30数年前、関釜フェリーで下関から釜山へ向かう。
1970年代当時時のディスカウントの航空券が無かったころは、韓国格安旅行といえばフェリーの2等だった。
夕方に下関を出港、深夜に釜山港に着くが港に停泊し、朝に入管手続き入国となる。
デッキに出て海を見たり船内の風呂に入ったりしても時間をもてあます。
2等客室なので自然とそばの乗客と話をすることになる
話し仲間が出来た。
1人は松島(釜山)の女性に熱を上げてるおじさん、もう1人は毛皮のコートを持っている青年(コートは女の子にプレゼントするらしい)。
いろいろおもろい話が耳に入ってくる・・・・、韓国の穴場情報の交換の場でもあった。
下船したら 3人で刺身の美味しいチャガルチ市場に行くことになった。
チャガルチ市場はそれ以来数十回訪れている・・・・。
釜山国際旅客ターミナルの釜関フェリー・チケット売り場
釜関フェリーは、韓国の海運会社。
釜山に本社を置き、同市と日本の下関市を結ぶフェリーを運航している。
同社と日本側のパートナーである関釜フェリーとの共同運航により、夜行便を毎日一往復就航している。
関釜フェリーとの共同運航を念頭に、在日韓国人の元暴力団員で後に在日本大韓民国民団中央本部顧問となる町井久之(鄭建永)が1969年(昭和44年)に資本金60万ドルで釜山に設立。
設立当初は自前の船舶を持たず関釜フェリーの韓国側の受付実務のみを取り扱っていたが、1983年4月に関釜フェリーのグループ会社でもある阪九フェリーから「第十六阪九」を購入し改装のうえ「フェリー釜関」として就航させ、共同運航に着手した。
この「町井久之(鄭建永)」という人物、在日韓国人の実業家で、銀座や六本木を中心に活動する暴力団である東声会の元会長でもあり、力道山や韓国の朴正煕大統領と親しいことでも知られており、日韓政財界のパイプ役を果たしたといわれている。
東亜相互企業の会長には児玉誉士夫が就き、銀座の料亭「秘苑」を営業。
1969年 町井久之(鄭建永)は、資本金60万ドルで釜関フェリー株式会社を設立。
1971年 在日本大韓民国民団中央本部顧問に就任
1971年 韓国料亭「城園」に資金提供、「湯島秘苑」と名称を改め、銀座と湯島に“妓生(キーセン)ハウス”と呼ばれた韓国料亭を経営。
この頃、韓国外換銀行東京支店は、東亜相互企業株式会社に、支払い保証約60億円の信用供与を与えた。60億円の支払い保証に基づいて、日本不動産銀行から54億円の融資を受け、33億円を那須・白河高原の総合開発事業につぎ込み、21億円をTSKCCCターミナルビル建設につぎ込んだ。(しかし建設費は建設会社には支払われていないといわれている)
そして1973年 六本木に、TSKCCCターミナルビルをオープンさせたのだ。しかし順調のように見えた1975年、東亜相互企業が突然不渡りを出した。1976年 東亜相互企業の黒沢勝利ら3人が、福島県県知事・木村守江に対する500万円の贈賄容疑で逮捕。不渡りに衝撃を受け、児玉と建て直しを図ろうとしていた矢先、元内閣総理大臣田中角栄の逮捕にまで行き着く前代未聞の汚職事件が発覚する。ロッキード事件だ。
ロッキード事件とは 旅客機の受注をめぐって1976年に明るみに出た世界的な大規模汚職事件で、日本やアメリカ、オランダ、ヨルダン、メキシコなど多くの国々の政財界を巻き込んだ事件だ。児玉誉志夫は、日本においてロッキード社の裏の代理人的役割をしていた。しかし これだけでは終わらない。
1976年 ロッキード事件で児玉が逮捕
1977年 韓国外換銀行との裁判が始まる。
町井(鄭建永)は朴政権を後ろ楯に多額の融資を受けていたが、
利息を巡って裁判に発展。
「湯島秘苑」が、風俗営業違反で警察の強制捜査。
東亜相互企業が不渡りで倒産。
1979年 10月26日
朴正煕(パク・チョンヒ)が側近の金載圭によって射殺
町井久之(鄭建永)は急速に力を落としていく。
2002年 心不全のため死去。
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