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仮の包装(1)

2016年10月22日 | 仮の包装
仮の包装(1)

 踏み入れた電車のなかには珍しくトイレがあった。用もないのにその一室に入って鍵を閉めると、ぼくの身体は別の場所に移行した。本当は身体はへたったままで気持ちだけが地上の約束事である拘束を忘れ、浮遊したのかもしれない。

 昨夜の九時ごろから飲みはじめ、終電に間に合わなかったため始発までむりやりに飲んでいた。動き出すといちばん安い切符を買い、改札を抜けてどこの方角に向かう電車か分からないままホームに入ってきた最初のものに乗った。そして、トイレがあった。芳香剤の役目は充分にありそうだが、経費は誰に押し付けるのか。決定権のない自分は顔をしかめた。多少は気分が悪かったのかもしれない。その狭い空間に嫌悪感を抱こうとしたが、間もなく自分を失った。

 昨夜のとなりの客は昭和が終わったと言い、その時代のきらびやかさを熱弁していたが、ぼくの記憶ではその輝かしき時代は数年前に幕を閉じていた。おそらく井上陽水が最後のメディアの走者だった。バトンはつながらず、もしかしたらつながって別の時代になった。ぼくは、未成年という時期を終えたが、そのはっきりとした区切りはどこにもなかった。酒を数年前から飲み、犯罪者として紙面やニュースに載ることもないので、未成年の恩恵を受けたこともなかった。

 ドアを叩かれて目を覚ます。電車は終点に着き、車掌は困惑した顔をのぞかせた。行き先を問われ、ぼくは答えることができなかった。そのまま、折り返す電車の座席にすわっていたが、思い直して料金を精算して改札を抜けた。

 潮のにおいがする。タクシーが数台だけ甲羅干しをする亀のように並んでいた。待つのが唯一の仕事のようだった。しばらく歩くとにおいの元となる波の音が聞こえる。ぼくは公衆便所を見つけて鏡で顔をのぞく。目は充血しているがいつもの馴染んだ顔だった。一晩で忘れることもない。冷水で顔の油分を消して、パーカーの袖で拭いた。そして、意味もなく財布の札を数える。今日は日曜だった。明日、仕事がある。それより先に重要なこととして同棲相手に連絡を取る必要があったが、自分には義務がないかのように、その行為を奥に引っ込めた。

 予想を感じていたのか民宿の看板で一泊分の値段を確認する。それは交渉の余地があるのか、それとも、絶対という領域にあるのか判断できない。だが、ぼくの猶予はこの一日だけであることも確かだ。海の日射しは秋なのに強く、ぼくは昨夜の酒場のワイセツ気味なカレンダーの色彩を思い浮かべて、その日付けについての気温や空気感を浅い統計のもとに再考した。



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