日本の歴史人物で、韓国で一番嫌われているのは、豊臣秀吉といっても過言ではない。
韓国人は秀吉の朝鮮侵略は知っていても、なぜ彼が日本ではよい評価をされていて、いまだに好かれているのか、また彼の遺した功績なども全然知らない。
日本の国内統一を終えた豊臣秀吉は、1592年に「文禄の役」という朝鮮出兵をしたが、朝鮮では「壬辰倭乱」といい、のちの「慶長の役」は「丁酉倭乱」という。
「乱」とは、中華思想において下位者が上位者に起こす叛逆行為のことである。
この朝鮮出兵は、大陸・朝鮮にとっては、教養なき野蛮な民である日本が、中華皇帝に認められた正統な朝鮮に対して起こした反乱という位置づけになる。
当時は、李氏朝鮮で第14代宣祖の時のことであった。
朝鮮軍は鉄砲を持たず、防衛体制も整っていなかったため連戦連敗で、首都の漢城府(現在のソウル)や平壌を落とされ窮地に陥り、ついには明に援軍を求めたのである。
のちに援軍によって平壌は一次奪還され、海上では亀甲船などを繰り出した朝鮮軍が制海権を確保。
途中、明と日本の間で和議交渉が行なわれたが決裂し、秀吉は再度の遠征を指令した(慶長の役)。
このときに朝鮮水軍を率いて日本と朝鮮半島の海峡で戦ったのが、李舜臣である。
韓国の歴史学者によると、李舜臣との戦いによって、海上を封鎖され、朝鮮半島への補給路を断たれた日本は、半島からの敗退を余儀なくされたという。
韓国人にとって、歴史はファンタジーなので、そう思い込みたい気持ちもわからないではないが、事実関係はまるで異なる。
実際のところ、李舜臣は朝鮮の海将として1592年8月29日に釜山港を占領していた日本軍に戦いを挑んだが敗退している。
また、1598年11月18日の露梁海戦では、李舜臣が明国と朝鮮の連合軍の指揮を執った。
それまでに閑山島海戦や鳴梁海戦などいくつかの局地的勝利を挙げていたものの、半島全体の戦局に影響を与えるほどのものではなかった。
李舜臣が開発した亀甲船による奇襲攻撃は最初こそ成功したが、出撃回数を重ねるうちに日本船団の反撃で戦果が出なくなった。
結局、李舜臣は、日本と李氏朝鮮の停戦協定が成立して帰国しようとする日本の軍船を追撃している最中に、日本軍の圧倒的な戦力の前に戦死してしまう。
李舜臣によって、日本が海上補給路を断たれたという事実は、どこにもない。
朝鮮国王の停戦の命に背いて日本軍船を追撃した李舜臣がもし生きていたとしても、李氏朝鮮王朝内の政争に巻き込まれて、自国の王族や両班らの嫉妬で暗殺されていた可能性もあった悲運の人であったのだ。
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