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壊れゆくブレイン(107)

2012年08月26日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(107)

 ぼくは東京への出張に行き、裕紀の叔母を病院に見舞いに行くことを楽しみにしていた。見舞いを楽しみにするという言葉自体が矛盾していた。いろいろと報告を済ますという義務感と、ぼくにはまだ裕紀が種を蒔いていた未来があるかもしれないという漠然としたものを待ち望み、淡い気持ちを伝える喜びがあった。しかし、なにごとも遅いということがあるのだ。

「すいません、入院患者の部屋番号をききたいのですが」ぼくは患者の名前を告げる。対応したひとは気まずそうな顔をしたが、直ぐに事務的な口調にかわる。彼女はいない。退院したわけでもない。数日前に彼女は亡くなっていた。ぼくらには個人的なつながりがあったが、それは当人同士が知っている糸で、誰かを巻き込んでいる関係ではなかった。だから、ぼくには連絡がなくても仕様がない。でも、それはあんまりだ、という気持ちがあった。

 彼女の遺体はもうない。ただの煙と灰になった。ぼくは、こうして裕紀のときと同じように、大事な儀式に加わらなかった。結び付けた裕紀がいない以上、ぼくらは他人だった。でも、確実に裕紀を媒介にしての友人になっていた。友人のように思い出話をして笑い合う関係にはなれなかったのだが。ぼくらに共通するのは喪失感という悲しみだけだった。しかし、ぼくらはその喪失を交換して確かめる必要があったのだ。これで、ぼくは裕紀のことを話せる仲間を失ったのだ。これで、ぼくがいずれ死ねば、裕紀のこともこの地上から滅びるのだった。痕跡はなにも残らない。

 ぼくは裕紀の叔父に電話をする。彼はぼくと叔母との関係の継続をあまり知らなかった。そして、その後ろ向きの関係を嫌っていた。そういう意味が含まれていたのか、ぼくに連絡しなかった。そもそも、ぼくの連絡先を知らなかった。

 彼も喪失感を抱いていた。それでも、ここ数年、病気で苦しんでいた妻がその状態にとどまらなくてもよくなったという安堵も同時に感じているようだった。ぼくは、なぐさめたかったが上手い言葉はでてこなかった。

「ひろしさんも、自分の生活があるんだから、そっちを大切にしたほうがいいよ。終わった関係より」
 ぼくは手遅れになった事態に当惑していた。しかし、こういう場面がいずれ来るのだということぐらい、想定していても良さそうだった。だが、ぼくは失うということを恐れていた。頭の片隅にも入れたくなかった。それで、結果としてぼくはより大きな悲劇と対面しなければならなくなる。準備をしていても悲しむものなのだから、いきなりそれと直面すれば、悲しみ以上のやり切れなさがぼくの身体の核には残った。東京に来れば、毎月ではないが、連絡を取り合って、ぼくらは会った。代わり映えしない近況も話した。その相手はもういない。ぼくの思い出にしかそれは残らない。

 美緒という少女はこのことを、どう感じているのだろう。最近になって彼女はやっと裕紀のことを情報として手に入れる。自分に似た顔をもつ親類の若過ぎる死。さらに、その女性を溺愛した女性を失った。生きるということが残酷な別れに向かうレールに過ぎないのだ、と思うかもしれない。それは、自分の思いあがった考えなのだろうか。若い、柔らかいこころは、いとも簡単に悲劇など乗り越えてしまうのだろうか。

「ぼくが最初の結婚をしたとき、あまり味方がいなかったんだ。奥さんの叔母さんがいてね、とても、優しくしてくれて、いろいろと世話をしてくれた。ぼくは、いまになると無頓着な人間だったと気付くけど、結婚できて単純に嬉しかったということもあったし、仕事で忙しかったこともあるし、その奥さんにも辛い思いをさせてきたかもね、と気付いた」

 ぼくは東京で会うことになっていた広美が遅れている間に、先にいたその友人である瑠美という女性を前にして、こんな発言をしていた。

「優しいひとだったんですね」
「そうなんだ。今回、東京に来て会おうと思っていたけど、もう亡くなっていた」
「そのひとが、亡くなっていた?」
「そう」そこに広美が入ってきた。ぼくは前の妻のことを話している自分を嫌悪して、直ぐに止めた。それからも快活に振舞い、いつもの義理の父の役柄を演じた。楽しい時間は過ぎいくが、悲しみは錨を下ろし、そこに固定する印象をもった。ふたりになったら、瑠美はぼくの前の妻のことやその家族のことを広美に話すだろう。けれども、ぼくは広美にも自分の実際の父のことを話せる余裕も与えたかった。彼女は意図して控えていたわけではない。ただ、記憶は磨耗していくものだ。それで、忘れ去られていくのだ。ぼくは、裕紀や叔母のことを口に出すことにより、それをどこかに刻み付けたかった。それが、関係のない瑠美という女性だったにしても。

 ぼくは、別れていつものビジネス・ホテルのベッドに横たわる。何の気なしに頭部にあった有線放送をつけた。
「ぼくは壁を縦横無尽に張り巡らす。なにひとつ、通過させることのない要塞。友情があった。でも、友情は苦痛にしかつながらない」と、若い男性の歌声が流れた。そのシンプルさのゆえにぼくの胸に突き刺さる。ぼくは岩なのだ。なんの感情ももたない石の固まりなのだ、と同じように思おうとした。だが、ぼくの石になり切らない目から涙が流れる。ぼくはそれを拭うこともできないほどの疲労感の固まりとして石になった。


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