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ベトナム北爆への道

2018-10-30 21:17:54 | 戦争
 ガンダムの生みの親の一人として語られる安彦良和氏だが、アニメ界で活躍したあと、漫画家へ転じ、『虹色のトロツキー』などの歴史物マンガを手がけた。時系列ではファーストガンダム以前のガンダムオリジンのマンガを執筆後、ガンダムオリジンの総監督としてアニメ界に復帰した。
Youtubeに、たしかジュンク堂だかで、開催した「私に影響を与えた本」とかいうようなお題で安彦良和氏の講演があった。
(該当する映像は検索してもでてこない)
そこで、ベトナム反戦運動に参加して弘前大学を除籍になったと、驚くべきことをを述べるのである。
運動に参加した仲間の中には連合赤軍に参加したものも居るという。私の聞き違いかと思って調べたら、植垣康博氏のことだと推測される。
参考「“僕が育った町”で元“連合赤軍兵士”が営むスナック『バロン』」https://air.ap.teacup.com/taroimo/1275.html

安彦氏は運動に挫折して、精神科医の前で「このままではベトナム戦争が止められない」とおいおいと泣いたとも述べた。

関連する動画があるので紹介する。
「機動戦士ガンダム」生みの親の1人 安彦良和氏語る 宇宙移民、大日本帝国とナチズムの共通点


Wikiでは“私のなかの歴史 オホーツクから「ガンダム」へ 7”. 北海道新聞夕刊. (2012年3月12日)にベトナム反戦運動についての記述があるとして参考文献にあげている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%BD%A6%E8%89%AF%E5%92%8C#cite_note-12
恐らくそれまで殆ど語られていない、安彦氏の生い立ちである。
日本の世相への危機感から、自身の思想的背景を語る必要を感じたのだろう。

 私のベトナム戦争に関する知識は「映像の世紀」などのドキュメンタリーによって与えられた程度のものである。
ベトナム反戦運動が日本に与えた影響は大きい。大きな影響を受けたはずだが、今現在では、あまり語られることもない。

端的に「ベトナムに投下された爆弾の量は、日本本土空襲の10倍に達する」
という一文だけでもベトナム戦争の凄まじさが分かりようものだ。


【映画 2015 】ベトナム解放=勝利に導いた2万キロの戦略路

ホーチミン・ルートの建設と維持に関する事が解説されている。
このホーチミン・ルートを破壊するために、米軍は170万トンの爆弾を投下したとされる。
ホーチミン・ルートの大半はラオスを通る。ラオスもベトナム戦争に巻き込まれ壊滅的な状態となった。

いわゆる北爆を指揮したのは、あの「鬼畜ルメイ」である。
1965年カーチス・ルメイ空軍参謀総長は、「ベトナムを石器時代に戻す」と息巻いた。

ルメイのそれまでの経緯
大佐としてB17によるドイツ空爆を指揮している。
ドイツによる防空能力は高く、最大損耗率は3割と言われた過酷な任務だった。

◯日本への無差別絨毯爆撃
ルメイは無差別爆撃を実施したB-29部隊の司令であり、戦術転換を最終的に決断したのも彼ではある。
焼夷弾の使用や効果的な攻撃、更には壊滅的打撃を与えることで対日戦において決定的な役割を果たすことを強く要求したのは米陸軍航空軍の上層部である。

偏西風の影響を避けるため、高高度爆撃ではなく、低空爆撃(1800m以下)を主とした。
迎撃をかわすため夜間攻撃に限定した。
日本の木造家屋を効率良く破壊するため延焼しやすい専用焼夷弾を開発。
搭載燃料は最小限、防御用の銃座は外す・機体への搭載は焼夷弾のみ、かつ最大積載とした。

東京大空襲では東京一帯が焦土と化し死者10万人以上・負傷者11万人と言われている。
投入したB29、325機中撃墜12機、被弾42機という損害を被ることになった。
その後6日間、日本の各都市に焼夷弾が落とされ焼き尽くされた。だが7日目に南太平洋全域に備蓄していた爆弾を全て使い果たし、ルメイは爆撃停止命令を出した。
再び焼夷弾を調達し、今度は大都市のみならず市町村単位での爆撃優先度リストを作成し、徹底的に空爆を行った。

◯キューバ危機
キューバ危機ではルメイは核を積んだ爆撃機をキューバ領空ギリギリで待機させていた。
JFK大統領とマクナマラは全面核戦争を回避するために必死の説得を続けていた。
ルメイは強気だったが、実際の所キューバには160発を超える核弾頭が配備されており、フィデロ・カストロ議長とソ連のフルシチョフは米軍機が領空侵犯した瞬間にニューヨークとワシントンに核を打つ算段だった。


◯ベトナム戦争
1965年、ベトナムのブレイク(地名)にあるアメリカ軍基地が南ベトナム解放戦線により壊滅、将校が多数殺害されるという事態が発生した。 激怒したジョンソン大統領は、航空機による北ベトナム中枢への報復爆撃、いわゆる「フレイミング・ダート作戦」を即日命令した。
空軍参謀長として北爆を推進していたルメイにとっては
「北ベトナム問題に関する私の解決策とは、彼らに率直にこう言ってやることです。刃向かうな、攻撃をやめろ、さもなくばわれわれはお前たちを爆撃して石器時代に戻してしまうぞ、と。われわれは彼らを陸軍の力ではなく空軍力・海軍力で石器時代に叩き込むでしょう。」
と、述べてB52部隊の再編を開始した。
そして宣言通り、瞬く間に北ベトナム全土がB52の爆撃と空襲にさらされた。
ところが当の本人は1965年に自ら除隊している。


1972年冬ニクソンがデタントで時間を稼いでる間、北ベトナムを譲歩させるべく、北の都市港湾施設を大規模に絨毯爆撃を行う「ラインバッカーⅡ」が発動された。
泰、グアムから出撃した百機ちかいB-52ストラトフォートレスはハノイ、ハイフォンを夜間爆撃、延べ12日間に渉る猛爆を行った。
これに対し北ベトナムはソビエト軍事顧問の指導のもと毎夜200発近くのSAMミサイルによって迎え撃った。
作戦当初「ミルク運び」と形容された戦略爆撃は北ベトナムの対空砲火によってダメージを受け始める。
米軍発表で12機、北ベトナム発表で34機の「空の要塞」が撃墜されたとされる。
北ベトナムの戦法はチャフ回廊の中を編隊飛行してくる米軍の戦法を見破り、レーダー誘導によらず側的された高度で爆発する近接信管を用いたSAMを打ち上げる、というものであった。
この作戦は「クリスマス爆撃」として国際的な大非難を浴び、翌年1973年に終結した。
パリ和平条約は作戦前の原案とほぼ変わらないものであった。
「空のディエンビエンフー」と呼ばれている。

ハノイ上空ディエン・ビエン・フー作戦
http://urx3.nu/N4ss

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