『「世界征服」は可能か?』(岡田斗司夫著、筑摩書房)
男の子の多くは大抵夢想する「世界征服」。姿形を変え、その妄想は一生を呪縛する。社長になりたい、総理大臣になりたいとか、そういうモノだけじゃなく、好きな分野でのオンリーワンとか。ここではとっても分かり易いショッカーなんかによる世界征服から話が始まる。大坂仰山党という悪の結社を領導している(ことになっている)小生としても気になる話だ。
さて、ショッカーなどの偉大なる先輩諸組織が失敗した理由。それは、作戦の拙さ(これは、ガキでも分かる話だ)のみならず、目的の明確化の失敗にもあるということだ。世界征服して何をしたいのか?と。目的と手段の弁証法的関係を捉えられないと、革命組織を含むあらゆる組織は失敗するということだ。
また、征服の事前のイメージも大切だ。鶏20匹飼っていても、鶏を支配しているとは言わない。実際に支配しているのだが。支配とは、同等(もしくはそれ以上)の人間を支配してこそ、言えることなのだ。同等ではなく、それ未満だと、それは只のお世話なのだ。さて、征服をしても、そのことを誰も知らず、一人で「ふっ、愚民どもめ、大衆は豚だ! グワッハッハッハッ(『男組』を思い出して)」とホザいたところで、空しい。同等もしくはそれ以上の人間どもが「さようでございます!」と言ってこそ。茶坊主という支配階級が必要なのだ。で、人間の恐ろしいところは茶坊主がいつまでもそれを演じてくれるとは限らない。人心が離反することがあれば、寝首をかかれる。また、齟齬があったりなんかすると、自分の意思とは違うことをされるかも知れない。茶坊主に不審感が強まると、自分で何もかもしなくてはならない心理となり、ローマの皇帝のように過労死する。物凄く誠実で、親身になれ、人々に慕われ、判断能力に優れ、立派な立派な人物でないと世界征服を維持することは出来ないのだ。そんな人物なら、世界征服という浪漫よりも会社経営でもしておいたほうがいい。そういう映画もあるらしい(笑)。
また、ちょっと別の話。かつて世界征服が可能と思われたのは、つまるところ情報が流通せず、特権的に情報を握り、面白いことを自分たち(支配階級)だけ知り、享受する関係にあったからだ。自由主義経済でかつての王侯貴族の贅沢は庶民の知るところとなり、それに留まらず必死こいて自由主義経済の下、大衆は様々な娯楽や享楽をウケ狙いで(??)つくりまくり、安価で大量に流通させた。はっきり言って、かつての階級社会よりも今の労働者のほうが贅沢だ。こういう状況では、贅沢は銭金の多さの問題に帰着する。「階級」は崩壊し、「階層」だけが存在する。労働者階級はエスカイアのクラブのことなど、想像できないのが階級社会なのだ。エスカイアに出入り出来るのはお金の問題になった今、「階級」社会とは言えない。茶坊主を醸成できないのだ。情報の遮断を利用した、支配は不可能なのだ。
世界征服は基本的に不可能、というのがとりあえずの結論。しかし、その自由で民主的でPCな世の中(今の世の中)が住み良いかというと、これまた別の話。自由経済は貧富の差を生む。無階級社会の極北では畜群化レベルでのフラット化が進み、規律/訓練に支えられたインテリの極北としての重みと厚みのある教養は廃れ、オルテガが暴いた「大衆の反逆」の社会となり、種々のファシズムを誘発する。これはこれで生きにくく、状況次第では「革命」を誘発するのではないか? 「革命」を防衛できる唯一のシステムは、独裁であり、それは世界征服への野望を秘めることであろう。共産主義がそうであったように。著者の結論めいたことを引用しよう。(p185)大坂仰山党は、世界征服を目指したい。同志・岡田とともに。
世界征服を目指す人とは、現状を否定する人のことです。(TAMO2註:悪人のこと)
人に優しく、環境に優しく。良識と教養ある世界を目指すことによって、「悪」の栄える世界を目指しましょう。
「いいものを、より安く」ではなく「人を出し抜いて得するのはやめよう」。
「トレンドに敏感に」「自分のしたいことを探そう」ではなく「お年寄りを大切に」「ちゃんと学校で勉強しよう」
いま現在の「幸福」と「平和」にノーを言うこと。
新しい「幸福」と「平和」を世界に宣言すること。
これが新時代の、世界征服への合言葉なのです。
読み進めるにしたがって物凄く真面目な社会・政治学の本になっている。悪の結社・大坂仰山党の党員諸君には是非とも読んでいただきたい。
男の子の多くは大抵夢想する「世界征服」。姿形を変え、その妄想は一生を呪縛する。社長になりたい、総理大臣になりたいとか、そういうモノだけじゃなく、好きな分野でのオンリーワンとか。ここではとっても分かり易いショッカーなんかによる世界征服から話が始まる。大坂仰山党という悪の結社を領導している(ことになっている)小生としても気になる話だ。
さて、ショッカーなどの偉大なる先輩諸組織が失敗した理由。それは、作戦の拙さ(これは、ガキでも分かる話だ)のみならず、目的の明確化の失敗にもあるということだ。世界征服して何をしたいのか?と。目的と手段の弁証法的関係を捉えられないと、革命組織を含むあらゆる組織は失敗するということだ。
また、征服の事前のイメージも大切だ。鶏20匹飼っていても、鶏を支配しているとは言わない。実際に支配しているのだが。支配とは、同等(もしくはそれ以上)の人間を支配してこそ、言えることなのだ。同等ではなく、それ未満だと、それは只のお世話なのだ。さて、征服をしても、そのことを誰も知らず、一人で「ふっ、愚民どもめ、大衆は豚だ! グワッハッハッハッ(『男組』を思い出して)」とホザいたところで、空しい。同等もしくはそれ以上の人間どもが「さようでございます!」と言ってこそ。茶坊主という支配階級が必要なのだ。で、人間の恐ろしいところは茶坊主がいつまでもそれを演じてくれるとは限らない。人心が離反することがあれば、寝首をかかれる。また、齟齬があったりなんかすると、自分の意思とは違うことをされるかも知れない。茶坊主に不審感が強まると、自分で何もかもしなくてはならない心理となり、ローマの皇帝のように過労死する。物凄く誠実で、親身になれ、人々に慕われ、判断能力に優れ、立派な立派な人物でないと世界征服を維持することは出来ないのだ。そんな人物なら、世界征服という浪漫よりも会社経営でもしておいたほうがいい。そういう映画もあるらしい(笑)。
また、ちょっと別の話。かつて世界征服が可能と思われたのは、つまるところ情報が流通せず、特権的に情報を握り、面白いことを自分たち(支配階級)だけ知り、享受する関係にあったからだ。自由主義経済でかつての王侯貴族の贅沢は庶民の知るところとなり、それに留まらず必死こいて自由主義経済の下、大衆は様々な娯楽や享楽をウケ狙いで(??)つくりまくり、安価で大量に流通させた。はっきり言って、かつての階級社会よりも今の労働者のほうが贅沢だ。こういう状況では、贅沢は銭金の多さの問題に帰着する。「階級」は崩壊し、「階層」だけが存在する。労働者階級はエスカイアのクラブのことなど、想像できないのが階級社会なのだ。エスカイアに出入り出来るのはお金の問題になった今、「階級」社会とは言えない。茶坊主を醸成できないのだ。情報の遮断を利用した、支配は不可能なのだ。
世界征服は基本的に不可能、というのがとりあえずの結論。しかし、その自由で民主的でPCな世の中(今の世の中)が住み良いかというと、これまた別の話。自由経済は貧富の差を生む。無階級社会の極北では畜群化レベルでのフラット化が進み、規律/訓練に支えられたインテリの極北としての重みと厚みのある教養は廃れ、オルテガが暴いた「大衆の反逆」の社会となり、種々のファシズムを誘発する。これはこれで生きにくく、状況次第では「革命」を誘発するのではないか? 「革命」を防衛できる唯一のシステムは、独裁であり、それは世界征服への野望を秘めることであろう。共産主義がそうであったように。著者の結論めいたことを引用しよう。(p185)大坂仰山党は、世界征服を目指したい。同志・岡田とともに。
世界征服を目指す人とは、現状を否定する人のことです。(TAMO2註:悪人のこと)
人に優しく、環境に優しく。良識と教養ある世界を目指すことによって、「悪」の栄える世界を目指しましょう。
「いいものを、より安く」ではなく「人を出し抜いて得するのはやめよう」。
「トレンドに敏感に」「自分のしたいことを探そう」ではなく「お年寄りを大切に」「ちゃんと学校で勉強しよう」
いま現在の「幸福」と「平和」にノーを言うこと。
新しい「幸福」と「平和」を世界に宣言すること。
これが新時代の、世界征服への合言葉なのです。
読み進めるにしたがって物凄く真面目な社会・政治学の本になっている。悪の結社・大坂仰山党の党員諸君には是非とも読んでいただきたい。