爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
日常は「系列作品」から
http://snobsnob.exblog.jp/
へ変更

仮の包装(20)

2017年02月28日 | 仮の包装
仮の包装(20)

「むかし取った杵柄」

 とひとり言を言いながら働いている。そうむかしでもない会社員時代。指揮命令に従う。なんどか失敗して、失敗の何たるかを覚え、同じ過ちを繰り返さなくなる。その一連の行動自体が杵柄ということになるのだろう。

「その席、ひとつ足りないよ。ボーイさん」

 レストランの団体の昼食を準備している。数は大事だ。頭数。多くても少なくてもいけない。ぴったりの数。

「分かりました」

「分かってるなら、ちゃんとやって」険しい顔の先輩はぼくを名前で呼ばない。そのときの役割を用いる。いまはボーイさん。受付に立てば、フロント係だった。それは一人前になるまでは存在を認めないということと等しいようだ。悔しくないといったら嘘になるが、あの地の新たなホテルで自信をもって働くまでの訓練期間だと思えば、そう辛いことでもなかった。

 人手が足りなくて、もちろん研修なのでいろいろなことをやらされた。ぼくは事務室で電卓を叩いている。レストランの団体さんの計算。合っている。

「数字が好き?」

 支配人がぼくの後ろからノートを覗きこんでいる。
「好きか、どうか考えたこともないです」
「考える前に好きになっているのが恋だよな。そして、気付いたときからいろいろ考え込んでしまうのも恋だよな」

「誰のことばですか?」
「ゲーテ。うそだよ、オレの自論だよ」彼は楽しそうに屈託なく笑う。「好きになれば大体のことは我慢できる。あいつはきびしいけど、裏表がないから」
「誰のことですか?」
「胸に手を当ててみろ」

 彼は立ち去る。ぼくは計算にもどる。この立場の名称を予想する。事務さん。会計さん。しかし、彼女はやって来ない。うわさに聞くと、事務の仕事が苦手なのだそうだ。ひとを教えることに生きがいを感じているのだろう。ときにはきびしいが、ぼくが所属していた運動部の先輩に比べれば、大したことはなかった。ひとは恐怖や威圧に対して尊敬をいだくのだろうか。のらりくらりと楽しそうな支配人をも尊敬できるので、正しい理論ではない。ぼくはコーヒーを飲む。お客さんも飲むものなのでとてもおいしい。事務室にいる限り、ぼくは自由だった。もっと計算するものがないか探すが、専門のひとも暇そうに会話をしているので、ここらで切り上げる。扉を開く前に鏡で襟元や髪形を点検する。ぼくはあの民宿でひげも剃らない自分がなつかしかった。

 夕食後、ぼくはももこに電話する。あの民宿が更地になったことを告げられる。その前から周囲にはなにもなかった。重機が入り、設計図をもとにした建物が生まれる。ひとは形のあるものを愛するのだろう。好きになるというのが簡単なことなのか、むずかしいものなのか電話を切ったあとも考えていた。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿