とならば、正覚をタ取らじ。
(梵語訳)
世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、あまねく十方の無量・無数・不可思議・無比・無限量の諸仏国土にいる女人たちが、わたくしの名前を聞いて、きよく澄んだ心を生じ、覚りに向かう心をおこし、女人の身を厭うたとして、(その女人たちが)(この世での)生を脱してから再び女人の身を受けるようなことが有ったら、その間はわたくしは<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように
この願文は変成男子の願と言われ女性が一旦男性の身になって、往生から成仏すると言われるが、願文では男性の身になって往生するとは言ってない(通俗的な変成男子の理解とは異なる)
法然上人は女人往生の願と呼ぶ(原意に近い)=女性が女性のままで浄土に往生できる、そこで修行して覚りを得てのち成仏する・・・中国での翻訳段階において、ここに変成男子の考え方が混入した
親鸞聖人は女人成仏の願と呼ぶ=親鸞は、往生即成仏。念仏の衆生は (中略) 臨終一念の夕、 大般涅槃を超証す」 とあるように、 現生の命を終えるとすぐ、 阿弥陀仏の浄土に往生し、 ただちに仏となる(私とか男とか女とかは無い)と考えるのであるから、女性が男性の身になる事(時間・・・笑)は無い。
18願で全ての衆生を救うと述べているのに、何故35願をわざわざ設けているのか
・・・・・男女の差別無く救われると言っても、女性が従属視され差別されている社会では、「女性が本当に救われるのか」「いや、女性はすくわれないだろう」簡単に信じられない、人々の疑いとして生ずる、そうなれば「女性も救われるのです」と言わざるを得ないのが宗教のことばなのである。それで別願を設けた
女性であるから覚れないという考えは釈尊には無い
変成男子と言う呼び方は確かに差別性があるが、親鸞は浄土和讃に「女人成仏ちかいたり」と述べられていて変成男子の考え方は無かったと思われる
「その言葉」に差別性が有るのか、無いのかどう判断したらよいのか
差別や格差が存在する、あるいはその差別性が通念となっている社会では
どんなに「人間は本来平等である、男も女もそれぞれの役割を果たしているのですから」と言ってもそれは無意味な言葉となる
言葉としては問題ないかもしれないが、社会に働く時にはむしろ差別を助長、肯定として働く危険性もある
であるから、宗教は現場々々で優れた表現を生むべきであって、その際に差別的な表現を生むこともあって(紙一重ですから)、それは大きな問題ではあるが、優れた宗教者はそのきわどい所で発言していって、差別を受けている人の力になるような言葉を生み出していった。
蓮如上人の五障三従の御文について、
五障三従が社会常識で無い時代に五障三従と言ったなら、これがものの例えだったとしても、差別表現になる
これがみんなの通念としてある時代では、五障三従と言われる女性がどうしたら救われていくのか・・・ということになれば、差別では無いのではないか
ですから、五障三従の御文の内容が良い悪いの判断ではなく
2009年の自分が、門徒さんの前で御文を上げる責任を考えるべき
by N野先生
以上、
なんとか、前半の変成男子の願、女人成仏の願についてダラダラとまとめてみました
一般的な浄土往生と、親鸞聖人の往生即成仏の違いがはっきりしたことで(今更ですが)自分のなかで「変成男子」否定の根拠ができたような気がします
せっかく大経を学んでいるのですから「浄土和讃」もあわせて読んでみましょう
後半は行者宿報偈についてです
これがまた、内容盛りだくさんです
明日は忘年会と柔道場の餅つき&大掃除があるので
まだアップには時間がかかるかも
若坊守会の新年会が決まりました
1月8日です♪また、連絡まわしま~す
(漢文訳)
たとい、われ仏となるをえんとき、十方の無量・不可思議の諸仏世界、それ、女人ありて、わが名字を聞き、歓喜信楽し、菩提心を発し、女身を厭悪せん。(その人)寿終わり手てのち、また女像とならば、正覚をタ取らじ。
(梵語訳)
世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、あまねく十方の無量・無数・不可思議・無比・無限量の諸仏国土にいる女人たちが、わたくしの名前を聞いて、きよく澄んだ心を生じ、覚りに向かう心をおこし、女人の身を厭うたとして、(その女人たちが)(この世での)生を脱してから再び女人の身を受けるようなことが有ったら、その間はわたくしは<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように
この願文は変成男子の願と言われ女性が一旦男性の身になって、往生から成仏すると言われるが、願文では男性の身になって往生するとは言ってない(通俗的な変成男子の理解とは異なる)
法然上人は女人往生の願と呼ぶ(原意に近い)=女性が女性のままで浄土に往生できる、そこで修行して覚りを得てのち成仏する・・・中国での翻訳段階において、ここに変成男子の考え方が混入した
親鸞聖人は女人成仏の願と呼ぶ=親鸞は、往生即成仏。念仏の衆生は (中略) 臨終一念の夕、 大般涅槃を超証す」 とあるように、 現生の命を終えるとすぐ、 阿弥陀仏の浄土に往生し、 ただちに仏となる(私とか男とか女とかは無い)と考えるのであるから、女性が男性の身になる事(時間・・・笑)は無い。
18願で全ての衆生を救うと述べているのに、何故35願をわざわざ設けているのか
・・・・・男女の差別無く救われると言っても、女性が従属視され差別されている社会では、「女性が本当に救われるのか」「いや、女性はすくわれないだろう」簡単に信じられない、人々の疑いとして生ずる、そうなれば「女性も救われるのです」と言わざるを得ないのが宗教のことばなのである。それで別願を設けた
女性であるから覚れないという考えは釈尊には無い
変成男子と言う呼び方は確かに差別性があるが、親鸞は浄土和讃に「女人成仏ちかいたり」と述べられていて変成男子の考え方は無かったと思われる
「その言葉」に差別性が有るのか、無いのかどう判断したらよいのか
差別や格差が存在する、あるいはその差別性が通念となっている社会では
どんなに「人間は本来平等である、男も女もそれぞれの役割を果たしているのですから」と言ってもそれは無意味な言葉となる
言葉としては問題ないかもしれないが、社会に働く時にはむしろ差別を助長、肯定として働く危険性もある
であるから、宗教は現場々々で優れた表現を生むべきであって、その際に差別的な表現を生むこともあって(紙一重ですから)、それは大きな問題ではあるが、優れた宗教者はそのきわどい所で発言していって、差別を受けている人の力になるような言葉を生み出していった。
蓮如上人の五障三従の御文について、
五障三従が社会常識で無い時代に五障三従と言ったなら、これがものの例えだったとしても、差別表現になる
これがみんなの通念としてある時代では、五障三従と言われる女性がどうしたら救われていくのか・・・ということになれば、差別では無いのではないか
ですから、五障三従の御文の内容が良い悪いの判断ではなく
2009年の自分が、門徒さんの前で御文を上げる責任を考えるべき
by N野先生
以上、
なんとか、前半の変成男子の願、女人成仏の願についてダラダラとまとめてみました
一般的な浄土往生と、親鸞聖人の往生即成仏の違いがはっきりしたことで(今更ですが)自分のなかで「変成男子」否定の根拠ができたような気がします
せっかく大経を学んでいるのですから「浄土和讃」もあわせて読んでみましょう
後半は行者宿報偈についてです
これがまた、内容盛りだくさんです
明日は忘年会と柔道場の餅つき&大掃除があるので
まだアップには時間がかかるかも
若坊守会の新年会が決まりました
1月8日です♪また、連絡まわしま~す
今、わたし達がどう判断するかというのはとても大切なんですよね
そして一度「これで良し」と判断して、実現したことでも、再び時代や状況によっては、変えざるを得ないこともあると思います。
そういうことに鈍感になってはいけないのですね
儀式を執行するものとしての責任だと思います
蓑輪先生
御文についてですね
今、現代における性差別に関して、御文がどういう役割を持っているのか、精査されるべきなのですが、本山は動きませんね。
儀式を盾にとって。
ですから、あちこちで声を上げるしかないと思います。
2月19日に蓑輪先生をお呼びして研修会を開きます。