TAMO2ちんのお気持ち

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読書メモ:『21世紀のマルクス主義』

2006-11-23 22:41:32 | 読書
『21世紀のマルクス主義』(佐々木 力著、ちくま学剣カ庫)

 四トロ三次会でぴよ丸号氏が触れていたので、東京で購入。2日で読破。そのくらい面白かった。まあ、いつも社会主義関連の本に見られる「じゃあ、具体的にどうすんねん」という思いは残ったが。スターリン主義が有効だったのは、まさにその点に付け込んたからだ。徹底した権威主義は民主主義の破壊によって保証されたが、ボリシェヴィキがそこから回復しなかったのは、レーニンの早過ぎる死もあるが、レーニン個人云々の問題ではないだろう。レーニン以外のボリシェヴィキと大衆がなぜ、戦時共産主義や分派の禁止という民主主義の制限から民主主義の回復をなせなかったか。これが明らかにされなければ、革命を意図することは言うに及ばず、語ることについても資格がないのだ。なぜならば、革命はカタストロフを齎すものであり、敵への独裁、否、味方への独裁も余儀なくされるからだ。この本は、ジジェクの本の副題「レーニンを繰り返す」から始まる。真理の政治~(悲惨な)結果の引き受け、そういう覚悟、能動論、それこそがレーニンの偉大さだ。革命という事態については、レーニンに組する。だが、そこにとどまっていてはレーニンの十全な構想たりえない。逆説、逆説こそが歴史なのだ。断絶こそが歴史なのだ。そこまで踏み込まれなければ、パルタイはレーニンにもかかわらず、カウツキー的失敗を繰り返すだろう。

 はあ、すっきり。本に入る。

 序章で、キリスト(教)~パウロ という構造を マルクス(主義)~レーニン に置き換える。今、必要なのはパウロ(レーニン)とする。確かにそれにより、キリスト教やマルクス主義は力を持った。今、「あらゆるマルクス主義の成果あるもの」について、同様の脱臼~構築が必要だと小生も思う。だが、キルケゴール的に繰り返されなければならないはずだ。それについてはこの本はどうだろう。スターリンによって固定されたレーニン主義なるものをジジェクは排することから出発したはずだ。その上で、ジジェクはスターリニスト(笑)を自称する。主の(現世的)無力を呪い、そして祝福したナザレのイエスのように。そのことを、トロツキーに依拠してどのくらい可能だろうか? やはり、レーニンあってのトロツキーなのだと小生は思う。

 さて、第一章では櫛田民蔵による先行マルクス主義者の批判を引用することから始まる。トルストイヤン的な河上肇のマルクス主義(光のマルクス主義とでも言おうか)に対して、この世の闇を抉ることからマルクス主義は立つのだ、と。同感である。著者はさらに、過去の社会主義の闇をも抉らなければならないとする。これも同感である。これにより、理想主義的悪弊は避けられるはずだ。そして、市場主義をも含めた資本主義/社会主義の20世紀を全体主義として著者は批判する、藤田省三を引用して。。今は宮崎学流に言えば“デオドラント・ファシズム”、この本的には「安楽への全体主義」と区分される。これは、真綿で首を絞め、キッチリ型に嵌める全体主義である。だから、批判や脱却はヨリ困難だと小生は思う。アメリカ的自由(市場)主義、あるいは民主主義が全体主義化するのは、型に嵌ることを「是」とする欲望が、普遍的だからだ。だから、批判も慎重にならざるを得まい。

 第二章は、プロレタリア独裁論から入る。小生はあちこちで書き散らかしているように、プロ独は敵の作った構造に照応する。勤労大衆の多数参加だけでなく、敵の排除を“必ずしも”意味しないと思う。そして、緊急避難的措置であり、開放の回路が必要だ。また、根本的な変革(革命)を射程に入れるから、改良が可能になる、という指摘は大事。根源から構想するからだ。ブルジョア革命は、一時、ロシアでは制度上は多くの点で解決された。しかし、血肉化する前にレーニン@混乱を制御した独裁者は去った。その後、レーニンはスターリンによって聖列化され、教条化され、もう一度死んだ。そして、開放の回路は閉ざされた。この経緯について考察した中国人に陳独秀(徳先生)がいる。彼は、マルクスを超えスピノザまで遡って民主主義を理解していた。それは、自由のための民主主義であった。

 経済では、計画(のみ)経済の不可能性を指摘し、混合経済を言う。市場で検証される計画経済である。こちらのほうが変化に対応できる。スターリンは、「いたるところで命令が支配している」経済を作ってしまい、批判への唯一の回答は弾圧であった。これでは経済は死ぬ。そして21世紀初頭、庶民の手の届かないところで元官僚どもによるロシア経済の強盗的乗っ取りがなされた。

 第三章は現在の資本主義について。レスター・サローという投資家の言葉「資本家は労働者に対して階級闘争を宣言し、勝利を収めているとも言える」を引用して、端的に現状を著者は示す。反撃の回路としてのイスラム原理主義の不可能性を指摘しつつ、スピノザ由来のマルチチュードのアモルフ=行動の図式になっていない を指摘する。そして、今一度、共産党宣言の生命力を振り返る。トロツキーは20世紀に資本主義の生命力の過小評価、プロレタリアートの革命的成熟度の過小評価を批判しながらも、その本質は失われていないとする。著者は21世紀、資本主義の現状を捉える中で、基本的スキームの変化のなさを指摘する。しかし、自由主義段階、独占段階を経て、今やマンデルの言葉を借りれば「第三期(後期)資本主義」の時代である。かつてのむき出しの帝国主義ではなく、(労働時間基準であろうが)不等価交換、自然からの苛烈な収奪の資本主義の時代である。自然科学などに依拠した技術はそのために使われている。この位相を踏まえた社会主義でなければならない。

 さて、第三章で書かれたように、過去のテキストをそのまま現在に当てはめるわけにはいかない。第四章では“21世紀社会主義に要請されている前提事項”について書かれる。ブッシュのペテン選挙で成立したアメリカは、夜郎自大を絵に描いた国家になった。"affluenza"という無制限の欲望の肥大を要求する社会、それを世界に押し付けること、反発には軍事で。こんなことにコスモは耐えられるはずがない。よって、著者は「環境社会主義」を言う。科学史家として、資本主義のもとでの技術革新だけでは突破できないことを主張し、根元的民主主義を伴った環境社会主義を訴える。根元的民主主義の可能性を広げるものはIT革命と世界大の民衆連帯である。

 第五章は「反帝国主義=社会主義の東アジアを目指して」と題し、中国の民主化運動の原点、五四運動から入る。愛国・反帝(日本が帝国主義として振舞ったことで、反日である)のこの動きは、現在にも影響を与える。共振した日本人としては吉野作造が挙げられよう。中国では、ブルジョア民主主義の地平から、トロツキズムまで突き抜けた陳独秀が再び取り上げられる。吉野はブルジョア民主主義、国際民主主義の地平にあったが、陳独秀は突き抜けた。突き抜けたが故に、共産党から除名された。この歴史を克服しない限り、世界で共産党を名乗っている党は、スターリン主義の軛の下で、民主主義の擁護者足り得ないであろう。だから、大陸中国のあの党は、今のままでは民主主義を擁護することはないのだ。実は、それは、我らが(笑)日共も同じだ。こちらはどうでもいいか。早晩どうせ死ぬし。冷戦終結後、共産国家がアジアにある、ということはこの地平で軛なのである。東アジア全域で、根元的民主主義のための闘いという地平においては、我々は等しくスタートライン前なのだ。

 だが、時代は待ってくれない。こういう後進性を踏まえた上で、やはりなお東アジア共同体論を著者は言う。まずは「東アジア平和共同体」として。政治′o済民主主義のための出発点として。日本も中国も、遠くない将来行き詰まるのは火を見るより明らかだ。相互理解、そしてそのための民主主義=社会主義のための準備はしておかなくてはならないのだ。


 さて、トロツキストという好人物の系譜の人たちに対する批判を少し書きたい。理性主義的なものが大事なのは言うまでもない。しかし、大衆を動かすのは理性主義を超えたパトスなのだ。この本の枠組みに異論はない。だが、肝心なのは行為に移す主体をどう醸成するか、理論と実践のつなぎなのだ。やっぱりレーニン万歳!なのだ。


コメント (9)
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