わんわんらっぱー

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豊臣秀吉によるバテレン追放令の正統性

2018-06-28 21:35:17 | 戦争
 映画「沈黙 -サイレンス-」によってキリスト教徒迫害の歴史が映像として蘇った。日本側のスタッフと綿密にすり合わせを行って映像化したといわれており、マーティン・スコセッシの絵作りにかける執念も重ね合わさってか、黒沢明-小泉堯史の時代劇にも匹敵するか、それ以上のリアリティがある。
 キリシタン弾圧の歴史そのものは事実であるのだろうが、弾圧側にも一定の正統性があったと言われている。

 先日、ユネスコの諮問機関が環境省が提出していた「奄美大島、徳之島、沖縄島北部および西表島」を世界文化遺産登録申請を取り下げ、潜伏キリシタン施設12箇所を世界文化遺産に登録した。
 別項に譲るが奄美大島の自然資源が狙われていると、私は常々考えている。ユネスコはその奄美大島の自然の文化遺産登録を却下して、キリシタン弾圧を世界文化遺産に登録した。
 キリシタン弾圧そのものは悲劇であるが、秀吉や家康のキリシタン弾圧に一定程度の正統性があり、その点が歴史に合間に埋没しようとしている。そして、「歴史の糊塗」にユネスコが加担しているのであれば、日本もトランプ大統領に習ってユネスコから脱退した方が良い

○ポルトガル人によって日本人女性50万人が奴隷として海外に売られた
 「ポルトガル人によって日本人女性50万人が奴隷として海外に売られた」の原典は、 鬼塚英昭著「天皇のロザリオ」(平成十六年十月刊、自費出版)P249~ P282がとされている。
【「徳富蘇峰の『近世日本国民史』の初版に、秀吉の朝鮮出兵従軍記者の見聞録がのっている。
『キリシタン大名、小名、豪族たちが、火薬がほしいぱかりに女たちを南蛮船に
運び、獣のごとく縛って船内に押し込むゆえに、女たちが泣き叫ぴ、
わめくさま地獄のごとし』
『行く先々で日本女性がどこまでいっても沢山目につく。ヨーロッパ各地で50万という。肌白くみめよき日本の娘たちが秘所まるだしにつながれ、もてあそばれ、奴隷らの国にまで転売されていくのを正視できない。
 鉄の伽をはめられ、同国人をかかる遠い地に売り払う徒への憤りも、もともとなれど、白人文明でありながら、何故同じ人間を奴隷にいたす。
 ポルトガル人の教会や師父が硝石(火薬の原料)と交換し、インドやアフリカまで売っている』】引用終わり

 高山右近らのキリシタン大名の所領にて、火薬一樽で50人の日本人娘が売られていったということだ。日本では硝酸が採れず、火薬は貴重品だった。ポルトガルに売るものがないので、若い女性を差し出したというのだ。

ポルトガルの奴隷貿易
https://goo.gl/Fmq6BH
『1555年の教会の記録によれば、ポルトガル人は多数の日本人の奴隷の少女を買い取り性的な目的でポルトガルに連れ帰っていた。国王セバスティアン1世は日本人の奴隷交易が大規模なものへと成長してきたため、カトリック教会への改宗に悪影響が出ることを懸念して1571年に日本人の奴隷交易の中止を命令した』

 ポルトガルが奴隷貿易を行っていたのは事実であり、日本人の奴隷が大勢取り扱われたようだ。ただし、当時の日本の人口は日本列島全土で1200万人程度とされており、50万人も奴隷として売られたとするには人員数が多すぎるという指摘がある。


池本幸三/布留川正博/下山晃共著
『近代世界と奴隷制:大西洋システムの中で』
人文書院、1995年、
第2章コラム、pp.158-160 より転載
【天正15年(1587年)6月18日、豊臣秀吉は宣教師追放令を発布した。その一条の中に、ポルトガル商人による日本人奴隷の売買を厳しく禁じた規定がある。日本での鎖国体制確立への第一歩は、奴隷貿易の問題に直接結びついていたことがわかる。
 「大唐、南蛮、高麗え日本仁(日本人)を売遣候事曲事(くせごと = 犯罪)。付(つけたり)、日本におゐて人之売買停止之事。 右之条々、堅く停止せられおはんぬ、若違犯之族之あらば、忽厳科に処せらるべき者也。」(伊勢神宮文庫所蔵「御朱印師職古格」)
 日本人を奴隷として輸出する動きは、ポルトガル人がはじめて種子島に漂着した1540年代の終わり頃から早くもはじまったと考えられている。16世紀の後半には、ポルトガル本国や南米アルゼンチンにまでも日本人は送られるようになり、1582年(天正10年)ローマに派遣された有名な少年使節団の一行も、世界各地で多数の日本人が奴隷の身分に置かれている事実を目撃して驚愕している。「我が旅行の先々で、売られて奴隷の境涯に落ちた日本人を親しく見たときには、 こんな安い値で小家畜か駄獣かの様に(同胞の日本人を)手放す我が民族への激しい念に燃え立たざるを得なかった。」「全くだ。実際、我が民族中のあれほど多数の男女やら童男・童女が、世界中のあれほど様々な地域へあんなに安い値でさらっていって売りさばかれ、みじめな賤業に就くのを見て、憐憫の情を催さない者があろうか。」といったやりとりが、使節団の会話録に残されている。この時期、黄海、インド洋航路に加えて、マニラとアカプルコを結ぶ太平洋の定期航路も、1560年代頃から奴隷貿易航路になっていたことが考えられる。
 秀吉は九州統一の直後、博多で耶蘇会のリーダーであったガスパール・コエリョに対し、「何故ポルトガル人はこんなにも熱心にキリスト教の布教に躍起になり、そして日本人を買って奴隷として船に連行するのか」と詰問している。南蛮人のもたらす珍奇な物産や新しい知識に誰よりも魅惑されていながら、実際の南蛮貿易が日本人の大量の奴隷化をもたらしている事実を目のあたりにして、秀吉は晴天の霹靂に見舞われたかのように怖れと怒りを抱く。秀吉の言動を伝える『九州御動座記』には当時の日本人奴隷の境遇が記録されているが、それは本書の本文でたどった黒人奴隷の境遇とまったくといって良いほど同等である。「中間航路」は、大西洋だけでなく、太平洋にも、インド洋にも開設されていたのである。「バテレンどもは、諸宗を我邪宗に引き入れ、それのみならず日本人を数百男女によらず黒舟へ買い取り、手足に鉄の鎖を付けて舟底へ追い入れ、地獄の呵責にもすくれ(地獄の苦しみ以上に)、生きながらに皮をはぎ、只今世より畜生道有様」といった記述に、当時の日本人奴隷貿易につきまとった悲惨さの一端をうかがい知ることができる。
 ただし、こうした南蛮人の蛮行を「見るを見まね」て、「近所の日本人が、子を売り親を売り妻子を売る」という状況もあったことが、同じく『九州御動座記』に書かれている。秀吉はその状況が日本を「外道の法」に陥れることを心から案じたという。検地・刀狩政策を徹底しようとする秀吉にとり、農村秩序の破壊は何よりの脅威であったことがその背景にある。
 しかし、秀吉は明国征服を掲げて朝鮮征討を強行した。その際には、多くの朝鮮人を日本人が連れ帰り、ポルトガル商人に転売して大きな利益をあげる者もあった。--奴隷貿易がいかに利益の大きな商業活動であったか、このエピソードからも十分に推察ができるだろう。】
ザビエルの来日によって布教が開始されたキリスト教は、拠点を西南九州に移してから徐々に勢力を伸ばしていった。西国の大名たちが、軍資金や軍需物資を獲得するため領国内にポルトガル船の入港を望み、宣教師たちの布教を許可したことが大きな要因であった。】
転載終わり
転載元http://www.daishodai.ac.jp/~shimosan/slavery/japan.html

 奴隷売買の人数はともかく、16世紀に来日したポルトガル人が日本人女性を奴隷として海外へ売り払い、なおかつ人として取り扱っていなかった、というのは事実だと推測される。

○キリシタン大名たちが神杜・仏閣を焼いた。
 天正15年(1587)に秀吉が九州平定のために博多に下る。秀吉は九州を一巡し、キリシタン大名によって無数の神社やお寺が焼かれているのを見て激怒していた。
 島原半島を支配していたキリシタン大名・有馬晴信は晴信の庇護のもとで、宣教師たちは日本の寺院の仏像を破壊し、仏教徒の目の前で放火したりした。また、キリシタンと僧侶 の間に争いが起きると、晴信は僧侶を処刑すると脅し、財産を没収した。
 領民はこれを聞いて震え上がり、たちまち千人を超える人々が改宗したという。晴信は宣教師の求めに応じて、領民から少年少女を取り上げ、インド副王に奴隷として送る、ということまでしている。
 秀吉はポルトガル商人が日本人を奴隷等として海外に売っていた事を知ると、バテレン追放令を発布、布教責任者であるイエズス会宣教師ガスパール・コエリョを召喚して叱責した。
 コエリョはは博多にてフスタ船という平底の軍艦に大砲を積み込み、大提督のような格好をして秀吉を出迎えた。秀吉は軍事を誇示するコエリョに、キリシタンの野望が事実であると確信し、その日の内に、伴天連(バテレン)追放令を出した。
 コエリョは日本をキリスト教国にし、当時の「明」である中国を征服しようとしていた。秀吉の朝鮮出兵の動機については諸説あるが、最近では、スペインやポルトガルの明(中国)征服への対抗策であったという説が出されている。
 秀吉はスペインもしくはポルトガルがメキシコやフィリピンのように明を征服し、その武力と大陸の経済力が結びついて、次は元寇の時を上回る強力な大艦隊で日本を侵略してくると想定したと推測される。
 秀吉は農民の出であるので、日本の支配階級において共有されていた、8世紀の白村江の戦いにおける日本側の惨敗の歴史や、東アジアの勢力と秩序の維持についての知見がなかったと考えられる。更に国力を顧みれば、日本に大陸に軍事進出するだけの能力も軍事力もなかった。

○鎧を着て、銃で武装した組織的勢力が起こした島原の乱
 秀吉のあとを継いだ秀頼はキリスト教に理解を示していた。家康はスペインの軍事力と秀頼が結託することを恐れ、大阪攻めに先立って、家康はキリシタン禁令を出し、キリシタン大名の中心人物の高山右近をフィリピンに追放した。1624年には江戸幕府はスペイン人の渡航を禁じている。
 1637年のキリシタン勢力による島原の乱が勃発する。天草四郎軍ら一揆勢は、島原城下に押し寄せて放火・略奪を行い、逃げ遅れた女性を拉致した。城下の寺院、神社を焼き払い、住持の首を切り、指物にして、島原城の大手口に押し寄せたのである。
 大島子(有明町)の戦い、本渡での合戦と、勢いに乗った一揆軍は1万2000人に
膨れ上がり、唐津藩兵が篭る富岡の城を総攻撃した。一揆軍は本丸を落とせず、討伐軍の進軍を知り、有明海を渡り、原城に籠城し、4ヶ月に及ぶ籠城戦の末に全滅させられた。

 天草側の一揆軍は、何故、浪人を雇うための巨額の軍資金や武器や防具をを持っていたのか議論になっている。一揆軍は籠城戦序盤で幕府軍の総大将を打ち取るなど、幕府軍と互角以上に戦う戦力があったのである。
 当時、大阪の陣や外様大名の改易が相次いで、浪人が大量に発生し、それが島原の乱で一旗挙げようとなだれ込んできた、という説がある。ポルトガルが一定程度支援していたのではないかとか、富岡城に蓄積してあった軍備を流用した、などという説もある。
 幕府軍は一揆軍が立て籠もる原城への攻撃にオランダ軍艦の助力を得ている。外国勢力から援軍を得ることへの批判を受けて止めている。島原の乱の1637-38年をまたぐ1618年-48年はヨーロッパで30年戦争が戦われている。フランス王国ブルボン家およびネーデルラント連邦共和国と、スペイン・オーストリア両ハプスブルク家のヨーロッパにおける覇権をかけた戦いであった。そういった国際情勢と、島原の乱が一定程度の関連があっても不思議ではない。

 家康は島原の乱平定後の1639年にポルトガル人の渡航を禁じている。一方で朝鮮とオランダとの通商は継続しており、鎖国令の実態とはポルトガル人などのカトリック教徒に対する禁足令であったと言える。

○豊臣秀吉のバテレン追放令の11条目に注目すべし
 豊臣秀吉のバテレン追放令は11カ条から成り、十条で日本人を南蛮に売り渡す(奴隷売買)ことを禁止している。これは、前述した通り、非道の行いであり、禁止されてしかるべきである。興味深いのは十一条で、【牛馬をし食料とするのを許さない】となっている。
 これは当時の労働力である牛馬をすることは、生産力を低下に繋がり、よってを禁じたという事である。
 倫理的観点からの禁止ではない。
 この観点について、天皇のロザリオの著者である鬼塚英昭氏自身が、食用の家畜化が、自分達を家畜化する事に繋がっていると述べている。
 鬼塚氏の論旨は分からないが、私自身も食用家畜を問題だと考えている。特に哺乳類を食用とすることは、人としての生体上問題がある(別項にゆずる)。また、家畜の飼育過程で膨大な水や食料を費やすことにより、自給力の低下が発生し、結果として国際的な資本に隷属させられる、と考えることもできる。
 食用家畜については明治以後に欧米が持ち込んだ食文化である。人類の祖先はアフリカが発祥とされ、歯の形から類推すると穀物類を主食としてきたが、欧州へ北上した人類が、農作に適さない地域ゆえに仕方なく、牧畜を始めたとされる。ところが、肉は体内で腐るのである。消化器官が長いと、人体に対して悪影響が強くでる。よって、すばやく排泄しなければ、危険であり、消化器官が短くないと生存が難しかった、という仮説がある。仮にそれが本当であれば、腸が長い日本人は肉食に向いていない。

 現代では人の奴隷化は禁じられたが、食用家畜についてはむしろ盛んに行われている。仮に食用家畜を禁じた状態での日本産業構造を試算してみれば良い。肉食を原因とする疾病の減少も考慮すると、日本総体でかなり産業が縮小する。
 しかし、健康で生活できて、家畜用穀物などの輸入依存が減少すれば、外貨獲得のために無理に輸出を行う必要もなく、我々はもっと快適で労働に縛られない文化的な生活が行えるのではなかろうか?

-----以下転載
2006年1月27日 金曜日
https://blog.goo.ne.jp/2005tora/e/5a197e856586baf726f6a0e68942b400
◆日本宣教論序説(16) 2005年4月 日本のためのとりなし

わたしは先に第4回「天主教の渡来」の中で、日本におけるキリシタンの目覚ましい発展と衰退の概略を述べました。しかし、ここではキリシタンがたどった土着化の過程について考察してみたいと思います。後で詳しく述ぺますが、わたしの先祖はキリシタンでありました。わたしは伊達政宗の領地であった岩手県藤沢町大籠(おおかご)地区での大迫害で生き残ったかくれキリシタンの末裔です。

今はプロテスタントの牧師ですが、わたしの中にはキリシタンの血が流れていると思います。三年前の夏、父の郷里藤沢町を初めて訪問してこの事実を知ってから、キリシタンについてのわたしの関心は以前より深くなりました。そしてキリシタンについての知識も少し増えました。四百年前のキリシタンを知ることが現代のわたしたちと深く関わってくると思いますので、先ず追害の理由から始めたいと思います。

◆1.キリシタン遣害の理由

宣教師ルイス・フロイスが暴君と呼ぶ豊臣秀吉が「伴天連(ばてれん)追放令」を発したのは、1587年7月24日(天正15年6月19目)でした。これは天正(てんしょう)の禁令として知られる第1回のキリシタン禁止令です。それ以後徳川時代にかけて、次々に発せられた禁止令の理由をまとめると、次の五つになるでしょう。

(1)植民地政策
キリシタンの宣教は西欧諸国の植民地政策と結びついていました。それは、初めに宣教師を送ってその国をキリスト教化し、次に軍隊を送って征服し植民地化するという政策です。秀吉は早くもそのことに気づいて主君信長に注意をうながしています。

ポノレトガル、スペインのようなカトリック教国は強力な王権をバックに、大航海時代の波に乗ってすばらしく機能的な帆船や、破壌力抜群の大砲を武器として、世界をぐるりと囲む世界帝国を築き上げていました。その帝国が築き上げた植民地や、その植民地をつなぐ海のルートを通って、アジアでの一獲千金を夢見る冒険家たちが、何百、何千とビジネスに飛ぴ出していきました。

そうした中にカトリックの宣教師たちも霊魂の救いを目指して、アジアに乗り出して行ったのです。彼らが求めたのは、霊魂の救いだけではなく、経済的利益でもありました。

ザビエルがゴアのアントニオ・ゴメス神父に宛てた手紙から引用すると、
「神父が日本へ渡航する時には、インド総督が日本国王への親善とともに献呈できるような相当の額の金貨と贈り物を携えてきて下さい。もしも日本国王がわたしたちの信仰に帰依することになれぱ、ポルトガル国王にとっても、大きな物質的利益をもたらすであろうと神かけて信じているからです。堺は非常に大きな港で、沢山の商人と金持ちがいる町です。日本の他の地方よりも銀か金が沢山ありますので、この堺に商館を設けたらよいと思います」(書簡集第93)

「それで神父を乗せて来る船は胡椒をあまり積み込まないで、多くても80バレルまでにしなさい。なぜなら、前に述ぺたように、堺の港についた時、持ってきたのが少なけれぱ、日本でたいへんよく売れ、うんと金儲けが出来るからです」(書簡集第9)。

ザビエルはポルトガル系の改宗ユダヤ人(マラーノ)だけあって、金儲けには抜け目ない様子が、手紙を通じても窺われます。ザビエル渡来の三年後、ルイス・デ・アルメイダが長崎に上陸しました。この人も改宗ユダヤ人で、ポルトガルを飛ぴ出してから世界を股にかけ、仲介貿易で巨額の富を築き上げましたが、なぜか日本に来てイエズス会の神父となりました。彼はその財産をもって宣教師たちの生活を支え、育児院を建て、キリシタン大名の大友宗瞬に医薬品を与え、大分に病院を建てました。

(2)奴隷売買
しかし、アルメイダが行ったのは、善事ばかりではなく、悪事もありました。それは奴隷売買を仲介したことです。わた〕まここで、鬼塚英昭著「天皇のロザリオ」P249~257から、部分的に引用したいと思います。

「徳富蘇峰の『近世日本国民史』の初版に、秀吉の朝鮮出兵従軍記者の見聞録がのっている。『キリシタン大名、小名、豪族たちが、火薬がほしいぱかりに女たちを南蛮船に運び、獣のごとく縛って船内に押し込むゆえに、女たちが泣き叫ぴ、わめくさま地獄のごとし』。ザヴィエルは日本をヨーロッパの帝国主義に売り渡す役割を演じ、ユダヤ人でマラーノ(改宗ユダヤ人)のアルメイダは、日本に火薬を売り込み、交換に日本女性を奴隷船に連れこんで海外で売りさばいたボスの中のボスであつた。

キリシタン大名の大友、大村、有馬の甥たちが、天正少年使節団として、ローマ法王のもとにいったが、その報告書を見ると、キリシタン大名の悪行が世界に及んでいることが証明されよう。

『行く先々で日本女性がどこまでいっても沢山目につく。ヨーロッパ各地で50万という。肌白くみめよき日本の娘たちが秘所まるだしにつながれ、もてあそばれ、奴隷らの国にまで転売されていくのを正視できない。鉄の伽をはめられ、同国人をかかる遠い地に売り払う徒への憤りも、もともとなれど、白人文明でありながら、何故同じ人間を奴隷にいたす。ポルトガル人の教会や師父が硝石(火薬の原料)と交換し、インドやアフリカまで売っている』と。

日本のカトリック教徒たち(プロテスタントもふくめて)は、キリシタン殉教者の悲劇を語り継ぐ。しかし、かの少年使節団の書いた(50万人の悲劇)を、火薬一樽で50人の娘が売られていった悲劇をどうして語り継ごうとしないのか。キリシタン大名たちに神杜・仏閣を焼かれた悲劇の歴史を無視し続けるのか。

数千万人の黒人奴隷がアメリカ大陸に運ばれ、数百万人の原住民が殺され、数十万人の日本娘が世界中に売られた事実を、今こそ、日本のキリスト教徒たちは考え、語り継がれよ。その勇気があれぱの話だが」。
(以上で「天皇の回ザリオ」からの引用を終ります)

わたしはこれまで各種の日本キリシタン史を学んで来ましたが、この『天皇のロザリオ」を読むまでは、「奴隷」の内容について知りませんでした。しかし、こういう事実を知ったからには、同じキリスト教徒として真摯な態度で語り継いで行きたいと思います。

なお今年の1月30日に、第5版が発行された、若菜みどり著「クアトロ・ラガッツィ(四人の少年の意)」(天正少年使節と世界帝国)P.414~417」に奴隷売買のことが報告されていますが、徳當蘇峰「近世日本国民史豊臣時代乙篇P337-387」からの引用がなされているにもかかわらず、「火薬一樽につき日本娘50人」の記録は省かれています。

そして、「植民地住民の奴隷化と売買というビジネスは、白人による有色人種への差別と資本力、武カの格差という世界の格差の中で進行している非常に非人間的な『巨悪』であった。英雄的なラス・カサスならずとも、宣教師はそのことを見逃すことができず、王権に訴えてこれを阻止しようとしたがその悪は利益をともなっているかぎり、そして差別を土台としているかぎり、けっしてやむものではなかった」(p.416〉と説明して、売られた女性たちの末路の悲惨さを記しています。かなり護教的な論調が目立つ本です。

秀吉は準管区長コエリヨに対して、「ポルトガル人が多数の日本人を奴隷として購入し、彼らの国に連行しているが、これは許しがたい行為である。従って伴天遠はインドその他の遠隔地に売られて行ったすぺての日本人を日本に連れ戻せ」と命じています。

(3)巡回布教
更に秀吉は、「なぜ伴天連たちは地方から地方を巡回して、人々を熱心に煽動し強制し'て宗徒とするのか。今後そのような布教をすれば、全員を支那に帰還させ、京、大阪、堺の修道院や教会を接収し、あらゆる家財を没収する」と宣告しました。

(4)神杜仏閣の破壊
更に彼は、なぜ伴天連たちは神杜仏閣を破壊し神官・僧侶らを迫害し、彼らと融和しようとしないのか」と問いました。神杜仏閣の破壊、焼却は高山右近、大友宗瞬などキリシタン大名が大々的にやったことです。これは排他的唯一神教が政治権カと緒ぴつく時、必然的に起こる現象でしょうか。

(5)牛馬を食べること
更に彼は、なぜ伴天連たちは道理に反して牛馬を食ぺるのか。馬や牛は労働力だから日本人の大切な力を奪うことになる」と言いました。
以上秀吉からの五つの詰問にたいする、コエリヨの反応は極めて傲慢で、狡猪な、高をくくった返答でした。高山右近を初め多くのキリシタン大名たちはコエリヨを牽制しましたが、彼は彼らの制止を聞き入れず、反って長崎と茂木の要塞を強化し、武器・弾薬を増強し、フイリピンのスペイン総督に援軍を要請しました。
これは先に巡察使ヴァリニヤーノがコエリヨに命じておいたことでした。しかし、かれらの頼みとする高山右近が失脚し、長崎が秀吉に接収されるという情勢の変化を見てヴァリニヤーノは、戦闘準備を秀吉に知られないうちに急遽解除しました。
これらの経過を見れば、ポルトガル、スペイン両国の侵略政策の尖兵として、宣教師が送られて来たという事実を認めるほかないでしょう。これらの疑問は豊臣時代だけでなく、徳川時代300年の間においても、キリシタンは危険であり、キリシタンになればどんな残酷な迫害を受けるかわからないという恐怖心を日本人全体に植え付けることになり、キリスト教の日本への土着化を妨げる要因になったと言えるでしょう。(後略)


◆バテレン追放令 2002年7月9日 北國新聞
もう1つの国内向けとみられる法令は11カ条からなっている。一条から九条までの内容は▽キリシタン信仰は自由であるが、大名や侍が領民の意志に反して改宗させてはならない▽一定の土地を所有する大名がキリシタンになるには届けが必要▽日本にはいろいろ宗派があるから下々の者が自分の考えでキリシタンを信仰するのはかまわない―などと規定する。
 注目すべきは次の十条で、日本人を南蛮に売り渡す(奴隷売買)ことを禁止。十一条で、牛馬をし食料とするのを許さない、としていることである。
 以上の内容からは▽右近が高槻や明石で行った神社仏閣の破壊や領民を改宗させたことを糾弾▽有力武将を改宗させたのはほとんどが右近によってで、右近に棄教をさせることで歯止めがかかると見た▽バテレン船で現実に九州地方の人々が外国に奴隷として売られていること―などが分かる。秀吉の追放令は、ある意味で筋の通った要求だった。
 さらに重要なのは、日本の民と国土は、天下人のものであり、キリシタン大名が、勝手に教会に土地を寄付したり、人民を外国に売ることは許されないということである。天下統一とは、中央集権国家の確立にほかならない。キリシタンは、その足元を乱す、かつての一向宗と同じ存在になる危険性があると秀吉が感じていたことがわかる。
 「バテレン追放令」は、キリシタンが対象であるかのように見えて、実は日本が新しい時代を迎えるため何が課題かを暗示する極めて重要な出来事だったのである。

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