本日若坊守学習会
満を持して、第35願
実はR寺さんが会所だったんだけど
うちの爺様が急遽、病院で検査を受けたいってんで
私は留守番を余儀なくされたわけで
で、
どうしても今回は出席したかったので、会所を当山に変更してもらいました
35願は何回かかけて学びますが
今回はまずその一回目
法然上人が東大寺でお説法された「無量寿経釈」の引用から
この日本国にさしも貴き無上の霊地霊験の砌には、みな悉く嫌はれたり。(云云)先づ比叡山はこれ伝教大師の建立、桓武天皇の御願なり。大師みずから結界して、谷を堺ひ、峰を局りて、女人の形を入れず。一乗の峰高く立ちて、五障の雲聳ることなく、一味の谷深くして三従の水流るることなし。薬師医王の霊像、耳に聞きて、眼に視ず、大師結界の霊地、遠く見て近く臨まず。高野山は弘法大師結界の峰、真言上乗繁昌の地なり。三密の月輪あまねく照らすと雖も、女人非器の闇をば照らさず、五瓶の智水等しく流ると雖も、女身垢穢の質に灑がず。これらの所に於てなほその障りあり、何に况や出過三界道の浄土に於てをや。しかのみならず、また聖武天王の御願、十六丈金銅の舎那の前、遙かにこれを拝見すと雖も、なほ扉の内には入らず。天智天王の建立、五丈の石像弥勒の前、高く仰ぎてこれを礼拝すと雖も、なほ壇上には障りあり、乃至金峰の雲の上、醍醐の霞の中、女人は影をせず。 悲しきかなや、両足を備ふと雖も、登らざる法の峰あり、沓まざる仏の庭あり。耻ずかしきかなや、両眼は明なりと雖も、見ざる霊地あり、拝せざる霊像あり。この穢土の瓦礫荊棘の山、泥木素像の仏だにも、障りあり、何に况や衆宝合成の浄土、万徳究竟の仏をや。これによつて往生、その疑ひあるべきが故に、この理を鑑みて別にこの願あり。(云云)善導(観念法門)この願を釈して云はく。「すなはち弥陀の大願力によるが故に、女人、仏の名号を称えて、正しく命終わる時に、即ち女身を転じて男子と成ることを得。弥陀接手し、菩薩身を扶けて、宝華の上に座して、仏に随ひて往生し、仏の大会に入りて無生を証悟す。また一切の女人、若し 弥陀の名願力によらずば、千劫・万劫・恒河沙等の劫にも、終に女身を転得すべからず。或いは道俗ありて云はく、女人浄土に生ずることを得ずと云ふは、これはこれ妄説なり、信ずべからず。」(云云)これ則ち女人の苦を抜きて、女人に楽を与へる慈悲の御意の誓願利生なり。
この文章を法然上人の女性差別の文として読むのは読み方が浅いのではないか?
南都北嶺(旧仏教)に対する強烈な皮肉と反論
一乗の峰(唯一の教え)高く、一味の谷深く、結界を作り、女性の入れない聖域を作る
これすなわち、穢土の瓦礫荊棘の山、泥木素像の仏
一切の女性を拒み、排し、救済しない
何のための教えであるか
これが法然上人の考えを表している
では、親鸞聖人はどうか
一つの言葉が差別用語であるかどうかは他に同質の差別的な表現が複数あるかどうか・・・あればそれは差別発言であろう
親鸞聖人が変成男子の願以外に言及してきるものは見当たらない
弥陀の大悲深ければ・・・その大悲の深さを表すものとして、変成男子を取り上げている
しかも順番として、「女性は救われがたいから、阿弥陀様が救ってくださる」という表現の順番は無い
表現には言葉の順番がある
救いがたいから阿弥陀様の大悲が救ってくださるのではなくて
弥陀の大悲が深いから、35願を作られたということ
女性は5障3従で救われがたいから阿弥陀様の大悲があるんだとは違う
そこは大事にしたい
親鸞聖人に女性差別思想はなかったと考えたい
一方、蓮如上人は先に女性は5障3従で救われがたいから阿弥陀様の大悲があるんだと、法然・親鸞とは順番が逆になっている
そこが問題、一緒には考えられない
やはり御文は問題がある
大衆受けする人にはその一方で問題もはらんでいることも多いのでは by N野先生
引き続き座談へ移行
・・・・以下危険発言乱発につき割愛
「何故、御文を止められないのかなぁ」
・・・以下危険発言乱発につき割愛
しかし
やっぱり会所になると、あれこれ席を立つことが多くて
それ以前に夏休みに入ってからというもの
気持ち的にバタバタドタドタしてたこともあって
なんか私的には落ち着いて考える間の無い学習会になりました
消化不良・・・残念・・・・・・。
35願については自分で考える、感じることが大事
次回も35願についてです
※今回の学習会は座談ももう一度聴きなおしたい所も多いでしょうから
座談も含めてアップしようと思います
不都合のある方(あの発言は削除して欲しい等)あれば申し出てください
満を持して、第35願
実はR寺さんが会所だったんだけど
うちの爺様が急遽、病院で検査を受けたいってんで
私は留守番を余儀なくされたわけで
で、
どうしても今回は出席したかったので、会所を当山に変更してもらいました
35願は何回かかけて学びますが
今回はまずその一回目
法然上人が東大寺でお説法された「無量寿経釈」の引用から
この日本国にさしも貴き無上の霊地霊験の砌には、みな悉く嫌はれたり。(云云)先づ比叡山はこれ伝教大師の建立、桓武天皇の御願なり。大師みずから結界して、谷を堺ひ、峰を局りて、女人の形を入れず。一乗の峰高く立ちて、五障の雲聳ることなく、一味の谷深くして三従の水流るることなし。薬師医王の霊像、耳に聞きて、眼に視ず、大師結界の霊地、遠く見て近く臨まず。高野山は弘法大師結界の峰、真言上乗繁昌の地なり。三密の月輪あまねく照らすと雖も、女人非器の闇をば照らさず、五瓶の智水等しく流ると雖も、女身垢穢の質に灑がず。これらの所に於てなほその障りあり、何に况や出過三界道の浄土に於てをや。しかのみならず、また聖武天王の御願、十六丈金銅の舎那の前、遙かにこれを拝見すと雖も、なほ扉の内には入らず。天智天王の建立、五丈の石像弥勒の前、高く仰ぎてこれを礼拝すと雖も、なほ壇上には障りあり、乃至金峰の雲の上、醍醐の霞の中、女人は影をせず。 悲しきかなや、両足を備ふと雖も、登らざる法の峰あり、沓まざる仏の庭あり。耻ずかしきかなや、両眼は明なりと雖も、見ざる霊地あり、拝せざる霊像あり。この穢土の瓦礫荊棘の山、泥木素像の仏だにも、障りあり、何に况や衆宝合成の浄土、万徳究竟の仏をや。これによつて往生、その疑ひあるべきが故に、この理を鑑みて別にこの願あり。(云云)善導(観念法門)この願を釈して云はく。「すなはち弥陀の大願力によるが故に、女人、仏の名号を称えて、正しく命終わる時に、即ち女身を転じて男子と成ることを得。弥陀接手し、菩薩身を扶けて、宝華の上に座して、仏に随ひて往生し、仏の大会に入りて無生を証悟す。また一切の女人、若し 弥陀の名願力によらずば、千劫・万劫・恒河沙等の劫にも、終に女身を転得すべからず。或いは道俗ありて云はく、女人浄土に生ずることを得ずと云ふは、これはこれ妄説なり、信ずべからず。」(云云)これ則ち女人の苦を抜きて、女人に楽を与へる慈悲の御意の誓願利生なり。
この文章を法然上人の女性差別の文として読むのは読み方が浅いのではないか?
南都北嶺(旧仏教)に対する強烈な皮肉と反論
一乗の峰(唯一の教え)高く、一味の谷深く、結界を作り、女性の入れない聖域を作る
これすなわち、穢土の瓦礫荊棘の山、泥木素像の仏
一切の女性を拒み、排し、救済しない
何のための教えであるか
これが法然上人の考えを表している
では、親鸞聖人はどうか
一つの言葉が差別用語であるかどうかは他に同質の差別的な表現が複数あるかどうか・・・あればそれは差別発言であろう
親鸞聖人が変成男子の願以外に言及してきるものは見当たらない
弥陀の大悲深ければ・・・その大悲の深さを表すものとして、変成男子を取り上げている
しかも順番として、「女性は救われがたいから、阿弥陀様が救ってくださる」という表現の順番は無い
表現には言葉の順番がある
救いがたいから阿弥陀様の大悲が救ってくださるのではなくて
弥陀の大悲が深いから、35願を作られたということ
女性は5障3従で救われがたいから阿弥陀様の大悲があるんだとは違う
そこは大事にしたい
親鸞聖人に女性差別思想はなかったと考えたい
一方、蓮如上人は先に女性は5障3従で救われがたいから阿弥陀様の大悲があるんだと、法然・親鸞とは順番が逆になっている
そこが問題、一緒には考えられない
やはり御文は問題がある
大衆受けする人にはその一方で問題もはらんでいることも多いのでは by N野先生
引き続き座談へ移行
・・・・以下危険発言乱発につき割愛
「何故、御文を止められないのかなぁ」
・・・以下危険発言乱発につき割愛
しかし
やっぱり会所になると、あれこれ席を立つことが多くて
それ以前に夏休みに入ってからというもの
気持ち的にバタバタドタドタしてたこともあって
なんか私的には落ち着いて考える間の無い学習会になりました
消化不良・・・残念・・・・・・。
35願については自分で考える、感じることが大事
次回も35願についてです
※今回の学習会は座談ももう一度聴きなおしたい所も多いでしょうから
座談も含めてアップしようと思います
不都合のある方(あの発言は削除して欲しい等)あれば申し出てください
いろいろな経典の中の女性差別についての文言を
集めているものです。
もしかしたら蓮如はこれに影響を受けたのではないでしょうか。
少なくとも親鸞聖人から「五障三従のあさましき女人」という
言葉は出てこないように思います。
三十五願をどう読み取るか、それぞれが考えたいものです。
ただ、四十八願についても、講師の考え方でどうにでも
解釈できるようにも思います。
伝えてきた教化者の意識が問題。
その教化者は男だったし。
先日の女性会議の時のお朝事の法話、
女性からは出てこない法話だと思います。
女性の教化者が増えていくことが大切ですね。
今年度、教区の担当部門で「女人往生聞書」について一年間学ぶというのが候補に挙がってましたので
資料としていただいてました
ざっと目を通した程度です
今回の「無量寿経釈」も載ってますね
今回の学習会でも
親鸞聖人は女性差別ととられるような文言は「変成男子の願」以外は言及されておらず
また、恵心尼、覚信尼にいたっては「変成男子」という考え方すら無かったのでは(・・・何言ってるの?!・・・ってなもんで)という話になりました
女性の地位も親鸞聖人の時代に比べて蓮如の時代はかなり厳しくなっていいると考えられ
そういう時代性にあのような御文が受け入れられたのだという風にも思います
いずれにしても
御文拝読を「教化」手段とするのは止めるべきだ
何故止められないのか
という話の展開でした
>三十五願をどう読み取るか、それぞれが考えたいものです。
本当にそうだと思います
今回の学習会は今までと違って、上資料を原文で読み
まずそれぞれの感想を思いを述べてから
講師が話をするというスタイルでした
講師の解釈を正解としてお勉強するのではなく
講師自身も35願については色んな意見を聞き、現在進行形で考えていくと言う姿勢に頭が下がります
講師に恵まれてラッキーな若坊守会なのです♪
あるおバカな講師(宗門ではかなり有名人)は三十五願は
女性差別の願です、と言ってました。
そう言えばいいかと思っているふしがみえみえで、
講義を聞く気にもならなかった。
質問にもちゃんと答えなかったし。
ちゃんと勉強してから話しましょう。
女性をバカにしています。
その方の本音というか、テーマや会に対する姿勢がうかがえますよね