帰ろう、もとのいのちへ
大いなるいのち
つまり
大いなるいのちが分化して、種々に形を変え
その一つとしてわたしという人間の相をとっている
密教に言う、胎蔵界に酷似する
そして、それは悉有仏性に通じると考える
しかし、浄土真宗の教えに胎蔵界の考え方はないし
仏性はもともと内在するものとは考えない(賜る信心である)
であるから
胎蔵界的いのち感を想起させるこのテーマは適切ではない・・・・とN先生
S先生は、このテーマのいのちとは胎蔵界のようなものではなく
宗祖が人間というこの苦悩する群萌の衆生よ・・・・と呼びかけられたことを
自覚する・・・・・そういう事なのだといわれたが・・・・・
このテーマの言葉をそう言うふうに解釈する人はいないんじゃないか
・・・・とはN先生
私はこのテーマが出されたとき、
瞬間的に手塚治虫の火の鳥をイメージしたよ
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/face_nika.gif)
やっぱ胎蔵界的だよね
当世、信仰に関係なく、ちょっと流行ってる考え方だから
宗祖や教理に疎い私なんかには、
そういうふうに受け入れられる土壌が出来ていたのだと思う
一方、N先生は
浄土教で言う「無量寿」を
「無量」(はかりしれない)」、「寿」(いのち)として
先に述べたような、いのちの仏様にしてしまうのは間違いで
末法のこの時代にも、時間的な制約を受けない働きのことであると・・・
その一点をもって寿命無量仏であり、尊いのであると言われた
・・・・研修会聞き書き(何度もいうけど、曖昧、間違い、偏りはご容赦)
それにしても
テーマについては当初より、賛否両論あれこれあり
「テーマについて、このように談合がなされることがテーマの狙いのひとつであります」
と言われていたが
どうも、論議がかみ合っていない気がする
ま、私がわかってないだけなのかもしれないけど(それを言っちゃおしまいよ!?)
私、正解を求めすぎてる?
御遠忌をあと半年後に控え、テーマについて
当初の目論見どおり、論議は十分につくされたのだろうか
なされた議論に対して、テーマ発信者は責任を持って、応えてきたのか
そして、それは言葉の意味を広げたり、教理に私釈を加えたりせず
宗祖親鸞聖人に無事出会えるものであったのだろうか
・・・・・などと思いつつ
脳ミソがアルコールで痺れてきたので今日はこの辺で・・・・・
・・・・・もしかしたら続く