寺嫁な日々

嫁・妻・母・坊守として日々感じた事、大きな声じゃ言えない本音の所・・・お話しします

1月30日(水)のつぶやき

2013-01-31 01:40:04 | Weblog

最近、割と趣味が会う二人から「冬のソナタ」を薦められる。今更・・・って気もするし、もしかして万一はまったら半端なく時間を消費されるな・・・って思うし・・・。でも、どっちも「とにかく見てみて」としか言わない。ちょっと心揺れている


「これまでは仏道だけで真宗を考えていたようである。つまり助かる道(仏道)だけで真宗を考えて、助ける道(菩薩道)では考えなかった。助ける道と離れて助かるだけではエゴイズムである。真宗の説教がエゴイズムの満足となったのはこのためである。」

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究極の選択?からの落ち込み

2013-01-30 10:12:47 | ちょっと感じたこと

DVDを大人借りすると
一週間があっという間に過ぎる
「JIN-仁」も今日が返却日だよ・・・(*`ロ´ノ)ノ

 

で、昨日も深夜まで・・・・。

最終回
「野風」に乳癌の診断をつけ、治療すれば、自分の恋人がこの世から消えてしまう
その葛藤で悩む仁先生に竜馬が問う

「目の前で死にそうな我が子がいたとする。その子を助ければ
別のわが子が消えてしまう。それでも目の前の子を助けるか」

 

理屈で考えると
死にかけた子を助けるために、死ななくていい子を引き換えに殺すなんて出きないし
手を尽くしてもだめなら寿命として受け入れるしかないかな
・・・・・とか答えるけど
こういう「もしも」には答えたくない

そんで
ほんの一瞬!ホント一瞬だけど
私はわが子三人を比較してしまった
・・・・助けるならどの子・・・・・・・。
結果なんてもちろんでないけど、
何を選んだか・・の結果より、
何を持ってそれを選ぶのか・・・というのが問われるんだよね

一瞬でも比較してしまった・・・そんな自分に実は落ち込んでいる・・・・・・。


ありがとうございます!

2013-01-28 11:35:38 | 日々徒然

住職は膝の皮膚がアトピーっぽくて正座するのが苦痛
なので、お月忌の時は簡易イスを持ち歩いてる

ご門徒さんのお宅では
イスが置けるように、座布団をはずしてくださっていたり
イスを用意してくださってたりする

ところが
私は椅子に座ると腰が痛いので、正座がベスト

たまにいつも住職が参るお宅に伺うと
あわてて座蒲団を用意してくださる
手のかかるお寺でごめんなさい
でも、そうやって心配してくださる、

man to manの対応が嬉しいじゃないですか

ありがとうございます


1月27日(日)のつぶやき

2013-01-28 01:42:20 | Weblog

お待たせ!案内やっとできた!・・・還相回向・・・尻尾つかめたかなと思ったら、また逃げていく・・・難解・・・故に、この一言が登場するだけで、講義内容要約するのさえ手こずる(沈)。でもとりあえず完成!さてお参り言って来ます!ついでに投函してくる!


速攻風呂に入って、今夜は久しぶりに呑みながら録画&DVD祭り!



第13回 大経の会ご案内

2013-01-27 10:59:07 | 

第13回「大経の会」
以下のようにご案内申し上げます。繰り合わせてご参加ください

日時  2月5日 10時~15時
会所  当山
テキスト 「浄土三部経(上)」岩波文庫

 「念仏往生の願は一切条件を問わず全ての衆生を救うと誓われたのに、唯除の文『唯除五逆、誹謗正法』が置かれたのは何故か?」について学んだ。唯除の文を考えることは救われがたいものとは誰か、救われない心とはどういうものか、救われるとはどういうことかを問うこと。親鸞聖人のお考えは尊号真像銘文に簡潔に述べられている「唯除というはただのぞくということばなり。・・・(中略)・・・このふたつのつみのおもきことを示して、十方一切の衆生をみなもれず往生すべし、としらせんとなり」(512P)。
 教行信
証の信の巻(272p 5行~278p)では、種々の経文を引用して、お釈迦様の教化が届かず、救われがたい者について言及されている。その中の法事讃(善導)からの引用「浄土は謗り嫌うことが無い世界で平等である。平等だからこそ憂いが無い。善人も悪人も皆往生できる。往生すれば平等の悟りを開く。それは本願力によるものだから。故に五逆、誹謗の者も心改めて阿弥陀仏に帰依すれば往生することができる。」(大意)はまた、親鸞聖人の結論でもあろう。
 仏法を誹謗する
者(・・・仏、仏法、菩薩道を否定、あるいはないがしろにする者までを対象とすると、おのずと私自身も含まれる)は、仏の浄土に生まれることを願わないのだから救いの対象にはならない。つまり宗教としての救いが成り立つためには「念仏」が唯一最低の必要十分条件。「唯除」という言葉で自覚を促しながら念仏をすすめ、そのままでは救われない人に信心を与え結論的には救いとろうとした。これは言うたら宗教的な解釈。しかし親鸞の思想性はそこ(宗教)に留まらない。
 
念仏に縁の無い人、心向かない人に対して、お念仏に出会った者は回心させ信仰の世界に引き込もうとする。宗教のハードルをどこまでも下げ、あらゆる人に対して・・・という真宗のスタンスであるが、宗教的には「唯念仏」を死守している。これは宗教としては当然の事。しかし、お念仏に縁の無い人を教化の対象としてではなく、そのままにどのように対峙、思考していくのか…そこに親鸞独特の「思想」がある。。例えば還相回向という考え方…  (講義より)

下線部の所が難解で、まとまらず、発送が遅れてしまいました。
「還相回向」、「宗教と思想」手ごわいぜぇ~
尻尾がようやく見えたかな?と思ってると、またさっさと逃げていく~
・・・と言う訳で、続きはWebで(;^ω^)/ ・・・直接講義録音でご確認ください!


1月25日(金)のつぶやき

2013-01-26 01:43:48 | Weblog

今日こそは学習会の案内を完成させる!新年会の案内に次回学習会の日程だけはお知らせ載せてたから、なんかいつもよりのんびりしてたんだけど、あと10日だもんね、急がないと!でも明日投函しても、配達はどうせ月曜・・・とまたズルズルになりそうな言い訳ばっか頭に浮かぶ・・・とりあ風呂行く



1月22日(火)のつぶやき

2013-01-23 01:40:58 | Weblog

事実と想像とを区別するのって案外、というか、かなり難しい。だから「誤解」が生まれるんだろう。「わからなくて不安」なときほど、早くわかりたくて想像してしまう。その想像が自分と現実をどんどん引き離していく。わかりようがないことを「わからない」ままにしておくことは本当に難しいことだ。

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