TAMO2ちんのお気持ち

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読書メモ:『南海ホークス ナンバ 栄光と哀しみの故郷』

2014-11-05 22:02:00 | 野球
 『南海ホークス ナンバ 栄光と哀しみの故郷』(広瀬叔功著、ベースボール・マガジン社)

 愛称チョロ。南海ホークスが産んだ稀代の天才ランナー。チームに貢献できる時だけ盗塁した男。成功率は82.9%。最晩年の大阪球場でよく聞いたのは「盗塁王福本言うけど、盗塁の上手さでは広瀬に敵う奴はおらんかったで。」残念ながら、小生が子供時代の記憶にある広瀬さんはちょこんと当てるバッター。盗塁の印象はない。だけど、彼が引退してから野球の歴史に興味を持ち始めてからその凄さを色々と聞く。

 この本は戦後、南海ホークスが全盛期の時に入団し、栄光を極めて没落する様子を描いている。鶴岡さん、ノムさん、杉浦さん、そして数多くのライバル。読んでいて「蔭山さんは余り書いてないなあ?」と思ったが、最後の最後(あとがき)に書いておられるのが泣ける。たらればでオールドホークスファンが言うのは「蔭山が生きとったらなあ」であった。そのくらいの逸材であった。

 著者は広島の片田舎で生まれ育ち、野球と陸上に明け暮れる。身体能力の高さを鶴岡監督の友人である上原清治氏に見出される。今となっては信じられないが、高校3年の夏休みに大阪に呼ばれ、二軍の近鉄戦で投手・広瀬の試験を受けさせられる。選手ちゃうのに二軍の試合に出るとは。まあ、伝説の南海土建の時代からすぐだからなあ。そこで天才・杉山光平にスリーランを打たれ、鶴さんは「法政に生かせとけ」と不合格? 著者は野球でその法大と関学、陸上で早稲田、順天堂大に勧誘されていた。学校の先生になりたかったから早稲田に決めようとしていたが、上原氏の強い勧めと、高校の先生に「南海はあの鶴岡さんが監督をされている名門チームなんだから、早稲田とか言わずに、南海に行きなさい」と言われて決心する。当時の南海の選手は、石川探題をはじめとする鶴岡人脈で勧誘され、鶴岡に憧れて入団した。

 投手は肘の怪我で断念。練習の手伝い中に観察すると、外野守備と走塁は二軍の誰にも負けない。そこで野手転向。二年目のオープン戦で三塁打を放って滑り込まなかったら親分に「帰れ!」と言われて(ちなみに滑り込む必要はなかった)、「帰ります」と荷物をまとめてしまう。気の強さがあるということだ。親分としては後年、著者に「ダレたベンチを引き締めるために若手のお前を見せしめにした」という。まあ、そういう時代だな。ちなみに当時はプロはアマに復帰できなかったはずなので、著者が「大学で野球を続ける」という選択肢はそもそもなかった。そこを親分は突き、著者に南海での野球を続けさせる。親分は人を目の前で褒めない。あの杉浦さんも一度もないらしい。有名な栄養費は月3万円。当時の著者の給料は月2万円。二軍をはじめて作ったのは一九四九年の親分。対戦相手がないので、社会人「南海土建」を作り、都市対抗準優勝は有名だな。当時の野球の最高峰は六大学。ちなみに愛媛の興居島には「六大学じゃあ通用せんから、職業野球に進んだ」人がいる。スカウトも親分。一九四七年、九州担当の石川探題から。九州内の都市対抗リーグ戦はとても盛り上がっていた時代。大学、ファームからタレントを揃えた南海は人気チームに。百万ドルの内野陣、400フィート打線。陰には球界初のスコアラーである尾張氏による尾張メモ。親分はアイデアマンで合理主義者でもあった。尾張メモは著者も活用したが、最後の最後は自分の感覚を大事にした。力の衰えたベテランはチーム力で劣る所に放出し、「もう一稼ぎしてこい」と情けを鰍ッた。著者の解釈が正しいと思う。また、大いなる長所を持つ選手を大成させるために我慢強く親分は起用した。ノムさんは弱肩、鈍足、著者はエラー王。著者が目を鰍ッられていたことは、初めて仲人をしてもらったことにも表れる。(これが仲人を断られたノムさんに大ショックだったのは方々で書かれている。)

 色々な猛者。併殺を防ぐためにおでこにボールを受けても素知らぬ顔の岩本義行。走者のおでこを狙う南海ホークス。頑健なら飯田徳治氏。連続試合出場の記録保持者だった。豪傑柚木進氏。理論家のミスター三塁打、蔭山和夫氏。コーチ蔭山氏には本塁打狙いを見抜かれ、叱られたとのこと。チャンスに強い杉山氏。この本には書いていないが、曲がったバットがしっくり来て首位打者を取ったとか、エンドランを出さなかった監督に「連続無三振記録を継続しているのを監督は知らなかったのですか?」と監督を叱責した話は有名。信念の人。「あなた買います」の穴吹氏。幻のホームランをやった人でもある。大沢親分は、やっぱり親分肌らしい。著者がどんなに活躍しても飲み代は大沢親分が持つ。高卒でいきなり26勝を挙げた宅和元司氏。酷使が祟り、著者が入団した時には衰えていた。入れ替わりで皆川睦男氏が出てくる。彼も怪我で挫折を味わうが、シンカーを覚えて技巧派に転向、最後の30勝投手になる。ノムさんがリードするのが一番楽しかったと言う投手。大エースの陰に隠れるが、短い期間だが光を放った二番手、三番手も多かった。木村保氏、祓川正敏氏、三浦清弘氏、森中知香良氏、渡辺康輔氏、野母得見氏、合田栄蔵氏、、、。叩き上げの岡本伊三美氏、森下正夫氏は「がめつい野球」の象徴。後継と目されるべき人格だったのが法政三羽烏の富田勝氏。巨人に出されたのは親分に似た頑固者だったせいか。南海ホークスの器量がなくなっていったということか? 門田博光氏を出さなかったのはその反省か? あ、門田氏の若い頃は覚えている。グラブさばきの巧みさと肩の強さが印象的だった。三拍子揃ったスラッガー。最晩年のオリックス時代の守備の上手さも印象に残っている。あの怪我で本塁打に特化したが、怪我がなければとどんな凄い選手になっていたのかな? 足も速かった。弱かった時代の南海は、一撃ノ秀でた選手が多かったと思う。

 ノムさん。若い頃、合宿所では便所聡怩ニ風呂聡怩フ日々。ノムさんは丁寧に風呂聡怩キる性格だが、ちょっとした汚れを先輩に咎められて泣きが入ったらしい。ノムさんは部屋に帰れば牛骨でバットを磨き、道具を大切にした。聡怩熏sき届いていた。著者に言わせれば、ノムさんの本は最初の『デッチ人生20年』が代表作とのこと。推薦文は松下幸之助氏、草柳大蔵氏。人脈の豊かさ。草柳氏は爽やかで腰の低いノムさんを好漢と見る。当時はそうだったんだろう。著者もそういう時代のノムさんを懐かしむ。杉浦さん、ノムさん、著者が元祖「南海の三悪人」。一緒に飲み歩き、門限破りをして、著者が身軽さを使って二階に忍び込み鍵を開ける。頭を巡らせ、癖を見抜いて打つノムさんに対し、感性と眼を研ぎ澄ますのが著者。頑張り過ぎて怪我をして四割の夢破れた著者は、晩年は素振りを殆どしなくなった。色々と真逆だな。サードランナーの時、バットの上に当たるか下に当たるかを凝視してゴー・バックを判断したのは驚く。「何でもデータ、データでは野球選手の本能は鈍磨するのではないか。」(p70)データを踏まえ、最終的には感性というのが著者の言い分。ノムさんは監督となり、行ってはいけない方向に行ってしまったことが暴露される。一つはいわゆるスパイ野球の暴露。今はトレードが盛んでそんなことは出来ないし、罰則が厳しい。もう一つは「3ボール2ストライクから待て」という徹底しすぎた管理野球。そこまで信頼されないなら、と著者は引退を決意する。メジャー視察を準備していた時、例の「野村追放運動」。監督要請を受けて受諾せざるを得ないように著者は追い込まれる。四番、リリーフエース、若手の成長株のいないチームはいかんともしがたいものだった。ノムさんが鶴岡元老に吹っ飛ばされたわけではないと著者は言う。とはいえ、ノムさんは、古葉虫ッ氏、柴田猛氏、高畠導宏氏ら、球史に名を残す指導者を育てていた。うーん、毛沢東に例えられるノムさんだが、毛沢東よりはこういう点は偉大だな。

 御堂筋パレード。語りつくされている。この本も杉浦讃歌。例の白浜温泉ツアーは岡本伊三美氏の発案。親分も選手に融け込んでの飲めや歌え。最後に「四つ勝つ。頼んだぞ。」岡本氏が近鉄時代にラソーダ氏を日本に呼んだのは親分への郷愁か。日本シリーズは試合ごとに観客が増えた。20万人の御堂筋パレード、病床の小原オーナーは報告に対して「有難う! よくやってくれた。これで思い残すことはなくなった」といった。著者は実は心ここにあらずな面があったらしい。翌年の結婚のためだ。自宅も自家用車も買わなければならない。徐々に杉浦投手が下降線に入ると入れ違いに、「青い眼の日本人」ジョー・スタンカが大黒柱に。深酒しても「明日練習あるね!」と三悪人を諌めるナイス・ガイ。彼は「明日、どうや?」と言われて「OK、OK」と答えるサムライであった。分業制が出来つつあったアメリカから来たのに。著者は首位打者を取ったり、五年連続盗塁王などの全盛期を迎える。V9が始まった頃、南海は凋落していく。パリーグは阪急の時代に。

 著者が大阪球場を初めて見たのは入団試験の時。「どこかモダンな外観」。昭和の大阪城はたったの八か月で建設された。大阪の底力。すり鉢のスタンドは歓声が響きやすく、あの黒土は走り易かったとのこと。一軍の公式戦で登板したこともあるらしい。立地条件は最高で、ナイター設備も関西で最初につけられたから「最強」の球場だった。ああ、ホークスがメディア戦略を間違わなければタイガースに浪花の愛を独り占めさせることはなかったろうに。中百舌鳥球場は修業の場。がめつい野球の第一人者は森下正夫氏。アキレス腱三度断裂から蘇る根性の人。試合中は大声で味方を鼓舞する。「声を出せば力みが消える、下手なことは出来ないと集中力が増す、つばが出るので渇きが癒える、咄嗟のときの連係プレーがスムーズになる・・・」なるほど。元祖・ニセ死球(笑)。次に国貞泰汎氏。渾名「ゴリ」。ここ一番で頼りになる男。タイプは違って紳士だが桜井輝秀氏もこの系譜。片方の耳が不自由だったらしい。山本和範氏と同じだな。著者のデビューは七打数七安打から。最後はサードの坂本文次郎氏に阻まれたらしいが、坂本氏は10連続打数安打の記録を持っていた。2年目のオフに中日からトレード話があった。給料は三倍だし、月給10万円(その年2万円、3年目4万円)が目標だったので受諾したかったが、南海に残されたとのこと。荒巻投手から本塁打を放って一軍定着。ャWションはショート。年間40個のエラーをしちゃう。が、他で取り返すことを考えていた。試合前の散水ではたっぷりと水を含ませ、イレギュラーしないようにしていたらしいが。今、中百舌鳥球場も大阪球場もない。

 思い出の球場は消えてしまっても、私の思い出までは消えはしない。それは多分、とても幸せなことなのだろう。
(p126)

 南海のライバルたち。まずは西鉄。中西太氏。天才的なリストワークのツケである腱鞘炎がなければ。首位打者と本塁打王を取ってる。パワーと技を兼ね備えていた。(ちなみにプロ入りの決め手は俊足。)西鉄%?Cは巨人阪神よりも人気があった(親からも聞いた。)西鉄や毎日の動きを知るために速報板が大阪球場に設置された。太さんやエビセン山内が本塁打を打ったという速報が流れると拍手が出たらしい。「野武士」そのものは豊田泰光氏。毎日(大毎)は水爆打線。山内、塩{、葛城、田宮。塩{氏の「1センチ外れてたよ」は伝説。後輩指導に当たって欲しかったという著者の思いは野球ファン共通。暴れん坊軍団・東映。張さん、山本八郎氏、尾崎行雄氏と浪商多い。浪商出でも南海の樋口外野手は紳士だったそうな。東映戦では一イニング4アウトという珍記録が。1962年7月12日のこと。無死満塁でハドリが右飛、タッチアップを見てライトが本塁返球、それを捕手が後逸、二塁走者が本塁突入もタッチアウト、一塁走者は三塁を狙うがそれもタッチアウト。サードランナーの離塁が早いのではというアピールが認められてこれもアウト。都合4アウト。阪急にはスペンサー。癖を見抜く野球博士。タックルプレーでも有名だな。そこにヨネカジ。梶本氏のカーブは空振りした大沢親分の身体に当たったらしい。そして山田、加藤、福本の阪急三馬鹿らを加えて阪急は黄金期に。著者は長嶋茂雄氏と「ヒロちゃん」「チョーさん」と呼び合う仲。巨人とのオープン戦が多く、移動の汽車で一緒に過ごすことが多かったらしい。著者は名球会に呼ばれるとき、カネやんには「来んとアカンぞ!」とどやしつけられる(?)そうだが、そのカネやんも長嶋茂雄氏には「きてくれや」と懇願するらしい。長嶋さんはスーパースターだ。

 著者は原爆を目撃している。距離が遠いので怪我などはなかったようだが。登校日だったそうだ。引用。

 その時、周辺がピカッと光った。視界の中では見渡す限り光の帯が揺らいでいる。地球がおかしくなった、と子ども心に思った。数秒経って「ドカーン!」という轟音。われわれは訓練されていたから地面に伏せて、しばらくして音が鳴りやんでから立ち上がった。朝礼台の上で校長先生がャJーンと口を開けて遠くを見ている。

 振り返って、校長先生が見ている広島市街の方向を見て驚いた。建物がすべてなぎ唐ウれていて、広島市街まで見通せたのだ。遮るものが何もない。その上に不気味なきのこ雲がわき上がっていた。爆風で校舎の窓ガラスが全部砕け散っていた。
(中略)

 私は今もあの光景が忘れられない。鮮明に覚えている。幸い私は難を逃れたが、あの悲惨な出来事に比べたら、私の日常で起きることなど、たかが知れているではないか。
(p149)

 さて。著者の走力の基礎は高校時代の陸上競技。100m十秒台と推定。だが、もっと速い人がいたので三段跳び、走り幅跳び、砲丸投げなどを。表彰状は束のよう。野球では何ももらえなかったらしいが。フェンスによじ登れるほどの跳躍力を得た。著者の盗塁哲学は「勝利のために必要なときだけ」。成功率.829。ちなみに気が乗らないときは失敗する。感性を研ぎ澄ました盗塁なので、気が乗らないと研ぎ澄まされないからだ。必要なときに行った盗塁では殆ど失敗がない。帰塁の技術を磨けたから安心して盗塁出来たとのこと。「スタートの反動を利用して塁へ戻る動き」。「右足にかかった重心を揺り戻すようにする」。小生のような鈍足には分からん。これは佐々木誠氏、大野久氏に教えたとのこと。盗塁のコツを掴んだのは全盛期の一九六四年らしい。怪我で代走稼業をしていたときのこと。31連続盗塁成功の記録を作った年でもある。一九六八年には盗塁成功率9割6分。なお、牽制が多いから走りにくいわけではなく、癖が掴めるようになる、、らしい。世界の盗塁王福本は「多く走れば勝利に近づく」と考え、とにかく走った。年間106盗塁という記録。ヘッスラは怪我のリスクを考えてしない。著者は指の怪我よりチームの勝利、という考え。作家の近藤唯之氏の文章が面白い。「福本の盗塁には生活実感がない。広瀬は塹壕からとび出して行く」(大意)。なお、著者の知る限り、足の速さでは飯島秀雄氏が一番で、次は南海にいた大戸雄記氏ではないか、とのこと。足が速かったので1試合10守備機会という記録を作った。二千本ヒットのお祝いは歌手の黒木憲氏に酒場で会った時に2曲歌ってくれただけ。昔は騒がれなかったようだ。盗塁の塁上の駆け引き。誤魔化せないのは目線。守備の目で送球を判断してどちらに滑り込むかを決めていたらしい。一塁ランナーで一二塁間にボールが飛ぶ。大阪球場で歓声が響けば二塁を回る、ため息ならばストップ。ランコーを見て速度が緩むのを防ぐための技術。ちなみにノムさんは本塁上であらぬ方を見ていて、いきなり捕球してランナーを殺していたそうな。

 南海のドケチぶりは晩年の話。(ソックス、ストッキング自前には泣いた。)ノムさんが年俸1億を超えていたのは有名だな。で、長嶋をはじめ、大物選手の争奪戦には必ずと言っていいほど絡んでいたし、大リーグと提携していたし、鶴岡親分の発案に金を惜しまなかったし、一言で言って野球界のパイオニアだった。ノムさんの離脱前に、南海は江夏獲得のためにエース江本、後の中継ぎエース池内、主力の島野外野手を放出していた。そしてあの騒動。著者が監督を引き受けたときにはチーム力はがたがただった。良い選手は入ってくるのだが、特に投手は長く活躍できなかった。それは小生が見ていた。久保寺氏の急死は衝撃的だったなあ。これがプロ野球選手会が労組になるきっかけとなり、そして2004年の1リーグ化を阻止し、楽天誕生にまで繋がる。その歴史は慰めになるか、どうか。満を持して穴吹さん、杉浦さんが登板するも、昔日の力を取り戻すに及ばず、身売りに。87年は9月まで優勝争いしていたが結局9月に負けまくってBクラスに。次の日本一は1999年。親分は翌年、スギさんはその翌年に天国へ旅立たれた。

 「あとがき」は蔭山氏が生きていたら?という悲しいお話。著者は最後に言う。もし生まれ変わったら?という問いに、「南海のようなチームがあったら、もう一度プロ野球選手になりたい!」と。

 灰田勝彦版の南海ホークスの歌にリンクを貼って終わろう。
https://www.youtube.com/watch?v=QneM2t3O9XE
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昔話5

2014-11-05 19:28:00 | よしなしごと
 寒くなってきた。夜の布団の冷たさが辛くなる季節はもうすぐだ。思い出すのは豆炭のアンカ。練炭の火鉢に豆炭を置いていこして、アンカに入れる。2~3時間暖かく、朝には冷えているのも素晴らしい。いつまで使っていたかはよく覚えていないが、電気アンカが入った時に取って代わられただろうから、小学5年(1976年頃)だろうか。

 練炭は祖母がなくなるまで使っていたと思う。1980年頃までか。練炭は結構優れもので、あれの上に水の入ったヤカンを置いておけば冬の乾きやすい空気を程よく加湿してくれた。餅を焼くのにもベストの道具だ。ただ、手間が鰍ゥるし、一酸化炭素中毒の恐れがあるから廃れたんだろうな。
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