TAMO2ちんのお気持ち

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読書メモ:『ブッダはなぜ 女嫌いになったのか』

2012-08-14 11:50:00 | 読書
 『ブッダはなぜ 女嫌いになったのか』(丘山万里子著、幻冬舎新書154)

 以下、一八禁。本そのものがそういう内容なのだ。あと、ハードな「聖者様ブッダ」を信仰している人も。この本が示すところによると、ブッダを含め、その周囲には爛れたセックスが瀰漫していたのだ。

 仏教は女性差別的と四六時中批判される(笑)。まあ、この言葉が一番有名だな「女性(にょしょう)、救い難し」。だが、文字どおりに受け取ることは勿論出来ない。ブッダは男である。男にとって、女性は他者である。この言葉は、他者に相対するときに人間が様々な欲望にまみれ、揺らぎ、焦がれ、求めても得られないこと(愛執)を示していると思う。逆に女性から見たら「男性、救い難し」であろう。

 さて、ブッダ。母親であるマーヤーがブッダ生誕後、すぐに亡くなったのは有名な話。「マーヤー」とは「幻」という意味。ブッダは母親の喪失を幼時から感じていた。そして、筆者の推測だが、父親の後妻であるマハーパジャーパティー(マーヤーの妹)と歳は余り違わず、小さい時から一緒に過ごしてきて、思春期の頃に、父の妻となるために離れたらしい。彼は、マハーパジャーパティーに母の面影を追い求めていた。

 という話を書くと、日本人なら源氏物語の光の君と藤壺を思い出すだろう。そう、二人に男女の思いがあっても不思議ではない。そして、ブッダは、王子として幼少のころから――おそらくは将来の訓練として――女をあてがわれた。インドの聖典(性典)、『カーマ・スードラ』に従ったセックスをしていたのは、当時の王室のデフォかと。だが、そこには肝心の愛はなく、空しさが募る。

 ある日、若いブッダのために演奏をしていた女性たち――女性楽団(喜び組みたいなものか?)――が、ブッダが眠ってしまってやる気を失い、だらしなく眠る。女性器丸出しで。途中で目が覚めたブッダはそれを見てしまう。それを見て、美しく着飾った女性たちの「醜い本質」を見た思いになる。(じゃあ、途中で寝てたお前はどうやねん、という突っ込みはなしよ(笑))。

 母は幻、愛を感じる愛しい義母とは会えず、ブッダは孤独を感じる。彼は全ての「幻」、空しさの根源について思索する青年になる。

 そんなブッダは、王室維持のためにヤシャードラーと結婚をする。彼には中々子供(あるいは、男の子)が出来ない。だが、六年経て、ようやく出来る(ブッダの子ではなく不義の子という説もあるらしい)。しかし、それを見て、跡取りが出来てしまった、彼が育つ責任が出来たということは、それに縛られることだ、と、実に「喪」なことを考えてしまう。息子に「ラーフラ(束縛)」と名付け、生まれた時、あるいはその七日後に家出してしまう。(出家というより、家出だ。He is leaving home, bye-bye!)当時の高貴な人の生き方を示したとされる、四住期の原則からしても、外れている。

 何というか、世俗的には無責任一代男。だが、ブッダにはそれだけ深い悩みがあった。残された者の嘆きようは様々。悪妻とされるヤショーダラーの嘆きは、実に世俗的に人間臭い。誰が責められようか? ましてや、ブッダの心は自分にではなく、義母にあることを知っていたとしたら? ヤショーダラーは以下の事を言う。至極尤もだ。


 正しい行ない(四住期に従い、いずれは妻と出家すること)をともにすべき妻を捨て、独り苦行にいそしもうとするような人間に、どうして正しい行ないなどありえようか

 この世でも来世でも、何とかして夫が私を捨てないでほしいというのが私の望みです。

 このかわいそうなラーフラは、父の膝で動きまわることが決して許されていないのです。

(p144あたり)

 そして、捨てられた私の心も壊れない程度には残忍だ、と自己分析する。伝者、馬鳴の狙いとは別に、一人の女の悲痛が伝わってくる。仏教的には、勿論、愛執から夫を罵る悪妻ということになるのだが。一説にはヤショーダラーの弟とされる、ブッダの最大のライバル、ダイバダッタ(デーヴァダアッタ)が心を痛め、ブッダに憤らないということがあるだろうか?

 一方、マハーパジャーパティーは? ひたすらブッダの身を案じる。


 王子の足は、指の間にきれいな網が広がり、柔らかで、くるぶしが隠れ、蓮のように美しく、足裏の中に輪の印がついています。そのような足が、どうして固い森の大地を歩くのでしょうか。

 王子の力強い体は、宮殿の最上階で眠ったり坐ったりするのに慣れており、高価な衣服や沈香やチャンダナの香料を用いて大事に扱われています。そのような体が、寒い時や暑い時、また雨の続く時に、どうして森にいるのでしょうか。

(p91あたり)

 『ナラ王』の妃と同じである。王座を追われた王と共に逃げた妃は、森の中で、夫に捨てられる。だが、彼女はひたすら王の安全を願ったという。

 さて。ブッダは当時広まっていた苦行がナンセンスであると見抜き、悪魔との対話を超えて悟りを開く。愛執こそが苦の源、それを断つための訓練(修業)が大事であると、説く。全ては連なっている、それを断ち切るにはどうすればいいか。ブッダが感じた愛執の苦しさは、勿論義母に対するものである。妻から向けられた愛執はさらに、「憎悪・迷妄・邪見・煩悩」にまみれたものだったかも知れない。それらもまた、愛執から生まれるのだ。この愛憎の泥沼を――たとえそれがマハーパジャーパティーのように、極めてアガペーに近いものであったとしても――知ったブッダは叫ぶ。「絆を断て!」「愛するものを作るな!」

 スラヴォイ・ジジェクに言わせれば、「人間でなくなれ」と言っているようなものであろう。だが、悟りとはそういう境地であるという理解は、日本では存在する。またカント哲学では、敢えて不可能を提示することで、それに近づくという方法論がある。(『永遠平和のために』はそういう本として読まれるべきであろう)

 で。実際のところ、ブッダが行なったのは、どうだったのだろうか。彼は、故郷に帰ったら、息子と異母弟(ナンダ)を出家させた。異母弟がセックスの日々――結婚したばかりの妻とだけではないと考えられる――に溺れているのを懸念したようだ。昔の彼と同じ愛執に捕われている、と。七日後、ヤショーダラーは息子をブッダに送り、財産を渡すように言わせる。「財産など囚われの根源だ、お前もこっちに来なさい」と出家させてしまう。ヤショーダラーが恨まないはずがない。ブッダの父であるスッドーダナは「お家断絶」を考え、絶望の淵に。どちらも、仏教的には愛執である。そして、シャカ族は滅びの日を迎える。三度侵略を防いだブッダだったが、四度目は放置したとのこと(ブッダ入滅後とも言われる)。彼にとっては、愛執の園であったのだろう。

 さて、マハーパジャーパティー。夫であるスッドーダナの死後、出家を願い出るが三度断る。女性という他者、最も愛執を体現する女性が入り教団が乱れることを懸念したのだ。彼女は出家を決意し、ブッダの下に行く。第一の弟子、アーナンダが取りなし、尼となることを認める。それにしても、尼に厳しい戒律を課した上で、「これで仏法は五百年しか持たない」と嘆くブッダって(苦笑)。女の実在が問題なのではない。女の作用が問題なのだ。それは容易に男の実在、男の作用と言い換えることもできよう。だが、この試練に耐え、ブッダとマハーパジャーパティーは同志・御同胞として絆を作ることになる。あれ?

・悪漢=ダイバダッタ。初期教団の原理主義を守ろうとして分派活動を行った人。それが「罪」とされる、ということは、ブッダは大衆化することを望んでいたということか。宗教団体や思想団体は、常に大衆化と純化の狭間でまた裂きにされる。

・愛執の業火をくぐり抜けなくては、おそらくはアガペーに近づけない。恐らく、人間はそういう風に出来ている。「諦」とはコントロール。それを知らずして、どうやってコントロールするのだ? いきなり滅することを、超越的に論じるのは、破滅的カルトだと小生は考えている。

・この本の、キリストとの対比(出生、「女よ」、などなど)は、面白かった。偉大な喪男たち。だが、実は、どちらもリアルで女と「接して」いる!

・この著者に仏教関係者から誹謗中傷罵詈讒謗来ないかな(笑)。
コメント (2)
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