天皇陛下の靖国神社御親拝を希望する会会長

日本人の歴史認識は間違っています。皇紀2675年こんなに続いた国は世界の何処を探しても日本しかありません。

昭和天皇の行幸

2014-05-13 09:23:53 | 歴史
大御宝、天皇彌榮を
確かに感じられる時があった

昭和21年から29年にかけての8年間沖縄を除く全国を廻られました。

昭和天皇の全国行幸です

「国を隈なく歩いて、国民を慰め、励まし、また復興のために立ちあがらせる為の勇気を与えることが自分の責任と思う」と

崩御なされるその時まで沖縄の事が悔やまれておられたそうです。

佐賀県を行幸なされた時の話の一部をねづさんのブログより抜粋しました。

陛下が佐賀県に行幸されたのは、昭和24年5月24日のことです

朝、8時15分頃、県道から町道の分かれ道のところに、御料車が到着しました。

群衆の人達からは、自然と「天皇陛下万歳」の声があがりました

御料車が停車すると、群衆の万歳の声が、ピタリとやみました。

一瞬、静まり返ったところに、車から、まず入江侍従さんが降り立ちました。

そのあとから陛下が車から降りられました。

そしてえ入江侍従さんが、陛下に深く頭を下げられる。

その瞬間、再び群衆の間から、「天皇陛下万歳」の声があがりました

陛下は、その群衆に向かって、御自らも帽子をとってお応えになられました。

その姿に、群衆の感動はいっそう深まります。

ここに集まった人達は、生まれてこのかた、お写真でしか陛下のお姿を拝見したことがありません

(中略)


そして「親を失った子供達は大変可哀想である。

人の心のやさしさが子供達を救うことができると思う。

預かっているたくさんの仏の子供達が、立派な人になるよう、心から希望します」

と住職に申されました。

住職はそのお言葉を聞き、身動きさえもままならなかったといいます。

この挨拶のあと、陛下は、孤児たちのいる寮に向かわれました。

孤児たちには、あらかじめ陛下がお越しになったら、部屋できちんと挨拶するように申し向けてありました。

ところが、一部屋ごとに足を停められる陛下に、子供達は誰一人、ちゃんと挨拶しようとしないのです。

昨日まで、あれほど厳しく挨拶の仕方を教えておいたのに、みな、呆然と黙って立っているのです。

すると陛下が子供達に御会釈をなさいます。

頭をぐっとおさげになり、腰をかがめて挨拶され、満面に笑みをたたえていらっしゃる。

それはまるで、陛下が子供達を御自らお慰めされているように見受けられたそうです。

そして陛下は、ひとりひとりの子供に、お言葉をかけられました。

「どこから?」
「満州から帰りました」
「北朝鮮から帰りました」

すると陛下は、この子供らに
「ああ、そう」とにこやかにお応えになる。

そして、
「おいくつ?」
「七つです」
「五つです」と子供達が答える。

すると陛下は、子供達ひとりひとりにまるで我が子に語りかけるようにお顔をお近づけになり、

「立派にね、元気にね」とおっしゃる。

陛下のお言葉は短いのだけれど、その短いお言葉の中に、深い御心が込められています。

この「立派にね、元気にね」の言葉には、

「おまえたちは、遠く満州や北朝鮮、フィリピンなどからこの日本に帰ってきたが、

お父さん、お母さんがいないことは、さぞかし淋しかろう。悲しかろう。

けれど今、こうして寮で立派に日本人として育ててもらっていることは、たいへん良かったことであるし、

私も嬉しい。これからは、今までの辛かったことや悲しかったことを忘れずに、立派な日本人になっておくれ。

元気で大きくなってくれることを私は心から願っているよ」

というお心が込められているのです。

そしてそのお心が、短い言葉で、ぜんぶ子供達の胸に沁み込んでいく。

陛下が次の部屋にお移りになると、子供達の口から「さようなら、さようなら」とごく自然に声がでるのです。

すると子供達の声を聞いた陛下が、次の部屋の前から、いまさようならと発した子供のいる部屋までお戻りになられ、

その子に「さようならね、さようならね」と親しさをいっぱいにたたえたお顔でご挨拶なされるのです。

次の部屋には、病気で休んでいる二人の子供がいて、主治医の鹿毛医師が付き添っています。

その姿をご覧になった陛下は、病の子らにねんごろなお言葉をかけられるとともに、

鹿毛医師に「大切に病を治すように希望します」と申されました。

鹿毛医師は、そのお言葉に、涙が止まらないまま、「誠心誠意万全を尽くします」と答えたのですが、

そのときの鹿毛医師の顔は、まるで青年のように頬を紅潮させたものでした。

こうして各お部屋を回られた陛下は、一番最後に禅定の間までお越しになられました。

この部屋の前で足を停められた陛下は、突然、直立不動の姿勢をとられ、そのまま身じろぎもせずに、ある一点を見つめられました。

それまでは、どのお部屋でも満面に笑みをたたえて、おやさしい言葉で子供達に話しかけられていた陛下が、この禅定の間では、

うってかわって、きびしいお顔をなされたのです。

入江侍従長も、田島宮内庁長官も、沖森知事も、県警本部長も、何事があったのかと顔を見合わせます。

重苦しい時間が流れる。

ややしばらくして、陛下がこの部屋でお待ち申していた三人の女の子の真ん中の子に、近づかれました。

そしてやさしいというより、静かなお声で、「お父さん。お母さん」とお尋ねになったのです。

一瞬、侍従長も、宮内庁長官も、何事があったのかわからない。

陛下の目は、一点を見つめていました。

それは、三人の女の子の真ん中の子が、胸に抱きしめていた二つの位牌でした。

陛下は、その二つの位牌が「お父さん?お母さん?」とお尋ねになったのです。

女の子が答えます。
「はい。これは父と母の位牌です」

これを聞かれた陛下は、はっきりと大きくうなずかれ、
「どこで?」とお尋ねになりました。

「はい。父は、ソ満国境で名誉の戦死をしました。母は引揚途中で病のために亡くなりました」

この子は、よどむことなく答えました。入江侍従長も、田島宮内庁長官も、沖森知事も、県警本部長も、何事があったのかと顔を見合わせます。

この子は、よどむことなく答えました。すると陛下は
「おひとりで?」とお尋ねになる。

父母と別れ、ひとりで満州から帰ったのかという意味です。

「いいえ、奉天からコロ島までは日本のおじさん、おばさんと一緒でした。

船に乗ったら船のおじさんたちが親切にしてくださいました。

佐世保の引揚援護局には、ここの先生が迎えにきてくださいました」

この子が、そう答えている間、陛下はじっとこの子をご覧になりながら、何度もお頷かれました。

そしてこの子の言葉が終わると、陛下は「お淋しい」と、それは悲しそうなお顔でお言葉をかけられました。

しかし陛下がそうお言葉をかけられたとき、この子は、
「いいえ、淋しいことはありません。

私は仏の子です。仏の子は、亡くなったお父さんとも、お母さんとも、お浄土に行ったら、きっとまたあうことができるのです。

お父さんに会いたいと思うとき、お母さんに会いたいと思うとき、私は御仏さまの前に座ります。

そしてそっとお父さんの名前を呼びます。するとお父さんもお母さんも、私のそばにやってきて、私を抱いてくれます。

だから、私は淋しいことはありません。私は仏の子供です」

こう申し上げたとき、陛下はじっとこの子をご覧になっておいででした。

この子も、じっと陛下を見上げています。
陛下とこの子の間に、何か特別な時間が流れたような感じがしたそうです。

そして陛下が、この子のいる部屋に足を踏み入れられました。

部屋に入られた陛下は、右の御手に持たれていたお帽子を、左手に持ちかえられ、右手でこの子の頭をそっとお撫でになられました。

そして陛下は、
「仏の子はお幸せね。これからも立派に育っておくれよ」と申された。

そのとき、陛下のお目から、ハタハタと数的の涙が、お眼鏡を通して畳の上に落ちたそうです。

そのとき、この女の子が、小さな声で「お父さん」と呼んだそうです。

これを聞いた陛下は、深くおうなずきになられた。

その様子を眺めていた周囲の者は、皆、泣いたそうです。

東京から随行してきていた新聞記者も、肩をふるわせて泣いていました。

子供達の寮を後にされた陛下は、お寺の山門から、お帰りになることになります。

山門から県道にいたる町道には、たくさんの人達が、自分の立場を明らかにする掲示板を持って道路の両側に座り込んでいます。

その中に「戦死者遺族の席」と掲示してあるところまでお進みになった陛下は、ご遺族の前で足を停められると、

「戦争のために大変悲しい出来事が起こり、そのためにみんなが悲しんでいるが、自分もみなさんと同じように悲しい」と申されて、

遺族の方達に、深々と頭を下げられました。

遺族席のあちここちから、すすり泣きの声が聞こえてきました。

陛下は、一番前に座っていた老婆に声をかけられました。
「どなたが戦死されたのか?」

「息子でございます。たったひとりの息子でございました」

そう返事しながら、老婆は声を詰まらせます。

「うん、うん」と頷かれながら陛下は
「どこで戦死をされたの?」

「ビルマでございます。激しい戦いだったそうですが、息子は最後に天皇陛下万歳と言って戦死をしたそうででございます。

でも息子の遺骨は、まだ帰ってきません。

軍のほうからいただいた白木の箱には、石がひとつだけはいっていました。

天皇陛下さま、息子はいまどこにいるのでしょうか。

せめて遺骨の一本でも帰ってくればと思いますが、それはもうかなわぬことでございましょうか。

天皇陛下さま。息子の命はあなたさまに差し上げております。

息子の命のためにも、天皇陛下さま、長生きしてください。ワーン・・・・」

そう言って泣き伏す老婆の前で、陛下の両目からは滂沱の涙が伝わっています。

そうなのです。
この老婆の悲しみは、陛下の悲しみであり、陛下の悲しみは、老婆の悲しみとなっていたのです。

そばにいた者全員が、この様子に涙しました。

(中略)

そして陛下は、「引揚者」と書かれた人達の前で、足を停められました。

いよいよ陛下が、御料車に乗り込まれようとしたとき、寮から見送りにきていた先ほどの孤児の子供達が、

陛下のお洋服の端をしっかりと握り、
「また来てね」と申したそうです。

すると陛下は、この子をじっと見つめ、にっこりと微笑まれると

「また来るよ。今度はお母さんと一緒にくるよ」と申された。

御料車に乗り込まれた陛下が、道をゆっくりと立ち去っていかれます。

そのお車の窓からは、陛下がいつまでも御手をお振りになっていた。

宮中にお帰りになられた陛下は、次の歌を詠まれています。

 みほとけの
  教へ まもりて すくすくと
   生い育つべき 子らに幸あれ


※出典:しらべかんが著「天皇さまが泣いてござった」

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ねづさんのブログ
昭和天皇の全国行幸
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