爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
日常は「系列作品」から
http://snobsnob.exblog.jp/
へ変更

仮の包装(12)

2017年02月02日 | 仮の包装
仮の包装(12)

 理想と現実との差で悩むのが若者の、もしくは人類の特権のようでもあった。理想というものを手放してしまった自分に悩みはなかった。朝起きて、朝食の配膳をして、掃除をして、布団を干す。買い出しに行って、夕飯を作り、風呂を沸かす。すると女主人が病気になった。

「ももこを手伝いに行かすよ」と漁師は言う。彼女の高校生活も終わっていた。働きはじめるのは数日先のことだった。

「相談しないと、バイト代はいくらだとか」
「水臭いこというなよ。そのときは、そのときだって」

 ぼくは自分の雇用契約書もない。休日の保障や、有給の不払いの件を必死に戦ってくれる弁護士も、もちろんいない。そんなことを考える時間はトイレで座り込んでいるときだけだった。ぼくは魚を卸し、煮物を作ってご飯を炊いた。間もなく、裏口からももこが入ってくる。

「手伝いにきたよ」
「ありがとう」天使到来である。

 彼女は皿に盛りつける。いつもと感じが違う。若者というのは年々、センスに磨きをかけていく。ぼくは火をとめ、様子を見守る。

「お風呂、入れます?」とお客さんに声をかけられる。
「いま、見てきますので、もうしばらくお待ちください」

 ぼくは湯加減を確認する。バスタオルを点検して、足ふきマットを敷く。ガラスの扉の立てつけが悪い。修理が必要でもあった。

 風呂から威勢のよい音がする。その間に食事を用意しなければならない。
「もう完璧だから」ももこは頭を布でターバンのように巻いていた。正面から見ると、その所為かかえって若々しく見える。だが、ほんものも若い。この洗い場もいつもより輝いてみえる。

 ぼくはコーヒーを入れる。食後の片付けもして、明日の準備も整った。
「もう終わったよ」

 ももこは民宿の電話から家に連絡するも母が手土産をもってこちらに向かっているそうである。切って数分後に裏口が開く。夜食がある。ぼくは瓶ビールのふたを開ける。

「ももこ、朝も手伝いなさいよ」
「大丈夫ですよ」
「明日、朝から用事があるじゃん」
「あ、そうか」

 ふたりは裏口から帰っていく。ぼくは孤独というものが何たるかをこの場で発見する。孤独を知った人類の最初の男。客室も静かになる。ぼくも風呂に入る。鏡をのぞきこむと会社員の顔つきはもうどこにもなかった。労働者の顔。ぼくは身体を撫でる。筋肉もついてきた。あの朝からどれほどの時間が経ったのか指折り数えてみるが、緊張の糸が切れた自分に結論を出す根気など、もうのこっていなかった。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿