佐藤匠(tek310)の贅沢音楽貧乏生活

新潟在住の合唱指揮者・佐藤匠のブログです。

新潟県中越沖地震~被災、そして惨状~

2007年07月16日 20時52分12秒 | 日記・エッセイ・コラム

 

 私は大丈夫です。

が、見たもののあまりの衝撃に、

何か伝えないとと思い、ここに書いています。

長くなりますが、見たものの状況をお伝えします。

 

 

 今日は、上越(直江津)で高校のOB合唱団の練習でした。

本番で1ステージ指揮を振るので、

団員と練習していました。

 

 

 10時13分、地震。

 かなり激しく揺れました。

中越大震災の時は、新津のアパートにいたので、

揺れはしましたが、被災地からは遠く。

今回は、場所が近かったので、その時以上の衝撃でした。

1分くらいでしょうか。長かったですね。上越は震度6弱でした。

 

 

 只事ではないことはすぐ分かりました。

携帯を借りたのですが、繋がらず、近くのコンビニへ。

職場へかけると、上司がちょうど着いたようで、

これから向かいますと伝えました。

しかし、被災地を通らなければならず、

いつ着くかは分からないとも伝えました。

 

 

 その後、実家上越(高田)へ電話。

こちらも大丈夫だったとのこと。

こういう時、公衆電話はかなり有効とのことです。

 

 

 で、もちろん練習は中止。

団員の皆さんは携帯ですぐに家へ連絡が取れなかったようですが、

高田や直江津の方は、外に出た感じでは、

主だった被害はありませんでした。

 

 

 で、方向上、止む無く国道8号線を職場へ向けて移動。

柿崎に入ると、道路のひび割れ、陥没、段差などが

目に付くようになりました。僅かではありましたが、

ガラスの割れた状況も見ました。

 

 

 米山へ行く途中で、大渋滞。

分かったのですが、道路の被害の大きいところというのは、

「橋」が絡んでいました。

橋に差し掛かるところで、橋とその手前の道路で、

大きな段差が生じていました。

ブロックやタイヤを置いて、段差を解消し、

1台ずつゆっくり通っていたため、渋滞が生じていました。

僕は通過したのですが、その後米山大橋なども

通行止めになったという情報も。

長い渋滞を抜けて、柏崎の中心街へ入る手前、

右手のセブンイレブンへ。ここがひどかった。

陳列の棚は向きを変え、倒れ、通路はぐちゃぐちゃに。

品物は落ちて、酒などのビンは割れ、歩くのも困難な状況でした。

この辺りは、道路も激しく陥没したり崩れたりしていました。

しかし、長い渋滞を抜けていたので、レジには行列が。

僕もまずトイレへ行き、停電の最中、

食糧などを買い求める人が大勢いました。

店の奥から、店員が食料などを固定された棚へランダムに陳列。

僕はパンやカロリーメイトなどの固形物を買えず、

チョコレートとスナック菓子、

ウィダーインゼリーと缶コーヒーを買って車へ。

 

 

 8号線をさらに柏崎の市街地に入ると、

跨線橋などが通行止。

迂回して8号を進みましたが、8号沿いの中心地は

それほど大きな被害は見えず。

しかし、倒壊家屋が1軒ありました。

国道沿いの車のショールーム、しまむら等の大型洋品店、

ドラッグストアなど、停電して店を閉めていました。

この辺の道路や店は、外見上それほど被害はなく、

しかし、また大渋滞。

豊田橋というところが通れず、迂回することに。

 

 

 ここの渋滞で相当待ちましたが、

まあ凄い状況になっていました。

国道8号線は、サイレンを鳴らした消防車や救急車が行きかい、

空はヘリコプターが何台も飛んでいました。

救急車等は、柏崎、刈羽のみならず、

魚沼や三条、加茂、新潟、新発田と、

県内のあらゆるところから来ていました。

 

 

 この時点で、車中ではラジオをつけていました。

で、何しろ情報が錯綜していました。

困ったのは、一番揺れたところが、

柏崎市、刈羽村とともに、「長岡市」とあったことです。

実は、合併したため、長岡のどこの地域かが良く分からず、

困りました。

長岡市の中心部だけでなく、旧西山町や旧小国町、旧寺泊も長岡市。

どこの被害が大きいのかが分からず、どこを通って良いか困りました。

 

 

 あと、被災地に局のレポーターなどが入って話していましたが、

これも、情報が少ない中は非常に困りました。

そのレポーターが通ってきた道路によって、

災害のひどさが違うんですよね。

だから、色々な様子や状況のレポートがあり、僕は混乱しました。

 

 

 で、8号を迂回し、国道から一本奥へ入っていくと、

そこからが本当にひどい状況でした。

道路がうねり、陥没、ひび割れ、がひどく、通るのがやっと。

そういう場所があまりにも多く、

車の人たちはお互い譲りつつ進みつつ通っていました。

大きい道では、人が出て指示しているのですが、

1本奥へ入ると、そういう場所がありすぎて対応できない。

で、道路がうねっているようなところは、

特に家屋の倒壊がひどく、全壊している家屋がたくさんありました。

電柱は傾き、ブロック塀は崩れ、墓や石の灯篭は落ち、

屋根瓦が崩れ落ちていました。

そしてたまに渡る線路は明らかにうねっていました。

 

 

 やはり、道路も電車もそうですが、

市街地の国道などは、被害はあるけれど、

やはり地盤の関係や造りの関係で、結構しっかりしている。

しかし、道路を一本入ると、状況は一変します。

古い住宅が並ぶところや、地盤の弱いところは、

同じ柏崎かと思うほど被害がひどかったです。

住宅も、古いところは同じような古い住宅が集まっているので、

そういうところの被害は本当にひどかったです。

 

 

 迂回が続き、僕はどこを通っているかも分からず、

刈羽村の方へでて、一度国道116号線へ出ました。

しかし116号線も通行止で、止む無く迂回。

8号線の方も通行止めという情報があり、

刈羽や旧西山町の方を通りました。

この辺も、先ほどのとおり、橋があるところでは必ず渋滞。

この辺を抜けるのにもかなり時間を要しました。

 

 

 で、渋滞している最中、午後3時半ごろ、大きな余震が。

渋滞して止まっていたので、車中でも小さい余震は何度も感じていました。

しかしこの余震は本当に怖かった。

柏崎市内でもろに余震を受けました。

 

 

 その前に、116号線へ出たときに、

ナルス(スーパー)へ寄りました。

しかし、危険なため店内には入れず、

外で、カップラーメンや食パンを売っていました。

僕はここの住人ではないので、我慢して買いませんでした。

この辺の住人が、水や食料を求めて集まっていました。

 

 

 実を言うと、甘党の僕も、食べるもののチョコレートに飽きていました。

というのも、水が止まっていて、トイレに困ることを予想。

で、車中にはあったのですが、

お茶などの水気のあるものが飲めなかったんですね。

何か腹にたまるものと思ったのですが、住人が優先だなと。

 

 

 で、何とか渋滞を抜け出て、

再び116号沿いのデイリーへ。

職場に電話すると、そっちの方はそれほどではなく、

そろそろ自宅へ帰るとのこと。

そのため、僕は直接自宅のある新津へ向かいました。

おそらく出雲崎付近だったと思いますが、

このデイリーへは電気も水も来ていて、

ようやくトイレへありつけました。

ここからは順調に進み、燕、三条、加茂を通り、

自宅のある新津へは結局夜7時に着きました。

8時間半近くかかりました。

 

 

 実は再開予定だった新幹線がまだ通らず、

東京へ行っている某合唱団の団員が気がかりです。

結局僕自身は家には着いたのですが、

一番激しい被災地を通って、そこで見た衝撃があまりに強く、

何かを伝えないとと思い、食事をせずブログを先に書いていました。

サッカーも見る気がせず、今は録画しています。

こういうとき、PTSDになる人がいますが、

分かる気がしました。あの状況は尋常じゃありません。

柏崎では、家の外へ出て様子を見ている人が結構いましたが、

余震で倒壊の恐れがあるので、近くへ避難したほうがいいですね。

止むを得ない車中泊では、エコノミークラス症候群に

気をつけないといけません。

被災地では、ライフラインの復旧がまだのところが多いので、

携帯などへの電話はしない方が良いと思います

(充電が出来ず、いざとなったときに使えなくなるので)。

 

 

 ちょっと興奮気味に書いていますが、

僕の通ってきた状況はこんな感じでした。

今後の推移を見守りたいと思います。