爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
日常は「系列作品」から
http://snobsnob.exblog.jp/
へ変更

仮の包装(2)

2016年10月23日 | 仮の包装
仮の包装(2)

 空腹であることを突然、主張された。駅のほうに戻り、換気扇からラーメンのスープのにおいを振り撒いている店の前でたたずんだ。その外観は数年前に営業を放棄しているようなたたずまいだった。扉が少し開いており、猫が鼻だけ出してから安全を確認したようにするりと通り抜けた。行き場所が決まっていたかのようにきょろきょろとすることもなく前進している。そのくせ、一心不乱という感じは与えない。太ってもなく痩せてもいない典型的な猫、路地に消えたところで、「いらっしゃい」と店の中から不意に声をかけられてびっくりした。

 ぼくは二本の指で扉を開ける。ここ以外に空腹を満たせる場所はなさそうだった。席にすわり壁のメニューを選ぶ意思がないかのようにながめる。すすけるということばのサンプルのような色合いだ。猫も標準ならば、うらぶれるという意味の平均的な場所。ぼくはチャーシュー麺を頼んでから横に置いてある新聞を広げた。

「それ、昨日のだよ。今日は新聞が休みだから」
「あ、そうですか」

 昨日であった日付けを確認すると、やはり昭和はとっくに終わっていた。その数年間にぼくは良枝と会って暮らすようになっていた。感慨にふける間もなく、ラーメンが湯気を出してテーブルに運ばれた。「お待ちどうさま」

 ぼくは行儀という観念もなく勢いよくすする。マナーなど中華屋にはいらない。新聞を横に広げたまま、ぼくは箸を動かす。すると、店主は調理場から出てきて水を注ぎ足したついでにそこに座り、テレビをつけた。

「観光ですか?」そこは観光客を呼び込めるような華やぎをもっていない地だった。「帰省?」

 ぼくはどちらにも該当しなかった。ひとには役割があるという当然の事実も忘れている。ぼくより役割がありそうな猫が小魚をくわえてもどってきた。それを汚い水の皿の前にいったん置いて、マナーがあるかのように、または食前のお祈りでもするかのように目をつぶって数秒だけ身体を停止させた。

「自給自足」

 猫は種を蒔くこともないので、その意味とは不釣り合いのようにも感じる。しかし、正確な意味など手元に辞書がない自分には分からない。ぼくはテレビの画面をぼんやりと眺める。今日の夜には雨が降ると言っているが、外は予感もできないほど気持ちよく晴れていた。ポケットから小銭を出して、カウンターに並べた。祈りを終えた猫は食事をはじめる。いつから店名を誇示しているのか分からない、いや、この店に名前などいらないのであろうと思いながらその薄汚れたのれんの下をくぐる。猫ほども行き先がない自分は、乗りもしないタクシーの姿をまた数えなおした。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿