第29回「大経の会」ご案内
テキスト「大経」は前回で読み終えたということになりますが、「行信一念」や「三不信」についてもう少し聞きたいというリクエストがありましたので、今回は大経全体についての「おさらい」ということで先生にお願いしています。他にも「ここが聞きたい!」等ございましたらお知らせ下さい。当日でも結構です。
日時 4月10日(木)10時~15時
会所 当山
前回は、となえるは「称える」か「唱える」か? その違いを「念声是一」を手がかりに考えてみた。18願で「十念」というが、それはもともと口で称えるのではなくて、行を積みかさね、心を整えて、仏を思い浮かべる(観想)心の働きのこと。それを善導大師が口で称えること「十声」だと言い換えた。普通は心で思う方(努力が必要)が、口で称える方(誰でも出来る)より重いと考えるが、やり易いから称えなさいというわけではない。口先だけで唱えているようだけどそうではない。「称」にはものの程度をはかり定めるという意味がある。南無阿弥陀仏と称(とな)えることと、名号の徳(本願利益)によって浄土に往生できることは天秤の重さが吊り合うように等号であり、御名を称することは、そのまま本願名号に称(かな)ったものと読み取ったということ。法然、親鸞もその教えを受け継がれ、故に真宗では通常「称える」を使用してきたが、その土台となる「念」も「声」も一つであるか否かというのは、現在も継続の課題なのである。
また、大経の結語(237P~239P)では、「難」について考えた。我々は仏や法に遇い難く、もし遇えても行ずることも、信を得ることも困難である。最後まで煩悩の自分を離れないそれでも信心を開こうとするところに「難」がある。と、同時に出遇い難きものに出遇えた、その歓びを「難」と表現し、それ程に優れた教えと称(たた)えている。信心を知らない者には信心を得ることの難しさも喜びももわからない。「難」とは、お念仏に出遇えた者だからこそ感じる深い感情なのである。(講義より)