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「白いナポレオン」昭和天皇と南京大虐殺

2018-11-11 11:46:27 | 戦争
◯南京大虐殺を考察する意義
 南京大虐殺は天王裕仁が226事件で秩父宮に加担した朝香宮に、軍功を持って忠誠を示せと指示したために起きた戦争中の犯罪行為である。この南京攻略戦において、略奪や虐殺や強姦が多発したため、南京特務艦は従軍慰安婦の開設を指示する。つまり、南京事件と従軍慰安婦は天王裕仁の戦争責任に直結する問題なのである。
 天皇制が消滅していれば、今更、南京事件を巡って論争を呼ぶこともさしてないだろうが、歴史改竄屋が天皇裕仁の戦争責任を糊塗して、改憲を通じて自衛隊を憲法機関の国軍とし、加えて国権を通じた永続的な支配を目論んでいるので、これに抵抗する人民との間に論議が起きている。
 人民の間にはアベ・アソー・テンノーなるものを統治機構から排除しなければ、再び日本が大規模な軍事攻撃や虐殺などの人権侵害行為を行いかねない危惧が蔓延している。それは根拠無きものではなく、すでに日本社会では人権の削減が持続的に行われており、人民の生活苦や精神苦をもって立ち現れているのである。日本が技術研修留学生を奴隷扱いする根底には日本人が持つ民族的優位性が内在し、その優位性とは天皇の名の元に恐るべき加虐を持って作り上げた帝国主義の残滓に過ぎないのである。
 であるが故に、私個人は南京事件の詳細の真贋についてはあまり深入りせず、日本側の軍令などに基づく、日本側の戦争責任、なかんずく天皇関係を中心に情報を並べたい。

◯三笠宮の南京事件に対する考察
 三笠宮崇仁親王は1915年に生まれ、陸軍士官学校に進み、軍人となり、日中戦争時の1943年1月から1年間、「若杉参謀」の名で参謀として中国・南京に派遣された。このとき崇仁親王は「支那派遣軍総司令部」で「支那事変に対する日本人としての内省」という文書を書いている。
 1956年の著書『帝王と墓と民衆』では
〈わたしの信念が根底から揺りうごかされたのは、じつにこの一年間であった。いわば「聖戦」というものの実態に驚きはてたのである。罪もない中国の人民にたいして犯したいまわしい暴虐の数かずは、いまさらここにあげるまでもない。かかる事変当初の一部の将兵の残虐行為は、中国人の対日敵愾心をいやがうえにもあおりたて、およそ聖戦とはおもいつかない結果を招いてしまった〉
〈わたしがここで言いたいのは、聖戦という大義名分が、事実とはおよそかけはなれたものであったこと、そして内実が正義の戦いでなかったからこそ、いっそう表面的には聖戦を強調せざるを得なかったのではないかということである〉と記している。
引用https://lite-ra.com/2016/10/post-2651_2.html

◯天皇の戦争責任と南京における関係情報
 1936年2月26日に発生した二・二六事件は大事件だったのである。私の祖母は料亭の女将に釣れられて226事件を見に行ったと言っていた。皇道派の将校に率いられた1483名の兵士が政界の大物を次々に殺害し、帝都の一画を占領した。
 松本清張は自著「昭和史発掘」 で4巻に渡って二・二六事件について原点資料からの引用を行っている。通俗的には皇道派真崎甚三郎大将が真の首謀者だったとは言われているが、裕仁の弟の秩父宮擁立事件だったとの見方がある。清張は小説「神々の乱心」で、秩父宮と思しき人物を擁立しようとする広い人脈の動向を描き出している。
 皇道派の将校らの考え方に、天皇の直ぐ下の弟(第二皇子)秩父宮が理解を示していたため、彼らは口実を設けて弟宮に接近し、その指導を仰いでいたというのである。やがて将校らは、天皇を退位させて秩父宮を即位させ、その下で一君万民の昭和維新を実現させようと考え始め、それを実行しようとしたという仮設がある。
 秩父宮は皇太子ではなかったので行動に制約が少なく、広く軍関係者と交友があったのは確かである。上流階級の子弟からなるインテリ層サロンにおける中心人物でもあった。 裕仁が疑心暗鬼に駆られたのは、自身の生母である貞明皇后が秩父宮を特に可愛がっていた事に起因する。226事件勃発後、秩父宮がわざわざ駐屯先の青森県から帰郷して貞明皇后に会っている。これで裕仁はますます疑心暗鬼になり激高したと推測され
「彼ら凶暴な将校達は、私が親愛する老臣たちを殺したのだ。どうして彼らを許すことが出来ようか。お前たちが座視しているなら、私が近衛部隊を率いて鎮圧に当たる」
と強権的な構えを見せる。
 結果として226事件そのものは収束に向かうが、統制派偏重の人事構成になっていく。皇位喪失を恐れた裕仁は軍事行動の拡大へと向かっていく。

◯南京攻略戦時系列
1936年 海軍の96式陸上攻撃機が完成する。

1937年7月7日 盧溝橋事件

7月8日 南京渡洋爆撃(8月15日)の搭乗員が出撃準備の命令を受ける。海軍は南京への爆撃準備を始めた。

7月12日 海軍軍令部は「対支作戦計画内案」を策定する。
「海軍航空兵力を以て中支方面の敵航空勢力を掃蕩す。」

7月27日、海軍省と海軍軍令部は協議し「時局処理および準備に関する省部協議覚書」を決定。
「今後の情勢は対支全面作戦に導入機会大なるをもって、海軍としては対支全面作戦に対する準備を行う」

8月7日 「北支事変」の停戦を実現するための使命をもって船津辰一郎が上海に到着。

8月9日 大山勇夫中尉殺害事件。上海海軍特別陸戦隊司令官大川内伝七少将の指示で、大山勇夫中尉は中国軍の飛行基地となっている虹橋飛行場へ強行突入して射殺された。

8月13日 日本の閣議では派兵に消極的だった石原作戦部長の意見は抑えられた。

8月14日 10時頃、中国軍は先制攻撃を開始し、中国空軍は第3艦隊旗艦「出雲」や陸戦隊本部、日本人学校を攻撃した。 
同日  軍令部は大海令第13号を発令。海軍軍令部「対支作戦計画内案」の第二段階に突入。

8月15日 南昌及び南京の飛行場爆撃。海軍木更津航空隊所属の、前年に完成した新鋭機96式陸上攻撃機20機が、長崎の大村基地から南京まで約600キロを4時間で飛んで渡洋爆撃を行う。
同日   国民党政府は総動員を下令し蒋介石は自ら陸海空の総司令官に就任し、中国共産党は「抗日救国十大綱領」を宣言し全面戦争は開始された

不拡大派の石原莞爾作戦部長は対ソ連を目標にした軍備拡張のため、中国とはあまり深入りしないほうが良いと主張していた。
石原莞爾中将回応答録から
「今次の上海出兵は海軍が引きずって行ったものといっても差し支えないと思う。私は上海に絶対に出兵したくなかった」

8月21日 陸海軍の統帥部は検討の上2つの案を天皇に奉答しました。
1.航空兵力で敵の軍事施設、軍需工業中心地、政治中心地等を爆撃して敵国軍隊および国民の戦意を喪失させる。
2.華北で北京、天津地方を占領し、上海を確保し、中国沿岸を封鎖する

天皇は当時上海2個師団の我兵力では甚だ手薄であるのが問題だとしてまずは増兵を督促した。

8月25日 首相・陸相・海相・外相の4相会議で、 宣戦布告はしないが、それに変わる勅語を出すことが決定された。宣戦布告の利害得失を検討して、布告しての正式戦争はマイナスが多いと判断した。「事変」とすることで、ハ-グ戦時条約を遵守しない方策である。

8月29日 南京に駐在するアメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア5ケ国の代表が南京爆撃に対する抗議書を日本に提出。

9月2日 閣議で「北支事変」の呼称を「支那事変」に変えることが決定され、全面的な日中戦争になった。

9月4日  第72臨時議会開院式で昭和天皇の勅語が発表された。
(勅語)中華民国深く帝国の真意を解せず、みだりに事をかまえ、ついに今次の事変を見るにいたる。朕これを憾とす。今や朕が軍人は百艱を排してその忠勇をいたしつつあり、これ一に中華民国の反省を促しすみやかに東亜の平和を確立せんとするにほかならず。朕は帝国臣民が今日の時局に鑑み、忠誠公に奉じ、和協心を一にして賛襄もって所期の目的を達成せんことを望む。
同日 杉山陸軍大臣は既に全面戦争であるとの訓示を出した。

9月5日 前日から始まった臨時議会で近衛首相は施政方針演説を行う。
演説:今日このさい、帝国として採るべき手段は、できるだけすみやかに支那軍に対して徹底的に打撃を加え、彼をして戦意を喪失せしめる以外にないのであります。

9月6日 天皇は参謀総長を召して再度増派の意思を伝えた。直ちに参謀本部は検討し、同日午後参内し、天皇に「上海に第9、第13、第101師団及び台湾守備隊を増派することに内定」と上奏した。
重藤支隊―台湾守備司令官重藤千秋少将が指揮する台湾歩兵第1、第2連隊。華北から後備歩兵10個大隊等増派

9月7日 拡大派武藤章作戦課長を中心に大部隊の上海派遣が決定された。

9月11日 上海に5個師団の派兵遣が決定し、石原莞爾は辞任を決めた。

9月12日 中国は正式に、国際連盟規約に基いて日本の侵略を提訴。

9月15日 海軍第3艦隊司令官長谷川清中将は南京空襲部隊の編成を命令し、南京の反復攻撃を下令した。無差別爆撃を許可。

9月19日 長谷川清第3艦隊司令長官は南京空爆作戦決行の為、各国外交機関と居留民に「通告文」を、南京市民に「警告文」を発表した。南京への爆撃が始まる。
爆撃は9月19日の第1次から25日の第11次まで行われ、延べ291機(289機という資料もある)が参加し、爆弾は355発(32.3トン)が使用された。

9月21日 上海派遣軍として次の部隊が派遣された

9月22日 第101師団上陸

9月23日 増派に反対していた石原莞爾は更迭され関東軍参謀副長として「ついに追い出されたよ」の言葉を残して満州へ。後任に下村定少将が就任。

9月26日 野戦重砲兵第5旅団、野戦重砲兵第15連隊(特設連隊・本隊は近衛野戦重砲兵第8連隊)上陸

9月27日 第9師団上陸

9月28日 13日からジュネ-ブで開かれた第18回国際連盟総会において「日華紛争に関する国際連盟諮問委員会」が作成した「日本の中国都市爆撃非難決議」が全会一致で可決された。

10月1日 上陸第13師団(特設師団・後備役兵を召集して臨時編成した。高年齢である)上陸

10月 南京攻略に関し、陸軍省首脳部は慎重論。ドイツのトラウトマン駐日大使に仲介を依頼する。

10月上旬 参謀本部は杭州湾の上陸作戦を決定し、第10軍が編成(軍司令官柳川平助中将)された。

11月5日 第10軍(司令官柳川平助中将)の3個師団余が杭州湾北岸に奇襲上陸。

11月6日 「日軍百万上陸杭州北岸」のアドバル-ンが上海にあがった。

11月7日 上海派遣軍と第10軍を合せて中支那方面軍の編合が発令され、松井石根大将が上海派遣軍との兼任司令官になった。

11月8日までの日本軍被害は戦死9115名、戦傷3万1257名と合計4万人を越える。
中国側の戦死者は25万人前後。

11月9~13日 中国軍の退却が始まる

11月13日 第16師団は白茆江に上陸成功

11日15日 現地の第10軍は独断で南京に追撃する事を決定。

11月19日 第10軍より、全力をもって南京に向う追撃命令を各師団へ発電。各師団に追撃命令を出した事を参謀本部に報告。

11月20日 参謀本部は「第10軍の南京追撃は臨命第600号指示(作戦地区)の範囲を逸脱している」直ちに中止、制令線から撤退せよと命令を出した。

同日 日露戦争以来32年ぶりに大本営(戦時に設ける最高統帥機関)が宮中に設置される。事変でも大本営設置を行えるように軍令を改正した。

11月24日 中支那方面軍から「事変解決を速やかならしむるため、現在の敵の頽勢に乗じ、南京を攻略するを要す」との意見書が参謀本部に届く。

朝日新聞社関係が80人以上、大阪毎日新聞関係が70名以上を現地に派遣し、先を争って国民の期待を煽る連戦連勝の報道をした。

12月1日 【大陸命第8号】が発令され、同時に大本営から戦闘序列も発令された。
「支那方面軍司令官は海軍と協同して、敵国首都南京を攻略すべし」
天皇が始めて、中国を敵国と呼び、首都南京の攻撃を命令した。
すでに南京に向けて進撃していた日本軍は命令後、3ルートに分かれて南京城に進攻した。中支那方面軍と上海派遣軍の司令官を兼任していた松井石根は、中支那方面軍の専任司令官となり、新たに皇族の朝香宮鳩彦中将が上海派遣軍の司令官に任命され7日に着任した。

12月2日 国民政府の蒋介石は駐華ドイツ大使トラウトマンに日本側の和平条件を認める意向を伝えた。
日本政府は南京攻略で興奮していたのもあり、中国政府からの申し入れを断ってしまう。
12月4日 日本軍は南京防衛線東側の一番外側のラインである句容県に攻め込み占領。

12月10日午後2時 日本軍は中国側が降伏勧告文に応じなかったため南京城攻撃命令を下令。

12月12日12時 中華門西方の城壁に第6師団第47連隊が日章旗をたて、その後続々と占領が進む。

1938年1月15日 トラウトマン和平交渉打ち切り

 海軍省の記録では、8月15日の渡洋爆撃から始まって、12月13日の南京占領にいたるまで海軍の南京爆撃は50数回におよび、延べ参加機は900余機、投下爆弾は160余トンにおよんだとされている。

◯南京攻略戦の問題点
 南京事件で20万から30万の中国人民が殺されたとされる。南京攻略戦の司令官である松井石根大将も、当時軍務に就いていた昭和天皇の弟である三笠宮殿下も、日本兵の暴行が多数あったことを認めている。
 問題はこの点だけではない。
 中国系のアメリカ人ジャーナリスト アイリス・チャンによると、
「南京の中国人を皆殺しにするという方針は、昭和天皇から直接任命された、朝香宮上海派遣軍司令官が、南京攻撃前に署名した命令に明記され、事前に政府、軍最高レベルで決まっていた。」
としている。

 南京攻略を焦ったのは、226事件における宮廷内の政争問題が一因である。また、皇族である朝香宮を無事に南京へ入城させるために過剰に掃討作戦を実施したという見方もある。

 後の重慶大爆撃に先行して、南京への無差別爆撃が行われた。しかも、米英への艦船も攻撃している。日本政府は対米開戦だけは避ける意向だったとされるが、現地軍の暴走とはいえ、もはや手遅れだったと言える。

 南京に至る過程も含めて略奪、殺人、強姦が多発した。これをうけて、南京特務機関が民間へ委託する形で慰安所を開設した。

 現在、南京大虐殺と従軍慰安婦を無かったものとしたいのは、天皇の戦争責任を抹消して、再び天皇を担ぐ形で軍部の台頭を狙っているのである。今度は更に悲惨で、米帝国主義の尖兵として、世界各地で血を流しながら各民族や国家から恨みを買うことになる。

 天皇裕仁はナポレオンを崇拝しており、宮中の書斎にはナポレオンの胸像を飾っていた。2・26事件当時の侍従武官・本庄繁の『日記』には、天皇がナポレオンの研究に専念した様子が具体的に描かれている。

 海軍の作戦を宮中の大本営で指導したのが昭和天皇だった。天皇としては開戦の責任を海軍に負わせるわけにはいかなかった。「海軍善玉論」は天皇が戦争責任を逃れるために作られたものである。責任を現場に押し付けたので、多くのBC級戦犯が死刑となった。

◯従軍慰安所の開設
天皇勅令である軍令「軍隊内務書」に野戦酒保規定があり、その規定を1937年、つまり後備役劣後兵による風紀紊乱多発した日中戦争で、中支方面軍が「南京慰安所の開設に就て第二課案を審議す」(飯沼参謀長)とした。
南京特務機関の委託を受けて開設された従軍慰安所
日華親善館
皇軍慰安所
大華楼慰安所
東雲慰安所
青南楼慰安所
浪速楼慰安所
共楽館慰安所
菊水館慰安所
満月慰安所
鼓楼飯店中部慰安所
洋屋慰安所
珠江飯店慰安所
人民慰安所
故郷楼慰安所
上軍南部慰安所
上軍北部慰安所
桃花宮慰安所
芯香院慰安所






















映像の世紀 南京大虐殺1 地獄絵巻はこうして繰り広げられた


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