行者宿報設偈(女犯偈)
行者宿報設女犯 もし行者が宿報(前世の縁)で女犯(にょぼん))することがあろうとも
我成玉女身被犯 われ玉女の身となりて犯せられん
一生之間能荘厳 一生の間よく荘厳して
臨終引導生極楽 臨終に引導して極楽に生ぜしめん
この偈がどういう意味を持つのか
『親鸞』赤松俊彦
『親鸞の六角堂夢想の偈』名畑崇
らの解釈によると、親鸞の苦悩は性欲を中心とするもので、
親鸞が、菩薩のちかいに事寄せておのれの性欲の満足を果たし、妻帯、女犯を正当化したとする
こういう解説自体が女性差別的
あるいは男から見た一方的な視点だと思われるし
フロイト流の解釈に引き寄せすぎている(脇本平也)
その最たるものが、親鸞の妻帯に関する通説
(夢告は建仁3年で、親鸞は法然の命により妻帯したとする説)で
宗門では布教などで用いられ、
恵心尼文書の発見により夢告は建仁元年と確定され、この通説は否定されたが
その考え方は、現代でも通念として力を持っている
が、結婚というものの原点をそういうところに持っていくのは身勝手のようなきがする、そのようにこの偈文を読んでしまうと
「じゃあ結婚してもいいんだ」ということになってしまう
結婚しても良かろうが悪かろうが
結婚したければすれば良いのであって
女犯偈があるから、法然上人に言われたからしたんだということになっては、相手の女性からしてみたら問題のある発言
親鸞聖人は多分そんな風にはこれを読まなかったと思う
では、宗祖がこの偈文を大事にした意味はなんなのか
行者というのは単に修行僧というのではなくて
すでに源信の時代に在家の行者が存在した
資料 「往生要集」より
答ふ、行者に二あり。曰く、在家と出家となり。その在家の人は、家業自由にして、餐飯・衣服あり。なんぞ念仏を妨げんや。
観経にも行者という言葉が多出するがそのほとんどが修行僧という意味では無く
念仏を称える行者という意味
この偈文の行者も修行僧と読まずに、念仏行者は例え女犯という破戒行為があっても、臨終には極楽に導かれるという、一つの啓示だったのではないか
親鸞聖人は在家生活をなさったとはいえ、生涯僧服、僧形であった
僧侶にとって重い罪は女犯、
在家で重い罪とされたのは肉食(殺生)
これらは重罪の象徴であった
それほどの重い罪を犯しても念仏行者は救・・その功徳の大きさとして偈文を受けとめた
親鸞の個人的な性の悩みであれば
恵心尼や覚信尼が公に大事にするはずは無い
これは性欲、妻帯の許可ではなく、
親鸞が、罪悪も業報を感ずることあたわず、という念仏者として生きた象徴として、弟子たちも大事にした。
御伝鉦(覚如)
「此は是我が誓願なり、善信この誓願の旨趣を宣説して、一切群生にきかしむべし」と云々。・・・・・(中略)・・・・そのとき告命のごとく、此の文のこころを、かの山にあつまれる有情に対して、説ききかしめおわるとおぼえて、夢悟おわりぬと云々。つらつらこの記録をひらきて、かの夢想を案ずるに、ひとえに真宗繁昌の奇瑞、念仏弘興の表示なり。・・・・
覚如も単に結婚の許可とは思ってないということが読み取れる
by N野先生
行者宿報偈について
私的には覚如上人の「この誓願の旨趣を宣説して、一切群生にきかしむべし」というのが宗教的解釈のキーワードだったのですが
講義全般を通して、先生の親鸞聖人に対する深い愛と信服を感じました
私には決定的にここが欠けているのだわ・・・・多分
でもね
今回、座談の中で感動的な言葉にであったのです
「人間は、阿弥陀如来を信じきれなくて、疑ってばかりいるけど
阿弥陀如来は人間を完全に信頼している」
いつもこちらが信じるか信じれないか・・・ということを問題にしがちだけど
相手から無条件に絶対的に信頼されるという感動!
人間を私に、阿弥陀如来を○さんに置き換えてもな何か感ずるものがある
○さんを阿弥陀如来と置くかどうかは私の信仰の問題
何度も聴いているはずの言葉なんだけど
何故かいつもここで踏み留まっていた自分
・・・なんだけどこのときは頭でなくてハートに響いた
Y子ちゃんもそうだったらしい
その場に居たメンバー全員が宗教的な感動を覚えたと確信してます
おしまい