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償いの書(63)

2011年06月04日 | 償いの書
償いの書(63)

 自分とは別の人間の存在が気にかかり、そのひとからの連絡を待ったりする。待ちきれなくなって、こちらから電話をかける。とくに、用件もないはずだが、用件のない会話から段々と話は弾み、それが長いものになっていく。ぼくも、裕紀と再会したころのことを思い出していた。だが、ぼくらは勤務地が近いゆえ、朝のひとときに会うことができた。笠原さんという女性はいま、どういう立場に自分を置いているのだろう、ということが多少だが気にかかった。裕紀もそのようであり、朝食をとりながら、

「あのひとたち、どうなったかしらね?」と、それとなく訊いた。ぼくに答えはなく、いくつかの予想を膨らませた言葉しか出てこなかった。ただ裕紀も期待の言葉をいうのみだった。だが、うまくいくのが正しいのか、あのひととやっぱり縁がなかったみたい、というのが将来的に間違っていないのかは誰にも分からなかった。だが、ふたりは似合いそうな感じがしたのも事実だった。

 その答えは遠くない日に訪れた。ぼくらは上田さんの会社が企画した写真展に行った。それを見終わったあと、久し振りに智美にも会う予定だった。そこに行くと、受付に笠原さんがいた。最初に見たときから、彼女の顔は恋をしている女性の顔であることが分かった。

「なんだ、うまくいったみたいだね」とぼくは気軽に声をかけた。間違った発言をしていないという充分な確信が込められていたかもしれない。
「え、なにか聞いたんですか?」

「聞いてないよ。なんか表情が語っている」彼女は自分の表情を確認できないもどかしさのようなものを表していた。それ以上、言葉を交わす暇がないほど、次々とぼくらの後方にお客さんがいた。それで、ぼくらは薄暗い照明のなかに入り、写真を見た。上田さんはラグビーをしながらも、こうしたことに関心がある一面をぼくらに教えてくれなかった。ただ、練習の合間にふざけた話をする先輩だった。だが、それから大人になって離れた場所から眺めてみると、硬派であり一途な面があるまじめな人間であることが理解できた。その仕事ぶりは真摯なものであり、続々と素晴らしい企画を打ち立てては、地道に成功させていった。笠原さんもそういう一面があることがときには素敵に見えるとこの前、語っていた。だが、近くにいるとやはりやんちゃ坊主のような片鱗もあらわす先輩でもあるらしい。ひとの評価をする場合、ある程度の距離が必要であるかもしれないと、ぼくはその部屋で考えたことを思い出す。それゆえに、ぼくは裕紀をうまく評価できず(それは生ものである)、近いところにいない雪代の過去の行いをぼくは積極的に肯定していた。それが思い出の利便でもあり、象徴でもあった。

 ぼくらは夕方になる前にそこを出た。出る前にまた受付の方に戻り、笠原さんに遠くから会釈した。

「彼女、きれいになったね」と裕紀が素朴な感想を言った。そこには時間の距離もあり、また、空間の距離もあった。ぼくに別れ話をした彼女はある店の隣にいた。椅子にすわる彼女と接近していて直ぐにでも触れられそうな距離にいた。そのときの魅力と、ちょっと遠目からみた彼女の魅力をぼくは天秤にかけている。そして、声の質や、独自の匂いというものが、そもそも人間には備わっていることをぼくは思い出している。「そう思わない?」

「きれいになった。あいつも、いい奴そうだったしね」
「ラグビーをしていた人間にいつも甘い」と彼女は自論を吐く。ぼくの人間の採点にはスポーツをしていた有無がいつも入り込むらしい。それは、机の上での論議をいっさい信じていないことにつながった。ぼくらは同じような汗をかき、苦しみを分かち合ったのだ。高井君が乗り越えた辛さをぼくは知っており、そこから開放された喜びと切なさも想像できた。

「裕紀は、誰にでも甘いよ」と、苦し紛れにぼくは言った。以前、苦しませた過去のあるぼくとこうして生活するぐらいなのだからそれは事実なのだが、ぼくはその実例を言うことをためらった。

 あるところに行くと、智美が壁にもたれかかるように立っていた。
「こんにちは、彼は仕事から離れられないみたい」と上田さんのことを伝えた。
「智美ちゃん、きれいな奥さんになってる。雑誌のモデルみたい」と裕紀はその様子を述べた。
「きれいな服装をしないと彼がうるさくって」と満更でもない表情を作っていた。「裕紀はいつまでも若い。まだ20代前半でも通るような感じ」

「さすがに、それは」とぼくは余計なひとことを追加した。その後、ぼくらは立ち話をやめ、ある店にはいった。
「彼の後輩の女の子に男性を紹介したんだってね。その子が嬉しそうにしているって。ひろし君って、自分のことにしか関心がないのかと思っていた。自分の幸福を追求することしか興味がないのかと」と智美は感想を言う。それは、ぼくらの仲を知らなければ悪口ともとれた。しかし、ぼくらの長い関係があれば、それはお世辞にも聞こえた。いや、それは言い過ぎだろうか。やはり、嫌味と受け取るべきなのだろうか。

「ひろし君は、ただ、約束を破れない。わたしたちが10代のときにした約束を覚えていてくれた」その証拠を出し、裕紀はぼくを弁護した。
「それは、約束ではなく、償いというのよ、ね?」やはり、嫌味なのだろう。
 ぼくは、うんざりとした表情をして、店員に新しいお酒を注文する。そう、約束を果たさなければならない義務感というのは、裕紀に対しては償いなのかもしれなかった。


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