第14回「大経の会」
以下のようにご案内申し上げます。繰り合わせてご参加ください
日時 3月13日 10時~15時
会所 当山
テキスト 「浄土三部経(上)」岩波文庫
前回は186p最後の行~189p1行目まで。「三輩の文」について学ぶ。普通の読み方をすれば、「人はその能力によって、功徳の積み方に差があり(上・中・下輩)、それに応じて、臨終来迎、浄土往生に差が生ずる。だからより上のランクの浄土往生を願い、仏を心に念じ、功徳を積みなさい」・・・となる。しかし、法然上人は選択集(第4章)の中で、大経の三輩の文には菩提心等その他諸行が述べられているのに、何故自分が一向専念無量寿仏(三輩共に念仏往生)だけを主張するのかを説明している。その故は「人の能力には差があるが、仏は能力の如何に関わらず、皆に、専ら無量寿仏の御名を称するように勧められた。そうすれば三輩のもの皆ことごとく往生する。すなわち念仏往生である。」(善導大師・観念法門より)と釈したことによる。更に、念仏と諸行との関係について、三輩の文に諸行が説かれる意を三つ挙げて、いずれも諸行を廃して念仏に帰せしめんがために諸行を説いていると説明している。選択集は言うたら一部のものに閲覧が許された過激な専修念仏の奥義。「諸行を捨てる」「菩提心等余行」と言うことで多くの敵を作る。他宗からの激しい非難、国家からの弾圧も受けた。私たちも念仏一つとは言っていても、ともすれば「菩提心の無い空念仏ではだめだ」とか「聞法もしない、人としても問題のあるあんな人が念仏を称えても・・・」等、自然にそういう思考方向になっている。だからこの法然の理論展開はやや強引で理解しがたい気がする。だが法然は、「全ての人が救われる」という命題のもとに、経典を柔軟に読みこなしてきっぱり選択を語る。判りにくいが、揺るぎが無い (講義・座談より)
お彼岸前、卒入学シーズンでお忙しいこととは存じますが
繰り合わせてご参加ください!